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「安彦、テストの点だけじゃ三年には上がれないぞ」
そういって通緒のクラス担任が数学の小テストを返す。通緒はそれを、はいはい、と面倒くさそうに受け取った。一年前にも受けている授業内容で赤点を取るわけにはいかない。第一、学年順位が下がれば千尋からのペナルティが待っている。もちろんモチベーションを上げるご褒美もある。学年順位で千尋を抜くことができれば部屋にあげてくれるという。それを目標に今年は頑張れそうな気がしていた。
「わかってますって、センセ。今年は留年しねーから」
もともと成績優秀だった通緒は少しくらいのさぼりと素行の悪さは許してもらえていた。だが、去年の十二月のある日から、不登校になっていたのだ。それはnightmareとしての仕事ではなく、ごく個人的な理由での休学だった。学校からはアメリカに住む通緒の叔父には連絡が行ったが、叔父も通緒を説得することはできなかった。
「安彦、桐越の」
「センセー!俺、その話したらまた泣いちゃうよー?」
「わかったよ」
そう言ってクラス担任はまた別の生徒に答案を返した。
授業を終え、昼休みになると静かに通緒は一階の第三教材室に向かった。
鍵は壊れておらず、通緒はこっそり手に入れた合い鍵を使って中に入る。学際に使われる機材や看板などが置かれているその部屋は一年のうちに数日間しか使われることはない。
窓際に重なる段ボールのマットに通緒は寝ころんだ。窓からは青い空が見える。晴れているときは最高の昼寝場所だ。
昼休みが終わるまでの約二十分間、通緒は眼を閉じて昼寝を堪能する。
チャイムが鳴る直前、突然ドアが開き通緒は機嫌が悪そうに上体を起こした。
見知った顔がこちらを見ていた。
「通緒、もうすぐ5時限目。ほら」
「何でここだってわかったんだよ」
立ち上がり軽く埃をはらうと足元にあったガムテープのゴミをわざとドア横のゴミ箱に放り投げる。
「屋上と科学準備室にいなかっただろ」
「あっそ、保健室は?」
笑いながら聞くと今度は瑞希が顔をしかめ、俺が寝てたんだ、と答える。
「探してくれたんだ?心配して?」
第三教材室の鍵を閉め、通緒は機嫌よく瑞希の横を歩き始める。
「お前も保健室でさぼるのたいがいにしないと来年ナナピオとノンタと同じ学年になるぞ」
嬉しそうにそう言って廊下の窓から青空を眺めた。
風が前庭の桜を揺らし、芽吹きを促しているように見える。春は、もうすぐそこまで来ている。
四人がフォーマルウェアで揃ったのは四時ころだった。七瀬は瑞希の用意した黒のスラックスとワイシャツに着替え中だ。
今日は台所に立つのは通緒ではなくエプロンをつけた千尋だった。
通緒は帰ってきてからずっとスポンサーと電話でやり取りしている。内容のだいたいは昨日の動画の件だった。電話をしながら吸い始めた煙草はすでに三本目になっていた。
野原と瑞希は顔を隠す方法について話をしていて、目立たないようにするか目立っても顔ばれを防げればいいか話し合っている。
「なんかいいっスねー」
着替えを終えた七瀬は階段横のキッチンに入りしみじみとつぶやいた。
「何?」
エプロン姿の千尋が野菜を切りながら会話をつなぐ。七瀬はここにきてから身に着けた皿洗いをしながら話し始めた。
「俺ってば武家の跡取りみたいな躾されてきたんスよね。他の道場生ともこんな風に過ごしたことなかったし。だからなんかこういう、合宿みたいな感じとか憧れてたジャン」
「そうなの?学校の修学旅行とかは?」
「いやー、あんまり楽しかった記憶ないっスねー」
いつの間にか電話を終えていた最年長が、なんだよそれ、と突っ込んで会話に割り込んできた。
「千尋ちゃん何か手伝う?」
すかさず通緒は二人の間に割り込み居場所を求めたがあっさりと千尋に断られ、しぶしぶキッチンテーブルに場所を移動し二人が見える位置に陣取り会話のつづきを聞く。
「実家が剣道の道場なのよね?ナナピオ」
「そーなんス。江戸時代から続いてる剣術流派なんスけど、しきたりがめっちゃあってうんざりなんスよね。父親が師範なんスけど親だと思ったことは一度もないっス」
千尋は鍋に野菜とベーコン、ソーセージを入れ、戸棚からローレルを出して放り込んだ。
「何かしたいことはある?」
「へ?」
千尋は七瀬の皿洗いの中の水で手を洗い、七瀬の顔を下から覗き込んだ。
「家出してきて、今は自由じゃない?それに、ここは飛び切り自由な環境よ。何か、挑戦してみたいこととかはないの?」
七瀬は手を止めてしばらく考え込んだ。千尋が水を止めると、七瀬はうつむいて少し照れ臭そうに声を出した。
「そーっスね、バイクとか乗ってみたいジャン!キャンブ先輩の車に乗るのちょっと怖いし」
「だそうよ」
こちらをじっと睨み続ける通緒に笑顔を向けて千尋はバトンを投げた。もちろん千尋の笑顔が自分に向けられているわけではないことを承知している通緒は、ふてくされた声で返事を返す。ちゃんと洗えよ、と低い声の八つ当たりを受けて七瀬は再び皿洗いに励んだ。
千尋の料理がひと段落したところで通緒は瑞希に声をかける。
「じゃあー、今日の心構えについて」
キッチンテーブルに全員が顔をそろえて瑞希の話を聞く。
「作戦はシンプルに、いのちだいじに。特にノンタとナナピオは危なくなったらすぐに引くこと。ターゲットと対峙したときは相手の動きが鈍る程度でいい。上杉はロビーで相手の人数とおおよその配置を確認して報告。俺たちが中に入ったらすぐに車に移動、必ず退路を確保すること、それから」
ちら、と通緒の顔を見てから野原を呼ぶ。
「ノンタ。今回、通緒が一人で乗り込むから武器の所持ができない。ノンタは通緒の合図で最上階の2007号室に突入できるようにすること。それまでSネットバンクの人間にはノータッチ。絶対顔を見られないようにする」
野原はしっかりとうなずいて見せる。
「ナナピオは俺と一緒にできる限りターゲットの数を減らす。退路には誰も近づけないのが目的だから、エレベーターと階段回り重視ね」
七瀬がビシッと敬礼したのを確認して通緒に向き直る。
「通緒、判断は任せる。野原の身体能力は過大評価していい。ただ、一人じゃないってことを忘れるな」
瑞希は通緒を睨むようにまっすぐ見つめている。通緒は手にしていた煙草を消し、あえて瑞希の顔は見ないようにした。
「ノンタは俺のブレーキってことかよ」
「みっちゃん!」
不安に思った千尋がすかさず声荒立てるが、通緒は笑って見せた。
「大丈夫。俺は居なくなったりしない。ここが俺の家だ。帰ってくるから。カンブはホント心配性だからなー」
「ちゃんとかまってやらないと拗ねる幼児がいるからなー」
学校でのことを思い出して得意げに笑う通緒に、瑞希はにっこりと笑い返した。