あら、旦那様は笑っています?
ユージンは、おそらくまた余計なことを考えているであろう妻を腕に囲ったまま、応接間のソファに腰を下ろした。
ようやく夫に意識を向けたエイダは、真っ先にこの状況を疑問視したらしい。
「ユージン様、お離しください。これではまともなお話ができません」
「お前と話していて、まともに話せたことの方が少ないだろう」
彼女の話は、自分の脳内で完結して、あちらこちらへと飛んだりする。ついて行くことはまず不可能だ。
今だってそうだ。「そうでしたか?」と小首を傾げる彼女の思考は、既に別の波に乗っているのだろう。その証拠に、「そういえば、今朝の紅茶は上手く淹れられましたの」と相手にとってはなんの脈略も無いことを口にしている。
大方、ユージンの母からも似たようなことを言われたことを思い出し、そこから連想されたベデリアとの思い出が口をついて飛び出したのだろう。
それが分かる程度に妻の思考を読み取れるようになったことを、誇ればいいのか泣けばいいのか、ユージンには判断が付かない。
とりあえずは、この面倒だがたった一人の妻である馬鹿可愛い女が自分の腕の中に戻ってきたことに安堵する。
あとは事情を聞き出し丸め込めば、ことはそれで済むはずだ。丸め込めなければ、部屋に押し込めば良い。彼女がいない間に、それとなーく屋敷を改装した。イザとなった時の監禁部屋は地下に準備してある。いつでも使える。
この女のことだから、閉じ込められていることにすらしばらく気付かないかもしれないが、それはそれとして。
「で、なんで家を出た?」
エイダ相手に、遠回しな言葉など無駄であることは重々承知している。ハッキリきっぱり言わないと、どんな解釈をされるか分からない。
ただ、ハッキリ伝えても、上手くいかない時もある。
「ユージン様の幸せのためですわ!」
──例えば、まさに今である。
紅茶の淹れ方をにこにこしながら話していた彼女は、自分の話をぶった切られたことなど一切気に留めず、ユージンの質問にドヤァと答えてみせた。
「俺の幸せに、お前の家出が必要なのか?」
「必要不可欠です」
いやだわこの方って何も分かっていらっしゃらないのね、という悟り顏を向けられ、あまりの理不尽さに、この女ここで押し倒して良いだろうかと魔が差しそうになったが、辛うじて堪える。
「ユージン様、『真実の愛に目覚めて』という御本をご存知?」
「ああ。あの不倫本な」
「あれは壮大なる大恋愛の御本ですわ」
うっとりとするエイダの耳には、『不倫本』と一刀両断したユージンの言葉は入っていないらしい。この分では、あの手紙(嘆願書)も『何を仰っているのかしら。サッパリ分からないわ』で済まされていそうだ。
それより何より、やはりアレが原因か。後で燃やそう。あと本が出回らぬように工作しよう。それから裏で著者を締める。
ユージンは心に決め、なるべく怒りを抑えて続きを促す。
「それで? 言っておくが、俺は不倫なんぞしてない。それとも、まさか俺にその本が示す“真実の愛”とやらに目覚めろと?」
「はい! そういった愛の方が燃えるそうですから。妻以外に抱く背徳的な熱情! それこそが幸せの第一歩! 不肖ながらこのエイダ、その一石を投じさせて頂きましたのよ。──なのにユージン様ったら、後妻は迎えないなどと仰るので、私、もうビックリしてしまって。それで仕方なく恋愛の指南をしに参りましたの」
なんの迷いも無い回答であった。それどころか、褒めてくださいまし、と顔に書かれている。
ふつふつとした怒りが再燃してきていることを自覚する。それを抑えるつもりは、もうユージンには無かった。
「俺が、お前を手放して、他の女と幸せになれると、本気で言ってるのか?」
常人であれば笑顔から滲む怒りに卒倒するのであるが、エイダにはそれが効かない。あまつさえ、あら笑ってくださったわ、と思っている始末である。
「だってあのお話の中では、旦那様は、元の奥様といるよりも、そちらの方が幸せでしたもの」
なんの裏も無い、ただひたすらに純粋な言葉だ。
──いっそ、喋れなくしてしまおうか。無駄なことなど、一切できなくしてしまおうか。
首に伸びた手を気にするでもなく、エイダは続けた。
「ユージン様は、領民のことをとても大事にしておりますわ。みんな申しておりました。私、話を聞いたから知っていますのよ! みんな幸せなのです!」
どうだすごいだろうと言わんばかりに、彼女は胸を張ってみせた。自分の腕の中で、こちらの胸中などちっとも知らずに、えへへ、と笑うだけの馬鹿な娘を見下ろす。
「ユージン様はみんなを幸せにしていらっしゃるのです。だからユージン様のことは、私が幸せにするのですわ」
「……考えた結果がこれか?」
「より幸せを求めるのが、私のお役目ですもの! 旦那様と“お揃い”です!」
目が輝いている。
繰り返すようだが、一切迷いが無い。
一瞬息を飲んだユージンは、はあああああ、と大きく息を吐いた。無性に頭を掻き毟りたい衝動に駆られる。
きっとそうしたら、「大丈夫ですかユージン様。ご気分が優れないの?」と馬鹿娘は心配そうに自分の顔を覗き込み、その小さい手をユージンの額に当て、熱を測ろうとするのだろうと思った。
「お前それで……俺が他の女と幸せになったとして、それで良いのか?」
下手したら『良いです』と即答されそうだな、という多少の諦めと共に、かなりの緊張感を持って訊ねた質問に、エイダはさらりと答えた。
「私の気持ちとしては良くありませんが、何より旦那様が幸せなのが一番ですもの。ユージン様が幸せなら良いのです」
「………………」
しばしの沈黙。どうかしましたの、と顔を覗き込もうとしたエイダの顔を、自分の胸に押し付けると、ユージンはなるべく優しく聞こえるように囁いた。
「なあエイダ、お前、まずは一週間くらい部屋で過ごさないか?」
「あら、せっかく今はお花が素敵な季節なのに、嫌ですわ。それに私、森で暮らしますもの」
「そうか」
そうか。その一言に想いの全てを注ぎ込み、ユージンは片手を机の上に伸ばすと、一冊の本を掴んだ。
──準備しておいて良かった。
「エイダ、お前この本を知っているか?」
胸板への押し付け攻撃から解放されたエイダは、装飾の綺麗な本のタイトル『光の在り処』を見て、首を傾げた。
「この本は、ある夫妻の恋愛を綴った話だ。妻は、夫の愛情を疑い、家を出て失踪する。しかし再会した夫は、ひどく憔悴していてな、妻は己の過ちに気付くんだ。二人は一度は離れたことで、お互いの大切さに気付き、絆を……そして愛を深める」
「まあ、素敵なお話ですわね」
出て行った後で、妻は別の男と関係を待ち、夫も喪失感で自暴自棄となりどこぞの女と関係を持つのだが、その辺りは割愛する。話したところで藪蛇になるに決まっているからだ。
あの不倫本と同様、エイダには読ませないように画策しよう、と心に決めながら、何故婦人の間ではこういった本ばかりが流行るのだろうかと文句を言いたくなる。こっちの苦労も考えてほしい。
「俺も同じだ、エイダ。お前がいなくなって、俺がどれだけ辛かったか、分かるか? 屋敷を改造して監き……いや、とにかく身を引き裂かれる思いだった。……引き裂いてやりたいとも思ったが」
エイダの瞳がうるうると潤み始めた。つい漏れた後半は聞こえなかったらしい。
よし、あと少しで丸め込める。ユージンは内心で拳を握った。
「わ、私も……私も辛かったです。せっかく頂いた文鎮も、手紙をとめるために持って行けなかったですし。旦那様の幸せのためだとはいえ、他の女性に旦那様が笑い掛けるかと思うと……」
「そうだろう? じゃあ同じだエイダ。お互いの絆を確かめ合ったんだから、もう不倫は無理だ。俺たちはこっちのパターンで行こう。そうしよう。な?」
畳み掛けるように告げると、それでも『真実の愛』に未練があるのか、エイダは目を彷徨わせる。
それに、とユージンは笑った。
「俺が仕入れた情報によるとだな……」
きょとりと素直に顔を向けるエイダに、ユージンは「しっかり心に刻み付けておけよ。万が一にも忘れるなよ」と前置きしてから、続きを伝えた。
「不倫をして別れるパターンと、絆を確かめ合い共に生きるパターン。どちらかに進んだら、後戻りは不可だ。後戻りすると……つまりお前がもう一度逃げ出したりすると、二人とも不幸になる。でもそれさえ犯さなければ、最高に幸せになれる」
一概に嘘とは言えないだろう。もう一度失踪するなんてことがあれば、今度こそ問答無用で自由を奪う。
それはそれで幸せだとは思うが、最高に幸せ、とは言い難いものがある。
「──エイダ、お前は俺を幸せにしてくれるんだろう?」
情報量に負けて目をぐるぐると回していたエイダは、しかしその言葉に、即座に応えた。
「はい! 勿論です、旦那様!」
ユージンはふわりと笑った。仮面の笑顔ではない。彼女の前でだけ出せる、本当の笑顔で。
監禁して自分だけのものにしてしまうのも良いが、馬鹿な娘は自由にしているのがやはり一番だ。面倒だけど。
いつも通り、能天気にユージンの腕の中で囀っていればいいのだ。
「なら、森には帰らないよな。部屋で過ごすか?」
「先程も申し上げたではありませんか、今の時期に部屋に篭るなんて勿体無いですわ!」
すぐに忘れるなんてまったく仕方ない方ですこと、とお姉さん面をするエイダを見下ろしたユージンは、にっこり笑って彼女をソファに倒した。
これにて本編終了です。
(来週こっそり後日談投稿します。ご覧頂ければ跳んで喜びますが、内容としては読まなくても問題ないです)
未熟者のため、読み難いところもあったかと思います。そのような中、最後までお付き合いくださり、ありがとうございます。
少しでも楽しんで頂けたら嬉しいです。
★例によって、あとがき(キャラ語り、裏話)は活動履歴にて!