みなさんお疲れのご様子です
エイダが身を隠してから一ヶ月。
初日以降お世話になっている婦人と楽しいティータイムを過ごそうと思っていたのだが、常に穏やかな表情を浮かべる婦人は、懐から手紙を取り出すと、静かにエイダを見つめた。
「エイダ、わたくしの名前は、本当はリアではなく、ベデリアといいますの」
「あら、そうなのですね。リアというのは愛称でしょうか。どちらも良い響きのお名前ですわ。それにユージン様のお母様と同じ名前です。とても素敵です」
できたご領主様の母君と同じ名であれば、きっと光栄なことであろうな、とエイダは考えた。自分もベデリアという名に改名しようかしら、と途方も無いことを考える始末だ。
「わたくしが、ユージンの母なのです」
「……まあ!」
言われてみれば、ユージンと目鼻立ちがそっくりであるような気がする。
振る舞いが、城下町の商売人の妻と比べると気品に溢れているので、どこかの貴族ではないかと考えてはいたが、生来の楽観的な頭は「貴族でも森で生活することができるのね。良かったわ」くらいにしか捉えていなかった。
しかし彼女がユージンの母だとするなら、困ったことがある。
「リア様がユージン様のお母様ということは、私がここにいることで、お二人の間に亀裂が入ったりするのでしょうか。それは大変、よろしくないことです。やはり私はここから出て、一人で森で暮らすべきですね」
頭の回転が速いのか遅いのか、物事に敏いのか鈍いのか、惑わせるようなことを口にしたエイダは、困ったように頰に手を当てた。
「そのことなのだけど、エイダ。貴方もう一度だけ、うちの息子と話してもらえないかしら」
それはできませんわ、と返答する前に、ベデリアは取り出した手紙の封を目の前で解き、中身を全てエイダに差し出した。
「読んでご覧なさい」
穏やかさの中に、有無を言わさない強さがあった。
エイダは戸惑いながら、手元の手紙──手紙にしては分厚いが──に視線を落とす。
『嘆願書 〜奥様、お戻りを!〜』
手紙、もとい書類には、そんなタイトルが付けられていた。決定したのはメイドあたりだろうと当たりを付ける。こちらは真剣だというのに、何をふざけているのか。──エイダは自分のことはいろいろと棚に上げて文句を言った。
タイトルページを捲ると、そこからズラリと各々の言葉が載っていた。
嘆願①:商人
「エイダ様、後生ですから戻ってやってくだせぇ。確かにユージン様は、エイダ様がおらなくなっても立派に領主としてやっとりやす。だから領民が野垂れ死にすることは無いと思いますがね、先にユージン様が生ける屍と化しそうで、不憫でならねぇ。あと奥方様向けの商品を見せるとあからさまにしょげ返るんで、やり難くてしょうがねぇんでさぁ」
嘆願②:門番
「エイダ様、ちょっと怒りっぽくて嫉妬深くてたまにわけわからんユージン様が鬱陶しくて出て行かれたのかもしれませんが、あれでよくエイダ様を愛していらっしゃる御方ですので、どうか見捨てないでやってください。義務を果たそうと見回りを怠らず、我々にも以前と変わらずお声を掛けてくださるんですが、目が死んでて怖いです」
嘆願③:メイド
「奥様ぁ、最近の旦那様、色気がヤバイですよ。ちょっとげっそりしてますけどあの潤んだ目が、こう……キますよ! で、ワタシ好みであることに変わりはないんですけどぉ、夜な夜な奥様の部屋の前に立たれてジッとされてるのはちょっとウザ(二重線で訂正されている)やっぱりとても可哀想だなって思います。奥様すっごく愛されてるのでとりあえずアレどーにかしてくださいよぉ」
嘆願④:執事
「奥様のお好きな紅茶をご用意して、お帰りをお待ちしております」
嘆願⑤:子供
「ごりょーしゅしゃま、かわうそー」
嘆願⑥:…………
嘆願⑦:…………
……………………
全ての嘆願に目を通すと、エイダは首を傾げ「旦那様は私の知らぬ間にカワウソになられたの?」と至極どうでもいい感想を述べた。「随分と前からカワウソになっていたようですわよ」とベデリアも割と適当に返事をした。
「エイダ、続きがありますよ」
指摘され、あら本当、と声を上げる。以上、で締めくくられていたので、てっきりこれで終わりだと思っていた。
『エイダへ』
旦那様の字だわ、とドキリとする。
『お前の謎の行動には常日頃から度肝を抜かれていたが、まさか出て行くとは思わなかった。お前のことだから、何か俺には想像もつかない、突拍子も無い発想を持ってして、家出を敢行したのだと思われる。
本棚に一冊だけ、最近手に取ったと思われるものがあった。既婚の貴族男性が、踊り子の女性と恋に落ち、真実の愛に目覚めるという戯けた内容だ。お綺麗に書かれているが、やっていることは不倫以外の何物でもない。だが、まさかお前、これに感化されたのか? 俺がいつか不倫すると? あるいは今、不義理を働いていると疑ったのか?
お前のそういった行動は、された方は堪ったものではないと、これもまたお前には常日頃から伝えていたつもりであったが、伝わっていなかったのだろうか。伝わっていなかったんだろうな。あるいは伝わっていたが、次に繋げていないのだろうな。分かってはいた。分かってはいたが勘弁してくれ』
つまり何が言いたいのかしら、と困惑するエイダの気持ちを読んだわけではあるまいが、次の文章は「つまり何が言いたいかというと」と続いていた。
『つまり何が言いたいかというと、俺は、エイダ、貴方を愛しているんだ。
頼むから戻ってきてくれ。
後妻を娶るつもりはない。生涯お前だけがいい』
最後の文章を読むなり、ひゃあ、とエイダは悲鳴を上げた。次いで、なんてことなの、と続ける。
「リア様、大変です。私、今すぐに旦那様、ユージン様と、お話をしなくては」
いつも通り穏やかに、けれど少し嬉しそうなベデリアは、しかし次のエイダの言葉にピシリと固まった。
「ユージン様は、大変な思い違いをしておられます! ユージン様の幸せのために教えて差し上げなくては!」
ともあれ、帰還は帰還だ。
あとは息子がどうにかするだろうと、ベデリアは若干投げやりな感じでユージンに嫁を送り返した。
そんな姑の気持ちなど知らぬエイダは、その心の内を知れば、誰も彼もが思わず突っ込みを入れたくなるであろう決意を胸に、一ヶ月ぶりに屋敷に舞い戻った。
「奥様! エイダ様! よくぞお帰りになりました!」
「あら門番さん、私はあくまで話し合いに来ただけで、帰って来たわけじゃありませんのよ」
「え……」
愕然とする左右の門番の間を通り抜けて、エイダは軽い足取りで応接間に向かう。そこで話をしようと事前に言われていたのだ。
扉を開けてすぐそこに、頰がげっそり痩けた、それでいて眼光はエイダが今まで見た中で一番鋭い旦那様が立っていた。
彼はエイダの姿を捉えるなり、自身の両腕でしっかと彼女を囲んだ。バタン、と背後で扉が閉まる。ガチャン、と錠が落ちた音がした気がしたが、はて?
(ここ、外側から鍵を掛けれたかしら)
自分の記憶と突き合わせることに一生懸命なエイダは、これでもかというくらいぎゅうきゅうと自分を抱き締めている夫のことを考える余裕は無かった。
読んで頂き、ありがとうございます。
ようやっとご対面です。