──何より得難いもの
ベデリア=アッカーソンは、平民出の女だった。召使いとして働いていたアッカーソンの屋敷で、ユージンの父に見初められ、彼の妻となった。
そこに愛があったのかと問われると、彼女に答えは出せない。
ベデリアにとって、彼はあくまで雇い主であった。しかし、徐々に暴虐へと走っていく彼から離れない程度に、情はあった。愛の言葉を囁かれることがなくなり、時に殺されかけるようになっても、傍にいた。また彼も、そんな状態になってもベデリアを追い出すことはなかった。
それを歪ながらも愛と呼ぶなら、確かに二人の間には愛なるものがあったのだろう。
そして、その愛が形になったものが、息子であるユージンだったのだ。
ユージンは、劣悪な環境下に身を置きながらも、めきめきと力と知識を得ていった。傍に置いた執事の功績も大きいだろう。
彼はそんな息子を恐れ、時に虐げながらも、しかし決して殺すことはなかった。その扱いは、ベデリアに対するものと近しいものがあった。
やがてユージンは、彼を殺す力を手に入れた。このままでは飢え死にするしかない領民を救うためには、彼は冷酷に、そして冷静に、自分の父を殺す必要があった。何の感情にも左右されずに、そうしなければならなかった。
自分の胸に刺さったナイフを見て、彼は笑っていたような気がした。
床に夫がどしゃりと崩れ落ちる瞬間を、ベデリアは眺めていた。
泣くことも笑うことも忘れ、冷徹な仮面を被った息子を、ベデリアは見上げた。
歪んだ愛が産んだ息子は、なるほど、どこか歪だった。その歪さを愛おしいと感じる自分もまた、おかしいのだろう。
ベデリアは、そっと膝をついた。強靭な生命力で未だ息をしている夫に訊ねる。
「貴方は、こうやって死にたかったのですね」
否、それはただの確認に過ぎなかった。
彼はおそらく、自分が歪むことも、狂うことも、知っていた。だから自分を殺せるであろう存在を、屠ることができなかった。本能的に怖がり、それでいて傍に残した。適切な時に、命を散らすために。
馬鹿な人だ。
光を失いかけている瞳が、ゆらゆらとベデリアを捉えた。
「私は、貴方を、愛していたかもしれません」
胸に刺さったナイフを両手で掴みながらそう言えば、彼はくっと笑った。笑いながら、震える手をベデリアの手に重ねる。おそらくほとんど力が入らない、動かすことすら精一杯の手で、語ったのだ。自らの望みを。
「母上……?」
戸惑う息子は、きっとこの感情は知らない。それでいい。
「貴方を殺すのは、私。その方が、貴方も嬉しいでしょう」
「ああ」
それが最期の言葉となった。
切っ先から赤が溢れるナイフを眺める。夫の身体から噴き出した血が、彼がベデリアのために買ったドレスを染め上げていた。赤い海が、床に広がっていく。
虚空を見つめる瞳に、既に光は無い。
「馬鹿な人」
口に出して呟けば、その声は不自然に震えている気がした。
けれど、きっとそれは、気のせいだ。
気のせいでなければならない。
ベデリアはそう思うから。
あれから早、十年の月日が流れた。
荒れに荒れ、底辺を這い蹲っていた財政状態と治安を、なんとか平均値まで戻すのに五年。それを上向きにしていくことに五年。今はまだ、道半ばだ。
全ては優秀な息子ユージンの手腕だ。
不出来な両親の下に、よくぞ産まれたものだと笑ってしまう。
その代わり、感情を捨て切った仮面のような顔をしている。仕事のために笑うことはあるが、本心からの笑みは出ない。泣きもしない。
変わったのは、あの娘が来てからだ。
ベデリアとは違う、貴族の娘。たくさんの愛を当然のように受け取り、当然のように返してきたのであろう、愛らしい娘だ。
社交場や学校では愛憎劇もあったはずであるが、何故だか彼女からはその気配を感じない。気が付いていないのではないかしら、と思う。彼女の世界は盲目的な光に満ちていて、それ故に温かい。
それを善とするか悪とするかは人によるだろうが、ベデリアは善と捉えた。
何故か、と問うことは愚問だ。
あの娘が来て、ユージンは仮面の取れた顔も見せるようになった。
表舞台にはいられないと森に引き篭もった母を訪ね、わざわざ「あの馬鹿娘が」と報告してくる時の、不貞腐れたような顔! 精一杯不機嫌そうにしているくせに、目に灯る瞳がとびきり甘いのだ。
──どうか、父と母のようにはならないでほしい。
その願いは、同時に息子が持つ願いでもあった。彼は自分の中に父の血が流れていることを恐れているのだ。
いずれ狂い、領民を、そして妻を手に掛けるのではないか、と。
果たしてそのような日が来てしまうのかは、ベデリアにも、誰にも分からない。狂う自分を見続けた夫であれば分かるかもしれないが、彼はもうこの世にはいない。
ふ、と息を吐くと、目の前にティーカップがコトリと置かれた。
「リア様、見てくださいまし! 今日はとても美味しく紅茶が淹れられましたのよ!」
一ヶ月前、リアと名乗ったベデリアが、行く場所がないならここに住めば良いと提案すると、エイダはなんの疑いも無く、あまつさえ「まあ良いんですの!?」と喜んだ。いつか怪しい商法に引っ掛かるのではないかと、ベデリアは不安だ。
彼女は今、えへんと胸を張っている。
ベデリアが憂鬱そうだから茶を勧めた……わけではなさそうだ。こちらの気分を読んでの行動ではないことは、すぐに見て取れる。
輝く瞳に苦笑を返し、紅茶に口をつける。確かに美味しい。
最初は、何故淹れるだけなのにこんなものが、と戦慄する程、恐ろしいものができあがっていたのだ。
「美味しいわね」
おっとりと返せば、「そうでございましょう!」となんの気負いも無い嬉しそうな声が家中を駆け回った。
一人では何もできない娘だ。
森を歩けば道に迷い、その度に“影”がそれとなく道を示す──あろうことか彼女は、音がする方向に寄っていくのである。獣が現れたらどうする気なのだろう──。初めにこの小屋に辿り着いたことが奇跡的だと思う程に迷うのだ。
紅茶は出来が最悪だったし、料理は完成する以前の問題だった。薪割りは、やりたいと言ったがやらせなかった。さすがに片腕になるのは可哀想だ。
失敗した時は申し訳なさそうな顔をするのだが、それがどうも次に繋がらないらしい。同じ失敗を繰り返す。
たまに……否、割と頻繁に苛立つのであるが、何故だか憎めない、不思議な愛嬌を持つ娘なのだ。
そしてその娘は、何ひとつ満足にできないが、唯一、ベデリアの息子であるユージンの仮面を外してくれる。
これ以上に得難いものが、いったいどこにあるというのだろう。
あとは、そう、望むとすれば、健康で長く生きて欲しいだとかそのくらいである。
ユージンを一人残さないで欲しい。──しかし彼女が一人取り残されるのもそれはそれで不安なのだが。領土の統治という観点で。
まあその頃には立派な跡継ぎが育っているだろう。その辺りの抜け目無さはユージンの得意とするところである。
そのためにはいつまでもここに置いておくわけにはいかないのだ。
例え、少し──ほんの少し、毒に侵されたようにこの生活に魅力を感じているとしても、彼女はユージンのもとにいるべきである。それにエイダがここに住み着いて以来、ユージンからの訪問を断っているのだ。そろそろ息子の顔も見たい。孫の顔も死ぬ前に見ておきたい。
自身に言い聞かせるように理由を重ねると、ベデリアは何気なさを装い、自分の懐から手紙を──手紙と呼ぶには少々分厚い手紙を取り出した。
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