『七人ミサキ』
この話は、姦本編以降の話になります。規定の四万文字内に入ったので、まとめて掲載しています。
◆壱・林鐘
閑静な公園の林道を、老人――入江正信は杖を付きながら歩いていた。周りは薄暗く、人の気配もしない。入江はこういう時間こそ集中出来ると、夜中十時であるにも拘らず、自宅から百メートルも離れていない林道を徘徊していた。
空を見上げると、風の流れに沿って流れる雲と下弦の月が見える。入江はそれを見上げながら、頭の中でメロディーを奏でていた。
彼の仕事は作曲家であり、こうして新しい曲の構造を練っていた。自宅兼用に仕事場があるにはあるのだが、今現在入江の歳は九十を過ぎており、いつ死んでも可笑しくない年齢である。
彼が長年培ってきた音楽産業においての資産総額は優に八億は下らないと云われており、そのことで後取り問題が、家族や、弟子たちによって言い争われているのだが、まったくお金に無頓着な入江は、喧々とした周りの環境の中では、まったく集中出来ないし、なにせ少しの雑音でも癇癪を回すくらいなので、閑静な町外れに家を建てたとて、こうして雑音すらしない林道でしか集中できないでいた。
――懐に忍ばせていた携帯が震えた。マナーモードにしているのは、頭の中でメロディーを奏でている時、着信音でメロディーを邪魔されたくないからである。
「もしもし……ああ、一之瀬くんか。今どうしている? そういえば、今度の日曜に、福祀町の方で演奏会があるそうじゃないか。なんでも、地元の子供たちのために、童謡やアニメの曲をするそうだね」
『ええ。実は先生にそのことで相談がありまして』
「なんだ? 云ってみろ」
『実は先生が書かれた曲を、演目に入れてまして、その……』
「なんだ歯切れの悪い。言いたいことがあるなら言ってみろ」
『――その曲を、先生自ら演奏していただけないかと……もちろんそれなりに出演料は、主催者と相談の上お支払いいたしますので』
電話先の一之瀬は、申し訳ないような口調で入江にお願いをする。
「急な用件だな。まぁ、君にはわたしの家の提供をしてくれたからね。それくらいなんてことはない。それにわたしとてもう歳も歳だ。人前で演奏することだってあと何回あるかどうかもわからん」
入江は笑いながら言った。「それと、出演料は無償でいいよ」
『い、いいえいいえ、とんでもありません。大作曲家であるあなたに出演してもらおうとしているのに、無償だなんて、あなたがよくても、わたしの首に係わりますよ』
一之瀬は慌てた様子で言った。
入江は少しだけ考えると、「わかったわかった。ではこうしよう……君、『うみ』という童謡くらいは知っておるだろ?」
そう聞かれ、一之瀬は『知っていますが、それがなにか?』
と、聞き返した。
「さて問題じゃ。この曲のキーはなんじゃったかな? 当てればわしからそちらの主催者に連絡して、わしの出演料を無償にしてもらうよう話をつける。が、もし間違っていたら、君が考えている出演料の1.5倍くらいは貰うからな」
そう言われ、一之瀬は少しばかり焦った。
『ちょ、ちょっと待ってください。『うみ』ですよね? えっとGだと思います』
一之瀬がそう答えると、入江は少し間を置いて、「それでいいんじゃな?」
『え、あ、はい……』
一之瀬は少しばかり不安な声で言った。
「――わかった。それじゃぁ正解は――明日、主催者に聞いてくれ」
そう言われ、一之瀬は戸惑った。
『今、教えてくださらないんですか?』
「わしはこれからそちらの主催者に連絡するでな。吉報を待っておれ」
そう云うと、入江は一方的に電話を切ると、すぐに妻である奈緒子に電話をした。
「ああ、奈緒子さんか? すまんが、いんたーねっとじゃっけかな? そっちで福祀町で今度ある演奏会の事を調べてくれんか。ほんで、そこの主催者の連絡先もな」
『わかりました。しかしどうして?』
電話越しに聞こえる声は、老人の妻という割にはどこか若々しい。
「いや、さっき一之瀬くんから連絡があってな、その演奏会に出てもらえんか直談判の電話があったんじゃよ」
『まぁ、そうでしたか。それで、出演なされるおつもりで?』
「ははは、すこし一之瀬くんに悪戯をしてな」
その言葉に奈緒子は『どういう悪戯を?』と尋ねる。
「なに、ちょっとした、ほんとちょっとした悪戯じゃよ――主催者側には一之瀬くんの話を聞いて是非出演させてくださいと連絡しておいてくれ。――あ、出演料は一之瀬くんが考えているやつより……」
突然入江の言葉が止まった。
そして携帯を落としたような、ガチャンという音が奈緒子の耳元で響いた。
『あなた……? あなた――どうしたんですか? なにかあったんですか?』
奈緒子の悲痛な呼び声は、もはや絶命した入江の耳元に届いてはいなかった。
◆弐・演奏会
福祀町の役場の隣に総合施設がある。その一階に小さな喫茶店があり、黒川皐月は丸テーブルに座って、携帯を弄っていた。その表情は苛立っている。
先ほどから大宮に連絡をしているのだが、まったくつかまらない。皐月は喫茶店の時計を一瞥する。午後二時であった。
『――なんか事件でもあったのかなぁ』
と、皐月は思ったが、今日は休日であることを考慮の上でのデートであった。相手である大宮が、警視庁刑事部の刑事であることは、みなさん承知の上であろう。警官は休みの日であっても、事件があれば呼び出される仕事である。
『もう一回、電話してみよう』
皐月はそう考えていると、携帯の着信が鳴った。――着信相手は『大宮』である。
「も、もしもし? 忠治さんっ! そろそろ来ないと演奏会始まりますよ?」
皐月がそう云うや、『ああ、もしもし……すみませんね、大宮くんじゃなくて』
電話越しの相手の声を聞くや、皐月は目を点にした。
「えっと、その声って……阿弥陀警部?」
『ええ、察しの通り、阿弥陀です。さっきから大宮くんの携帯が鳴ってたんですけど、今大宮くん外で聞き込みをしてましてね。なんかデートの約束があったみたいですけど……すみません。大宮くんちょっとお借りしてます』
阿弥陀警部がそう云うと、皐月は少しションボリとした表情を浮かべつつも、「いえ、仕事優先なのはわかってますし……」
と、頭の中で理解していたとて、心の中では納得していなかった。
『大宮くんも残念がってましたよ。すみませんがそう言うことですので……あ、それと今度埋め合わせはするそうですよ』
「そうですか……それじゃぁ、今度は約束破らないでくださいねって、云っといてください」
皐月は、電話を切るさい、つい無意識に本音を言ったことに気付いた。
『さてと、どうしようかなぁ……』
皐月は溜息を吐き、頬杖をついて、外を見遣った。
入り口では小さな子供を連れた母親や、家族連れが多い。
『みんな、今日の演奏会を見に来たんだろうなぁ』
今日、本来なら大宮と一緒に演奏会を見る予定だったのだが、さすがに一人で会場に入るのは釈然としない。かといって、他に誰かを誘う気にもならなかった。
皐月はテーブルから立つと、カウンターに行き、コーラ代を支払って外に出た。
ふと、周りを見ると、電光掲示板のところに、見知った顔の少女の姿があった。
「あれ? おばあちゃん……?」
皐月が小さく声をあげると、そのおばあちゃんこと、咲下海雪は皐月に気付き、近付いてきた。
「あれ? なんで皐月がここに?」
海雪は首を傾げる。「わたしはその……」
「ははぁん、さては大宮巡査とデートだった?」
海雪がそう聞くや、皐月は表情を暗くした。
「ご、ごめん……」
「ううん、別にいいよ。仕事でこれないんじゃぁ仕方ないし……」
皐月はそう言いながらも、まだ心の中で整理が出来ていなかった。
「ところでさぁ、どうしておばあちゃんがここにいるの?」
話題を変えようと、皐月は話を海雪に振る。
「実は今日の演奏会、わたしの好きな作曲家が演奏するって聞いてね。それで見に来たの」
海雪がそう答えると、「へぇ、どんな人?」
と、皐月は聞き返した。
「入江正信っていう作曲家。皐月だって一回くらいは聞いたことあるんじゃないかなぁ、『風の三度笠』っていう時代劇の作中曲を作ったことでも……」
「そ、それ……本当? あの『風の三度笠』とか、『夢想の武士』の曲を作った人がここに来てるの?」
さきほどの暗い表情はどこへやら、皐月は目を爛々と輝かせている。
「え、ええ……、でもあくまで噂だからね。期待はしないほうがいいし、それに他の作曲家の曲も演奏するから、それが流れるとは思えないし」
「そ、それはそうなんだろうけど、少しくらい期待させてくれても――」
皐月の言葉を聞きながら、海雪は無言である方向に指をさした。そこには演奏会のポスターがあり、その横には受付にと設置された長テーブルがある。
「そこに行って、パンフレット貰ってきたら? 演目が載ってるはずだから」
そう言われ、皐月はパンフレットを受け取りに行く。そして受け取ると少し離れたところで開いて読んだ。
「演奏されるわけじゃないけど、でも知ってる曲も結構あるなぁ……、でも本人が演奏するとかは書いてないけど?」
「入江正信が来ると云うのはあくまで噂で、おじいちゃんの知り合いが神社で話してるのを聞いたから来たまでだからね。あんまり期待はしてなかったのよ」
海雪はそう言いながら、ふと視界に慌てた様子の男性の姿が見えた。なにやらもう一人いて、話している様子であり、穏やかではないようだ。
「……っ? どうかした?」
「ごめん、ちょっとそこで待ってて」
海雪はそう云うや、口論している二人組のところへと、文字通り飛んでいった。
「せ、先生が殺されただと?」
『純由』と書かれた小さなネームプレートを胸に着けた男がそう云うと、一之瀬は困った表情で頷いた。
「それで、先生はいつお亡くなりになったんだ?」
「いえ、それがまだ……先生と最後に会話をしたのは奥さんの奈緒子さんですし、わたしは出演の依頼をした直後のようです」
一之瀬がそう純由に説明していると、「おれの家にも電話があったよ」
廊下の奥から、秋もそろそろ終わりを迎えると云うのに、扇を煽った男が現れ、一之瀬たちに話しかける。
「森川さん、あなたのところにもですか?」
「いや、先生本人ではなく、奥さんがな……、『出演料を一之瀬くんが考えている料金よりも』……のところまで言ったあたりで、電話を落としたような声を聞いたそうだ。一之瀬さん、何か心当たりはないですかね?」
そう聞かれ、一之瀬はその晩の事を思い出していた。
「ええ。先生にちょっと問題を出されて、たしか童謡の『うみ』のキーはなにかという問題でした」
一之瀬がそう答えると、純由と森川は考え込んだ。
「それで、どう答えたんだ?」
「Gと答えました」
「たしかに『うみ』のキーはGだな」
三人がそう会話しているのを、海雪は彼らの上から聞いており、皐月のもとへと戻ると、状況を説明した。
海雪が戻ってきたちょうどその時、皐月の携帯が鳴った。着信を見ると――大宮である。
「はい、もしもし……忠治さん、お仕事お疲れさまです」
『あ、皐月ちゃん。ごめんね今日は』
「いえ、大丈夫です。なにか事件があったようですけど、大丈夫なんですか?」
『あ、ああ。そのことなんだけど……どうやら、海雪さんと一緒のようだね』
大宮巡査がそう云うと、皐月は海雪を見上げながら首を傾げる。海雪はなにかに気付いたが、すぐに視線を逸らした。
「忠治さん、なんでおばあちゃんと一緒にいること知ってるんですか?」
皐月がそう尋ねると、うしろに気配を感じ振り返った。
「ちょっと、こっちに用が出来たからね。まさかデートの場所だったとは思わなかったよ」
皐月のうしろには大宮の姿があり、皐月は驚いた表情で携帯を落とした。
「ど、どうしてここに?」
皐月は落とした携帯を拾いながら、大宮に尋ねる。
「いや、殺された入江正信が今日ここで演奏するはずだったと、奥さんの奈緒子さんから聞いてね。それで主催者が来てるはずだろうから、事件当時の事を訊ねにきたんだよ」
「それだったら、あそこで話してる三人組がそうじゃないかな? さっき話を盗み聞きしたけど、慌てていたし」
海雪がそう云うと、「わかった。それじゃぁ、ちょっと聞いてくるよ」
大宮は小さく頭を下げ、一之瀬たちのもとへと駆けていった。
「――あのお兄さん、見えないところに頭を下げたよ」
小さな男の子が、大宮を指差しながら云うと、皐月と海雪は互いを見遣った。
この場にいる人間で、海雪の姿が見えたのは、皐月と大宮だけであった。
◆参・資産
一之瀬たちから話を聞き終えた大宮が、皐月たちのもとへとやってくる。そして殺された時間を二人に話した。
「入江正信が亡くなったのは、昨日の夜十時のことだったそうだ」
「たしか、奈緒子っていう人が最後に電話をしていたって、森川って人が話してたわ」
海雪がそう云うと、大宮は頷いた。
「それでその時間、家族や弟子のアリバイを聞いていたんだけど……」
「誰か、アリバイのない人が出たんですか?」
皐月がそう尋ねると、大宮は首を横に振った。
「いや、まったく……凶器は見つかってすらいないんだよ」
「なにか鈍器なもので叩かれたとか?」
「いや、それどころか血痕すらなかったんだ」
「心筋梗塞とか、歳も歳でしょうし」
「僕はあまり被害者に対して詳しくないし、歳も九十を越えてるらしいから、そういう考えも最初あったんだけどね」
「その口調だと、そういうのもなかったってことですね?」
海雪がそう云うと、大宮は頷いた。
「ただ、ひとつ気になることがあってね」
大宮の言葉に、皐月と海雪は首を傾げた。
「一之瀬と云う人の話を聞くと、被害者は亡くなる前、彼と電話をしているんだ。それでなにやら問題を出されたそうなんだけど」
「たしか、『うみ』っていう童謡のキーはなにかって云う話ですよね。それで一之瀬って人は『G』と答えた」
海雪がそう云うや、皐月と大宮は首を傾げる。
「お、おばあちゃん……おばあちゃんからしたら、すごく簡単なことなんだろうけど、その……『G』ってなに?」
皐月がそう尋ねると、「『G』っていうのは、まぁドレミで云う『ソ』のこと。たしか、『うみ』はト長調の曲だったはずよ」
海雪はごく当たり前に云うが、皐月と大宮にとっては、なんのことやら、まったくと言っていいほどさっぱりであった。
「『ト長調』というのは『調号』のひとつで、ト音記号、またはヘ音記号の横に♯がひとつ付いている長調のことを云うの」
海雪がそう云うと、「それって、なんかこう演奏しなさいとか、そんな感じのやつ?」
「うーん、どう説明したらいいかなぁ……、一般的な『ドレミファソラシ』の音階を『ハ長調』って云うんだけど、例えばひとつ♯が付いた調号だと、キーは『ト長調』になって、『ソラシドレミファ』ってなるの。ここで気をつけないといけないのは、ソが基準になってるから、最後のファはファの♯になってるわけ」
「つまり、最後の音が♯になるんだ」
皐月がそう云うと、海雪は頷いた。
「でも……なんで『うみ』なんだろ?」
「僕もそこが気になったんだよ。別に童謡なんていっぱいあるだろうし、たぶん咄嗟に思い浮かんだのがそれだったんじゃないかな――おっと、連絡だ」
大宮の携帯が鳴り、出ると相手は湖西主任であった。内容は被害者の死因についてであり、高熱による心筋梗塞であることがわかった。
「それって、どういうことですか?」
「まったくわからないけど、たぶん人の仕業じゃないということは――」
大宮は皐月と海雪を見遣った。「妖怪の仕業……ということ?」
海雪の問い掛けに大宮は答えるように頷く。
「そういう症状があったとかはなかったんですか?」
「奥さんの話だと被害者はまったく健康で、若い自分も見習いたいと常日頃思っていたそうだよ」
大宮の言葉を聞くや、皐月は小首を傾げる。
「『若い自分は』って、その奥さんはいったい何歳なんですか?」
「たしか三十七歳と、本人から聞いたよ」
皐月と海雪は、はとが豆鉄砲を食らったような顔を浮かべた。
それもそうだろう。九十も歳のいった老人の妻と聞いて、普通に思い浮かぶのはそれ相応に近い歳である。
しかし妻である奈緒子の年齢は、大宮の云う通り三十七歳と非常に若い。というより、歳が子供と親どころか、へたをすれば孫くらいの年齢差であった。
「話を元に戻しましょう。とにかく、入江正信はそういう心臓病とかの持病は持っていなかった。つまり、大宮巡査はそれがあったから、妖怪の仕業と思ったってことでしょ?」
「なんか、君たちと付き合ってから、理解出来ない事件が妖怪の仕業だと思ってきたよ」
大宮は苦笑いを浮かべた。「そう思っても可笑しくないんじゃない? それにしても高熱かぁ……」
「なにか心当たりでもあるの?」
皐月がそう尋ねるが、海雪は考えに耽っていて、話を聞いていない。
諦めた皐月は、事件の当日、入江正信はなにをしていたのかを大宮に尋ねた。
「奥さん……奈緒子さんの話だと、その日、家には息子さん二人と、四人の弟子を集めて、遺産分配の相談をしていたそうだよ。ただ、その張本人である被害者はまったく興味がなかったらしくてね、その会議に顔を出していないそうだ。それともうひとつ。これは事件とは関係ないんだろうけど、ちょっと奈緒子さんのことでも揉めてるそうなんだ」
皐月は首を傾げ、「それって、どういうことですか?」
と、尋ねた。
「さっきも言ったけど、奈緒子さんの年齢は三十七歳。結婚したのは今から十年前らしいんだよ……。つまり、若い彼女が被害者と結婚したのは遺産目的ではないのかっていう」
大宮がそう云うと、皐月はキッと睨んだ。大宮の言葉に納得しなかったからである。
「ぼ、僕だって、奈緒子さんの態度を見たりしてると、そうじゃない――とは思うんだけど、どうもその奥さんも遺産相続に無頓着なんだよ」
「つまり、夫婦揃ってお金に無頓着と……、そう言いたいわけですか?」
「被害者の遺産だって、本人が今まで培ってきたことだ。遺産相続を決めるのは被害者本人なんだろうけど……、その遺言書が被害者の部屋になかった」
「つまり、本人はまだまだ死なないと思っていた……ということですか?」
皐月の言葉に大宮は頷いた。
「九十にもなれば、死が近付くことを薄々気付くとは思うんだけど、まったくそんなことはなかったそうだ」
「――あっ!」
突然、海雪が大声をあげた。
「ど、どうかしたの? おばあちゃん」
「大宮さん、一之瀬って人に先生から聞かれた問題が正解だったら、どうだったのかを尋ねに行ってきて」
そう言われ、大宮は首を傾げる。
「いったいどうしたんだい?」
「わたしも最初、童謡の『うみ』って訊かれて、パッと思い浮かんだのは『うみはひろいな、おおきいな』の方だったから、そうだと思ったのよ。その曲のキーは、たしかGメジャーだったはずだから」
「それが正解じゃないの?」
と、皐月が尋ねるが、海雪は首を横に振った。
「とにかく、一之瀬って人に話を聞いてきて……というか、ここに連れてきてっ!」
そう言われ、大宮は一之瀬を探しに行った。
――五分ほどして、大宮は一之瀬とともに皐月たちのもとへと戻ってくる。主催者である森川と支配人の純由は、演奏会の準備で忙しいため、連れてこれなかったと、大宮は皐月と海雪に説明した。
「それで海雪さん、君が彼に聞きたいことって?」
大宮が当たり前のように、見えている方角に声をかけるが、見えていない一之瀬はなんのことだからわからず、少し青褪めた表情で、大宮を見ていた。
「け、刑事さん、いったい誰に話しかけているんですか?」
「た、忠治さん、私と忠治さん以外は、おばあちゃんの姿が見えなければ、声も聞こえないんですから」
皐月に耳打ちされ、大宮は少しばかり焦った。
「おばあちゃんの口伝は私がしますから、――それでいいよね?」
皐月はそう海雪に尋ねる。海雪は「わかった」
と、頷いた。
「――それで、話とは?」
一之瀬が大宮に尋ねる。
「あなたは入江正信さんが亡くなられるすこし前に、電話で問題を出されたそうですね?」
「え、ええ。ただ、主催者である森川さんの話だと、僕の答えは間違っていたようです」
一之瀬がそう答えると、「間違っていた? でも、その刑事さんから聞いた話では、あなたは童謡の『うみ』のキーを『G』と答えた。違いますか?」
皐月は海雪の言葉を一之瀬に口伝する。
「ええ、たしかにそう答えました。でも、森川さんから先生の出演料はわたしが考えている金額の1.5倍支払うように、とのことになってます」
「すみませんけど、もし正解だったらどうだったんですか?」
大宮が尋ねると、「先生は無償で出演してもいいと仰っていました」
一之瀬の言葉に皐月は海雪を見た。
「それじゃぁ、たぶん私の考えでは、この曲じゃないんですかね?」
皐月はそう云うと、軽く深呼吸する。
松原遠く消ゆるところ
白帆の影は浮かぶ
干網浜に高くして
かもめは低く波に飛ぶ
見よ昼の海 見よ昼の海
――と、海雪の声に合わせて歌った。
「それって、一体……」
大宮が首を傾げた隣りで、一之瀬が驚いた表情を浮かべる。
「そ、それも『うみ』という、童謡です」
「――そうかっ! 被害者は、童謡の『うみ』が二種類あることを知っている上で、あなたにそんな問題を出した」
「さっき歌った『うみ』は、調号に♭が付いた曲で、キーは『F』――『ヘ長調』なんですけど……、なにか心当たりはありませんか?」
海雪の質問を皐月が言いながら尋ねると、一之瀬は「いや、まったく知りませんけど」
と、答えた。
「被害者は、なんでこの曲を選んだんだろうね? 童謡なんていっぱいあるだろうし」
大宮が皐月と海雪に尋ねると、「それは私に聞かれても……おばあちゃん?」
皐月は再び考えに耽っている海雪に声をかける。
「――おばあちゃん!」
「えっ? あ、ごめん……ちょっと気になることがもうひとつあって――大宮巡査、被害者の死因は『高熱による心筋梗塞』なんですよね?」
そう訊かれ、大宮は頷いた。
「それって、湖西主任がさっき……でもそう言う持病を持っていないって人が、突然そうなるなんて可笑しい気がする」
「――たしかに妙だな。湖西主任は検死の結果そう言う判断をしたんだと思うんだけど。そういえば、小城って人が被害者に対して、妙な事を云ってたな」
大宮の言葉に、皐月はどんなことなのかを尋ねる。
「被害者は最近夜頻繁に出かけていたそうなんだよ。まぁ、家の中が遺産相続のゴタゴタで、いるのが辛いんだろうね」
「あの……、できれば家族構成とか、弟子の数を教えてくれませんか?」
海雪がそう尋ねると、大宮は懐から手帳を取り出す。
「えっと……、奥さんの奈緒子さん以外には前妻の息子である光茂さんと智幸さん。弟子はさっき話した小城さん以外に、江川さん、西島さん、芳田さんがいるね――彼らが遺産相続の件でも揉めてるらしいけど」
「全部で七人……」
海雪はそう呟く。「あの、そろそろよろしいでしょうか?」
一之瀬が大宮たちにそう尋ねると、「おばあちゃん、訊きたいことはもうないの?」
皐月が海雪に尋ねると、海雪は少し考えるや、小さく頷いた。
「すみません、お忙しい中お呼び止めしてしまって」
「いえいえ……では、わたしはこれで」
一之瀬は会釈すると、奥の控え室へと駆けていった。
◆肆・渚にて
気がつけば、皐月と海雪、大宮を除けば、ロビー内の人は疎らになっていた。
「演奏会、始まってるみたいね」
海雪はそう呟くと、「見てきたら?」
と、皐月が言う。
「……やめとく。別に演奏会を見に来たんじゃなくて、入江正信が演奏しているのを見たかっただけだから」
海雪は寂しそうな表情で言った。
「そういえば、おばあちゃんは入江正信がここに来ることを、噂で知ったんだったよね?」
皐月がそう尋ねるや、海雪は少しばかり困った表情を浮かべた。
「と云うより、おじいちゃんがその本人と話してるのを聞いたのよ」
「――源蔵さんが……入江正信と?」
「おじいちゃん、昔バンドやってたとか云ってた。だから音楽関係の仕事をしてる知り合いとか多いんじゃないかな? 入江正信には結構世話になっていたみたいよ」
海雪はハッとした表情で、「まさか入江正信は、最初から一之瀬が自分に出演の依頼をお願いする電話か、連絡があることを知っていた――?」
「どういうこと?」
「……それはわからないけど」
海雪が困った表情を浮かべる。
「一之瀬さん、すみません」
お団子ヘアをした着物女性が、ホールの入り口から出てきた一之瀬に声をかける。
「ああ、これは奈緒子さん。この度は突然のことで」
一之瀬は頭を下げながら、そう云った。
「いえ、先生も悔やんでいらっしゃると思います。自分が作った曲をご本人自らが弾けることなんて、後何回あったかどうかもわかりませんでしたから」
奈緒子はそう言いながら、ロビーにいた大宮を見つけた。
「刑事さんも、こちらにいらっしゃたんですか?」
そう尋ねられ、大宮は少しばかり苦笑いを浮かべた。大宮の横にいる皐月が、大宮のスーツの袖を掴みながら、ジッと奈緒子を見ていたからだ。その視線は『嫉妬』であるとしかいえない。
奈緒子はそれを見て、「そちらは妹さん?」
と、皐月に手を差し伸べながら、大宮に尋ねた。
「――恋人です」
皐月は入江奈緒子をキッと睨んだ。晩熟である皐月なら、普段云わないだろう言葉であったが、危険だと思ったのか、咄嗟に出ていた。
「あら、ごめんなさい」
奈緒子は涼やかな声で皐月に謝った。
「それで、奈緒子さんはいったいどうしてここに?」
大宮がそう尋ねると、「先生が生きていたら演奏なさるはずだった曲があって、森川さんから連絡があったんです」
「こんな時にお呼びするのは、まことに恐縮なんですが、先生の曲を綺麗に弾けるのは、奈緒子さん以外考えられないんですよ。それに、先生が出演されることは、一之瀬さん以外に、わたしと音響監督の美原さんは知っていたんですよ。それで一之瀬さんにお願いして、先生に最終確認の電話をしてもらったんです」
森川がそう云うと、「そうか、それじゃぁおばあちゃんの聞いたのって、それを源蔵さんに話していたときだったんだ」
皐月は海雪を見ながら言った。海雪は少し納得いかない表情を浮かべる。
「それで、演奏はしていただけるんでしょうか?」
「先生が自ら出たいと申されてましたし、子供たちのために作った曲でしたら、ある程度は……楽譜はありますか?」
「え、ええ。ただ、もうすぐ出演時間になりますので、急なことですが」
森川がそう云うや、「私も結構先生に、演奏会の当日に曲の変更なんかの無茶振りを結構されて慣れてますから、一、二曲くらい平気ですよ」
奈緒子はそう言うと、施設の奥の方へと消えた。
「――僕たちも入ろうか? このままここにいるのもあれだし」
大宮はそう云うと、皐月は海雪を見遣った。
「おばあちゃん、私たち中に入るけど……」
皐月の言葉に海雪は頷くだけだ。
「ほら、おばあちゃんも一緒に来る」
皐月は海雪の手を引っ張る。「ちょ、ちょっと皐月……? わかった、わかったから」
海雪は諦めた表情で、皐月たちと一緒にホールに入ろうとした。
ドアを開けると、聞こえてきたのは子供たちの元気な声だった。歌っているのは、『小ぎつね』という童謡である。ステージ上に女性が立っており、手遊びをしており、子供たちも何人かそれを真似ていた。
「そういえば、どうして皐月ちゃんは僕をここに誘ったんだい?」
「あ、いや……瑠璃さんが忠治さんはこう云うの好きだって、もしかしてお嫌いでしたか?」
皐月は申し訳なく尋ねる。大宮は首を横に振った。
「いや、嫌いじゃないよ。ただ――思い出すってのもあるかもね」
「――思い出す?」
「皐月ちゃんには前に話したことがあったよね? 妹のこと」
大宮の妹である彩奈は、今から十年前、海難事故で亡くしている。
「――刑事さん、ちょっとよろしいですか?」
森川が大宮に声をかける。
「実は、先生と奈緒子さんについてなんですが、ちょっとそちらのほうでも問題が」
「……問題?」
「ええ。先生の前妻である湊さんが亡くなったのは、ちょうど昨日の夜だったんです」
「その話、少し詳しく聞かせてくれませんか?」
大宮は森川と一緒にホールを出て行った。
「おばあちゃん、私たちも……」
皐月は海雪に声をかけるが、海雪は客席の最後列にある鉄パイプの柵の上で、指をまるでピアノを弾くように動かしていた。
その表情は楽しんでいるように見えた皐月は、邪魔しないほうがいいかなと考え、海雪を残して大宮の後を追った。
「――あれ? 皐月? 大宮巡査?」
夢中でピアノの真似事をしていた海雪が我にかえり、周りに二人がいないことに気付くと、慌ててホールの外に出た。
「そういえば、お聞きになりました? 先生お亡くなりになったんですって」
「ええ、聞きましたわ。まぁ、無理もないでしょうね……十二年前、奥さんを亡くされて衰弱していたそうよ」
トイレから、女性が二人会話をしながら出てくる。
「でも、弟子だった今の奥さんとのこともあるし、遺産相続は揉めそうね」
二人の会話を聞きながら、海雪は少し違和感を持った。
遺産相続で揉めるのはわかりきってる。ただ入江正信が遺言を残していないことが、ことの切っ掛け――。 ……いや違う。入江正信は最初から、誰に遺産を渡すのか決めていたんだ。そして、それは受け取る本人も知ってる。
海雪は少し下唇を噛み締めた。そして、ふと違和感があることに気付く。
「――あの人……なんで『殺された』なんて言ったのかしら?」
◆伍・貧困
演奏会が終わり、控え室に戻ってきた奈緒子に、大宮は森川から聞いた入江正信の前妻である入江湊について、話を尋ねていた。
「ええ、十二年前、先生は前の奥様と一緒に、三ヶ月ほどの客船による世界一周旅行に行かれていました。金婚式の記念だったと思います」
「その時、ある事件が起きた。前妻である湊さんが急死してしまった……ということですね?」
「死因は、伝染病による高熱だったそうです。家族では先生以外、奥様の遺体を見てはいません」
大宮は少し首を傾げた。
「水葬……って、ことですか?」
皐月が尋ねると、奈緒子は頷く。
「皐月ちゃん、スイソウって?」
「航海中、病気や伝染病で亡くなった人が出た場合、衛生上の問題で船内では死体の保存が出来ず、已む無く海に遺体を入れた棺を沈めることだったと思います」
皐月がそう答えると、大宮は少しだけ理解する。というよりか、皐月も拓蔵から聞いた話を言ったまでで、詳しいことまでは知らない。
「先生が戻ってきたのは、奥様が亡くなられてから四日後でした。その時の先生は今思い出しても」
奈緒子はそう云うや、手で顔を覆った。
「奈緒子さん、そろそろ戻られないと葬儀のこともあるでしょ?」
控え室に入ってきた純由が奈緒子にそう尋ねる。
「え、ええ。でも……」
奈緒子は大宮と皐月を見た。
「先ほど息子さん二人から連絡がありましたよ。遺産相続について聞きたいことがあるとね」
「……わかりました。それでは」
純由に促され、奈緒子は渋々控え室を後にした。
「なんか、ハッキリとしないなぁ」
皐月はそう呟く。「奈緒子さん、奥歯に物が挟んだような感じだったね」
大宮もそれが気になっていた。
「皐月、大宮巡査いる?」
控え室に現れた海雪を見るや、皐月は驚く。
「おばあちゃん、どうしたの? そんな顔して。なにかあったの?」
皐月が指摘した通り、海雪の表情は焦っていた。
「――入江奈緒子は?」
「えっと、さっき男性の人と出て行ったけど?」
海雪は大宮を見るや、「それって、誰?」
と、尋ねる。
「たしか、純由って人だったと思うよ。うん、間違いない」
「どうして、止めなかったのっ?」
突然、海雪は悲鳴にも似た声で二人に怒鳴った。
「ちょ、ちょっと……どうしたの?」
皐月が宥める。「それで、なにかあったの?」
「大宮巡査、入江正信の死因は『高熱による心筋梗塞』でしたよね?」
「あ、ああ、そうだけど」
「それって、薬師如来さまだったから気付けた……でいいんですよね? 心筋梗塞は突然死で、遺体が発見されたのは夜だから、体が冷えてても可笑しくない」
「言われてみればそうだろうけど、それがどうかしたの?」
「わたし、純由って人が一之瀬と話をしているのを聞いたのよ。その時こう云ってたわ『先生が殺された』って……」
海雪の言葉に、皐月と大宮は唖然とする。
「ちょ、ちょっと待ってよおばあちゃん。それって、どういう……」
「だからっ! 死因が心筋梗塞によるもので、持病をもっていたのなら、『殺された』なんて云わないでしょ?」
海雪はつっけんどんな口調で二人に言った。
「つまり、純由は入江正信が殺されたことを知っていた?」
「知っていたんじゃない。殺した本人かもしれないのよ」
「もし、それが本当だとしたら……っ! 奈緒子さんが危ない」
大宮は慌てて控え室を出ようとした時、「二人とも外で待ってて」
と云って、車を停めている駐車場へと走った。
皐月と海雪が外で待っていると、目の前に一台の車が停まった。「ふたりとも早く乗って」
車を運転している大宮が助手席と、後部座席のドアを開け、皐月は助手席に、海雪は後部座席に座った。
「家に送ると言っていたから、素直に送ってくれてたらいいんだけどね」
大宮はアクセルを踏んだ。ただ、夕方近くと云うこともあってか、車の通りが多く、思うように前には進まなかった。
「それで、なにかわかったことは?」
海雪がそう尋ねると、「十二年前のちょうど昨日、入江正信の前妻である入江湊が高熱を出して亡くなったそうよ。ただ、客船による旅行中で海の上だったから、水葬だったそうだけど」
皐月が答えると、海雪は少しだけ頭を抱え、「十二年前……海の上……高熱……」
譫言を云うように言葉を呟くと、ハッとした表情で唇を震わせた。
「――どうかしたの?」
「入江正信は、前妻の湊と一緒に世界一周旅行に出ていた。そこで湊は現地で流行っていた伝染病に罹り、命を落とした……」
「まぁ、そうなるだろうけど……」
突然大宮が車を停めた。ちょうど信号待ちである。
「ちょ、ちょっと待ってくれ? 伝染病……」
「それがどうかしたんですか?」
「皐月、あんたも気付かない? 伝染病に罹ったのが湊だけではないってこと」
海雪の言葉に、皐月は怪訝な表情を浮かべた。
「ちょ、ちょっと待ってっ! もしそうだとしたら……可笑しいでしょ? どうして今まで生きていられたの?」
皐月の問い掛けに、海雪は答えられなかった。
「とにかく、急いで……!」
信号が青信号になる。大宮は車を急かすようにアクセルを吹かした。
◆陸・恩恵
入江正信の家には、すでに息子二人と弟子四人の姿が、リビングにあった。それをジッと阿弥陀警部が見ている。
車が家の前で停まる。玄関のドアが開くと、足早にリビングに来る音が聞こえた。
「すみませんみなさん」
入ってきたのは純由と奈緒子だ。
「奈緒子さん。あんた親父から遺言書を受け取ったんじゃないのか?」
長男である光茂が苛立った口調で言った。
「先生は遺言書を書いてはいません」
「いいや、書いてるね。それに遺産がないと少しやばいんだ」
次男、智幸がそう云うと、「また借金か? 今回はいくらだ?」
「おれが作った借金じゃない。ちょっとトラブルがあってな」
「ほう、そのトラブルとは?」
阿弥陀警部がそう云うと、「いや、本当に……今日の話し合いに関係ないだろ!」
智幸は椅子に座り、頭を抱えた。
車がもう一台、家の前に停まった。そして玄関のドアが開く。
「阿弥陀警部」
入ってきた大宮が、そう呼びかける。
「大宮くん、それと皐月さんに海雪さんも」
阿弥陀警部がそう云うや、「お、おい刑事さん、一体誰のことを言ってるんだ?」
小城が震えた声で言った。海雪の姿は皐月と大宮、阿弥陀警部にしか見えない。
「いえいえ、空耳じゃないですかね?」
阿弥陀警部は笑って誤魔化す。
「おばあちゃん、また口伝しようか?」
「皐月、もし私の考えが間違っていなかったら、入江正信は一之瀬に『うみ』という童謡を問題に出したのはなにか考えがあったからじゃないかって思うの」
「どういうこと?」
「一之瀬が答えた『うみ』のキーはGメジャー。そして正解だったほうの『うみ』のキーはFメジャー。もしかしたら、十二年前にあったことと関係していたのかもしれない。♭はその音符の半音下って意味だから」
「でも、ソとファは隣じゃ?」
「Gメジャーで白鍵になるのは『F♯』で、キー音のひとつ下になる。『ドレミ』は十二個の音階で1オクターブになるから、最初の音に『F♯』を置くと、十二個目は『F』になるのよ」
皐月は頭の中でドレミを言いながら、指折り数えていく。
「本当だ、ファになった」
「それともうひとつ、このふたつの曲の共通点は、四分の三拍子だと云うこと。皐月、分数の割り算くらい出切るわよね?」
そう言われ、皐月は少し考え、「ば、馬鹿にしないでよ。えっと……あっ――」
皐月は分数の答えを頭に思い浮かべると、唖然とした。分数の割り算は、割るほうの分母と分子を逆にして、それぞれをかける式になる。
つまり『3/4÷3/4』の場合、式は『3/4×4/3=12/12=1』となるのだ。
「奈緒子さん」
皐月は義理の息子二人に言い寄られている奈緒子に声をかける。
「なんだお前は? 部外者は出て行ってもらいたいね」
西島が喧嘩腰にそう云うと、「まぁ、まぁ」
と、阿弥陀警部が宥める。
「はい。なんでしょうか?」
「十二年前、前の奥さんである湊さんの死体を見たのは、その時一緒に旅行に行っていた入江正信さんで間違いないんですよね?」
その問い掛けに、奈緒子は頷いた。
「おいおい、可笑しなことを聞くな? 親父とお袋は金婚式の祝いで旅行に行っていたんだ。つまり……」
『入江正信自身も……その現地で伝染病に罹っていた』
皐月と海雪の言葉が一致する。
「ど、どういうことだ?」
息子二人と、弟子の四人は驚いた表情を浮かべたが、奈緒子と純由だけは表情を変えなかった。
「やっぱり、知ってたんですね? 入江正信さんが伝染病に罹っていたことを」
皐月は純由の方を見遣った。「あなたが今日の演奏会の前、一之瀬さんと会話していたのを聞いていたんです。その時あなたは一之瀬さんが入江正信が亡くなったことに対して、『先生は殺された』と云っていました」
皐月……というより海雪の言葉を口伝するように、純由に問い掛ける。
「お、おいっ! ちょっと待てよ! 親父はたしかにお袋が死んで、心も体も衰弱していた。それが伝染病によるものだったのか?」
光茂が狼狽しながら尋ねる。
「いいえ、衰弱していたのは奥さんが突然亡くなったことが原因だと思う。伝染病が発覚したのはその後だろうから」
皐月はそう言いながら、「多分、入江正信はすでに感染していた奥さんの手を握ったんだと思う。それで手に菌が付いて、自分も感染したんじゃないかな?」
「まさか伝染病に罹っているとは思わないし、なにより大切な人を握った手を、執拗に洗うとは思えないしね」
大宮がそう云うと、「で、でもよ? どうして今の今まで、親父はそんな様子すらなかったんだ?」
光茂の言葉に他のものたちも同意するように尋ねる。
「その理由を知っているんじゃないんですか?」
皐月と海雪は、奈緒子と純由をそれぞれ見渡した。
「恐らく、遺言書は存在している。だけど、あなたたちにお金は一銭も入らないことを知っていた奈緒子さんは、言うに言えなくなっていた」
「ど、どういうことだよ? やっぱり……、このアマァッ! てめぇ一人で全部猫糞するつもりだったのか!」
智幸が奈緒子に襲い掛かろうとする。
「や、止めてください! これは全部。先生が私と奈緒子さんにお願いしたことなんです」
智幸を止めようとする純由に対して、「す、純由さん、一体どう云うことなのか説明してくれ」
と、光茂が云うと、純由は乱れたネクタイを整え、奈緒子を一瞥した。
奈緒子はゆっくりとリビングを出て行くと、二、三分で戻ってくる。その手には封筒が握られていた。
「これが、生前先生が残した遺言書です」
「ちょっと、拝見させていただきます」
阿弥陀警部は遺言書を受け取ると、封筒から手紙を取り出し、中身を確認するや、驚いた表情で奈緒子と純由を見遣った。
「な、なんて書いてあるんだ?」
小城がそう云うと、阿弥陀警部は一、二度ほど深呼吸をし、ゆっくりと読み始めた。
『わたくし入江正信は、自身の貯蓄を貧しい国の子供たちや、音楽が大好きな子供たちの未来のために、すべてを遺贈します』
という、遺言書としては短い文章であった。
息子二人と弟子四人は、怪訝な表情で奈緒子を見る。中には睨んでいるとも云っていい表情の者もいた。
「こ、こんなの出鱈目だ! きっとこいつが勝手に書いたものに違いない」
「それでしたら、ご自身の目で確認したらどうですか?」
阿弥陀警部は遺言書を智幸に渡した。
それを見た智幸の表情は焦りを見せる。
「た、たしかに親父の字だ。それじゃぁこれは本当に親父が書いたものなのか?」
「な、奈緒子さん、親父は何時頃からこれを書いていたんだ?」
光茂がそう尋ねると「三年ほど前からです。先生はよく借金を作ってはせびりに来ていたあなたたち兄弟に、大層お怒りをもっておりました」
「な、なんだよそれ? 子供を助けるのは親の役目だろ? それに親父の金なら、百万、二百万のお金なんてすぐに返せてたじゃないか?」
智幸がそう云うや、皐月はハッとした表情で海雪を見やった。その海雪の表情は物悲しそうで、哀れんでいるような感じである。
「それが駄目だったんですよ。先生はあなたたちをこれ以上甘やかしてはいけないと判断され、一切の話を聞こうとしなくなった。それなのに、あなたたち兄弟どころか、弟子である小城さんたちまでもが先生に金をせびるようになっている。このままでは先生がご自身の手で培ってきた遺産をそのまま相続してしまうと、あなたたちに食われてしまう。だからこそ、寄付をすることで、きちんとした使われ方を願っておられたのです」
純由がそう云うと、息子二人と弟子四人は呆然とした表情を浮かべていた。
「しかし、なぜ今になって伝染病が?」
大宮がそう尋ねる。
「それはわかりません。ただ、先生は十二年前奥さんが亡くなられる前日、船の上であるものを見たそうなんです」
――あるもの?と、皐月が訊くと、「なにか蜃気楼のようなものだったようで、そこに人が並んで歩いていたそうです」
その言葉に、海雪はハッとする。
「――そうか、だから『うみ』を選んだんだ」
◆漆・輪唱
「そういうことだったんですね」
皐月は大宮に対してそう言った。車は稲妻神社へと向かっている最中である。
「入江正信はずっと隠していたそうだよ。純由さんがすべて答えてくれた。どうやら、自分の体内に伝染病があったんだが、薬でなんとか進行を遅らせていたたそうなんだ」
「それが突然変異で、入江湊と同じ運命になった」
皐月がそう云うと、「もしかしたら、伝染病に罹っていたのは、入江正信だけだったんじゃないかな?」
海雪の言葉に皐月は首を傾げた。
「純由が云ってたわよね? 十二年前の船の上で入江正信は『蜃気楼の中を人が並んで歩いているのを見た』って」
「たしかに云っていたけど、それがどうかしたのかい?」
大宮がそう尋ねると、「多分、入江湊は『七人ミサキ』を見たんだと思うのよ」
海雪がそう答える。
「七人ミサキに遭った者は高熱に魘されて死んでしまう。それが伝染病に似ている症状だったし、七人ミサキは一人が仲間に入ると、一番前の亡霊は成仏すると云われているから、入江正信がその時死ななかったのはそれを免れたんだと思う。まぁ、完全な運なんだろうけどね」
海雪の言葉を聞きながら、皐月はふと思った。
「もし、その時二人とも死んでいたら、遺産はどうなってたのかしら?」
「遺言書もなし……というより、あの馬鹿息子が金を食い漁っているのが容易に想像できるわ」
海雪は呆れた表情で云った。
「問題は奈緒子さんよね。もしかしたら、彼女が一番今回の事件の被害者だったのかもしれない」
「ああ、そのことなんだけど……実は阿弥陀警部がもう一枚あったことを教えてくれたんだよ」
そう云うと、大宮は懐に忍ばせていた紙を皐月に渡した。それを海雪は覗き込むようにして見る。
「――なるほど、抜け目ないわね」
海雪はホッとした表情で、そう云った。
「遺言書は公正証書によるもので、内容は揺るがないそうだ。むしろ一番悪いのは……」
「借金を作った人間」
皐月と海雪が同時に云うと、大宮は小さく笑みを浮かべた。
――事件があった三日後、大きな施設を借りての盛大な告別式が行われた。
友人として呼ばれた源蔵に付いて行った海雪の話によれば、皆思い思いの形で別れを惜しんでいたが、愚息二人と弟子四人は、心ここにあらずといったものであったという。
――入江正信が残した遺言書には、こう続きがあった。
『――また、妻である奈緒子に対して、東京都世田谷区松原某所にある土地、ならびに一軒家の所有権を与えるものとし、息子光茂、智幸に対しては一銭も与えないこととする。』
姦新シリーズと云うより、特に前後の縛りはない番外編です。今回題材にした『七人ミサキ』は、まず七つと云うことで『ドレミファソラシ』という七音が先に出てきました。その後から音楽を題材にしようと思ったわけです。