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「うひょーっ! ――あ、違う。ごほん。よきに計らえ」


 その晩は一瞬だけ社の外が騒々しくなったのを覚えている。

 しかし、すぐに静まり。自分は特に気にせず目を閉じ心地良いまどろみに身を委ねていた。


「お晩です。月が綺麗でございますね」

「ん? ナギか。こんな夜更けにめずらしいな」


 月の光にあぶり出される人影。

 社の前にはナギが立っていた。 


「年寄りが夜中にふらふらと……。家のものが心配するぞ?」

「まぁ、マッシュまで私を年寄り扱いするんですの? 失礼しちゃいますわ」

「あはは。すまんすまん、それよりその手のものは?」

「私が逃げてきたところ。今では曲島って言うんでしたかね? そこで作られてる純米酒でございます。曲島に東法術の武者修行に行っていた若い者が、土産にと持ってきてくれました。

 懐かしいですわ。幼い頃、父が嗜んでいたのをたびたび舐めさせてもらったものでございます。

 あの頃の私は若々しく、そして美しゅうございました。それが今では悪い魔女のせいでこんなおばあちゃんに――……よよよ」


 大げさに手ぬぐいを目元に当てるナギ。

 手ぬぐいが濡れている様子などまるで無い。


「いやいや、もうお主ひ孫だか玄孫だかが居るんだから、さすがにそれを魔女のせいにしては魔女も気の毒だぞ?」

「まっ。ノリの悪いマッシュですこと」

「それより、その酒飲むんだろう? まさか見せびらかせに来ただけではあるまい」

「……ふーん、見せびらかせに来ただけでございます」


 小ぶりの酒樽を抱えてプイッとそっぽを向くナギ。


「おいおい、そりゃないだろう?」

「そんな小さくて子供みたいなマッシュにお酒は早すぎでございます」

「なにおうっ! 控え居ろうっ! この身は小さき者なれど、我は樹妖精。人と生くる時を隔すものなり、ゆめゆめ侮ることなかれっ」


 ナギは一瞬ポカンとした顔でこちらを見ると、直後に口元に手を当ててクスクスと笑いだす。


「あらあら。それは失礼仕りました。お詫びと致しましてお神酒を献上いたしまする」

「うひょーっ! ――あ、違う。ごほん。よきに計らえ」


 自分は何とか体裁を払いながらそう言うと、ナギは笑いながら持ってきていた杯に酒を注いでくれた。


 月の光に煽られて、社の縁側で酒をちびちびと酌み交わす。

 少しだけ高い所にあるこの五十樹の社からは、村人の多くが寝静まる中、見張り台の灯篭だけが滾々と燃え盛るのが見下ろせる。


「マッシュったらあんな啖呵切りを持っているたんですね」

「まぁ、ナギが居るしこの村の者にもすることはないがな。ただ、先の先の村の長老が言って居った。この業界、こういう事も出来た方がいいとな」

「業界? ふふふ、そうなんですか?」

「うむ、そうなのだ。……この村でわしより年上なのはもう皆、居らんなったな。五王樹くらいか」

「そうですね。マッシュがこの村一番の長寿者ですものね。しばらく長老は変わりませんね」

「そうだな、しばらく変わらんな」


 しばらくと言っていい年月なんだろうか。

 百にはまだ届かない年齢とは言え、この身はいまだに子供のようだった。

 少しずつ大きくなっている気はする。だが、この調子だと千年は死に損なうかもしれない。


 緩やかな風が心地よい葉擦れの背景音を奏でる。

 時折フクロウがホーと鳴いた。


「風が気持ちいいな」

「ええ、それに月が綺麗ですね。まーるい」

「本当にな。ああ、綺麗だ。まーるい」

 

 伸ばせば掴めそうに思い手を伸ばす。しかし当然ながら手は空を切った。

 ナギはコロコロと笑うと、改めて杯を置いた。


「ねぇ、マッシュ。聞いてもいいですか?」

「なんだ? 改まって」

「この村に来て後悔していませんか?」

「後悔? あろうはずもない。この村の苦楽を共にしてなお、ここに居て良かったと思っている。

 そりゃ、笑って終わる事が出来る日だけが来ることはあり得ない。特に苦難が振りかかる事もあろう。その時に村の者と一緒に考えて何とか乗り越える事が出来た。そして、その後に村の者の笑顔を見る事が出来た時。やっぱり良かったって思えるよ。

 この村の成り立ちから立ち会ってるわしにとっては、村とはわしの存在であり、村の民は全てわしの子でもある。うん、後悔など過る暇もないな」

「……村の民がマッシュの子って事は、村のお嫁さん全て手籠にしたってことかしら?」

「わし、どんな鬼畜だよ」

「ふふっ、冗談でございます」

「――正直、森に居った時より村に居る時の方がずっと長い。森での営みがどうだったかも今となってはあんまりわからんよ。

 でも、それでもいいじゃないか。大事に思える村があって、大事に思える村人が居て。

 ……ナギが居る」

「私の事はマッシュの中の大事に入って無いんですか?」

「入って無いわけないだろう。村は好きだ。村人が好きだ。そして……」


 そこで言いかけるのをやめる。それ以上は口に出すのが恥ずかしくて。


「そして?」


 それでもナギは聞いてくる。無垢な子供が不思議なものを親に尋ねるかのように、ただただ純粋さを宿して尋ねて来た。


「ナギは大好きだ」


 風が凪ぐ。木の葉は呼吸を止めると、月の光が一層強くなった気がした。

 一瞬、灯篭の火が転寝をしてこけそうになると、風が頬を撫でた。

 ナギはコロコロと笑っていた。

 急に恥ずかしくなった自分はナギから目をそらし杯を覗きこむ。

 杯に残った一滴の滴がふるふると揺れた。


「……少し飲みすぎたかもしれんな。いや、酔っぱらいに何を言わすんだってところか。うん、さっきのは忘れてくれ」

「嫌でございます」

「いや、忘れてくれよ」

「拒否しますわ」

「むーっ! わしだけ恥ずかしいだろっ! 忘れろっ!」

「お断りです」


 再び風が凪ぐと、ナギは杯を置いた。


「私も、私もです。住んでいたところが無くなり、絶望の淵を一族の者と歩んでいた時にマッシュに会えて本当に良かった。この村で共に過ごした日々はマッシュの言う通り、楽しい事ばかりではなかったはずですわ。

 ……でも、なぜかしら。それでも楽しかったって事しか思い出せないの。

 私は本当に幸せでしたわ。

 マッシュ、ありがとう。

 私もあなたが本当に大好きです」


 ナギは笑う。

 明かりの強さが足りないのか。

 月の光に映し出されたナギは、出会った頃の少女の姿を幻視させた。

 ナギの緑色の瞳がこちらを見据える。

 そう言えばナギの瞳はこんな色だったか。そんな間抜けな事も思いながら自分もそれを見返した。


「これでおあいこでございますね。だから、……忘れませんから」

「そうか。そうだな、おあいこなら仕方がないな。うん、忘れなくていい」


 若干狐につままれたような気分になりながらもナギにつられて頷いた。


「……そろそろ、お暇しようと思います」

「そうか。そうだな、わしももう寝る。お前も寝ろ」


 自分は少しだけ重たくなった眼をこすりながら杯をナギに返した。


「はい、寝ます……。お休みなさいませ」


 ナギは手際よく帰り支度をすると、立ち上がった。


「あ、マッシュ。最後に私のわがまま、聞いてもらえますか?」

「ん? 今までずいぶん聞いてきたが。――今更だな?」

「ええ、とびっきりのお願いなので」

「ふむ? 言ってみろ」

「……どうか。どうか、私の分までこの村を見守っていてください」


 ナギは恭しく頭を下げる。


「もとよりそのつもりだが……。ふむ、ナギの分までってなると。……うーん、千年で足りるか?」

「足りません」


 即答で答えるナギ。

 なるほど、とびっきりだ。これ以上の願いなどそうそう聞いてやれそうにない。


「ふっ、あははは。そうか、ナギの分か。千年で足りぬとなると、わしには測りかねるが、最善を尽くそう」

「ありがとうございます」

「まったく、寝る前に笑わせてくれる。良い夢が見れそうだ。ナギも、良い夢を見ろよ」

「はい。どんな夢が見れるかわかりませんが、楽しかった思い出を。そして今晩の事を夢にしようと思います」

「そうか」


 ナギは社を出ると、こちらに一度軽く頭を下げる。


「それでは、ゆきます」

「ああ、気を付けてな。とはいってもすぐそこだしな」


 自分はすぐ近くにあるナギの居所を一瞥すると、ナギは黙って少し肩をすくめた。


「……また、逢いましょう」

「ああ、じゃあまた明日にでも会いにこいな」

「いや、明日は少々早すぎるかと……」

「そうか? そうかなぁ? ふむ――。まぁいつでも来ると良いよ。社の戸はいつでも開けておるから」

「はい。では……、また」


 ナギが背を向けて歩き出すと、一陣の風が吹いた。

 顔を煽られた自分は思わず目を閉じてしまう。

 風がやんで、再び目を開いた時にはナギはもう居なかった。

 あれで、若い頃は相当身のこなしが軽かった時もあったしなぁと一人納得した。


 まーるいまーるい月の光が。少しだけ翳った。




「マッシュ様っ! マッシュ様っ! お知らせしたい事がございますっ!」


 小鳥が朝の挨拶をかわす頃、慌てたような青年の声が社にこだました。


「ふあーっ。おはよう。ずいぶん騒いでるようだがどうしたんだ?」


 この青年はナギのひ孫。千里眼は片方だけのようでナギのような眼隠しではなくて眼帯をしていた。

 まだ眠い眼を擦りながら、自分は五十樹から顔だけ出した。

 この青年のお知らせしたい事と言うのは割と信用ならない。女に振られた時にもおんなじように飛び込んできて、話をしているうちにおいおい泣きだすものだから、自分は必死に慰めた記憶がある。

 少しはナギの胆力を引き継げばよかったのにと思いながらも、あほな子ほどかわいいのか微笑ましく見守ってやっていた。

 さて、昨日の酒が抜けきっていないながらも、今日はどんな一大事かなと楽しみにしていたところで

青年の口が開く。


「ひいお婆様が。ナギお婆様が……。亡くなりました」

「はぁっ?」


 青年の口から自分からは少し理解の上を行く言葉が紡がれると、大粒の涙をポロポロと零した。

 なんだそれは。

 悪い冗談だ……。

 悪い冗談だ……。

 そんな、悪い冗談を言うような子に育てた覚えはないが……。

 頭がこんがらがる。支離滅裂な思考が交錯する。

 一度深呼吸をして心を必死に沈める。


「……もう一度聞いていいか? 落ち着いて事実のみを話せよ? 女に振られた話を膨らませ過ぎてわけがわからない事になっていないな? そんな事でナギを殺してはナギがいくつあっても足らんぞ?」

「マッシュ様こそ落ち着き下さい。……わからないでもありませんが」


 社にもう一人白狐の女が入ってくる。ナギの孫。現、族長だ。


「あなたもいつもつまらない事で騒ぎ立ててマッシュ様に泣き付くから、いざ大事な事を話した時に疑われるんですよ?」

「うう、ごめんなさい……」


 母子のやり取りを自分はただ茫然と見つめていた。

 思考が止まる。

 何も考えられない。

 何も……


「――と言う事です。マッシュ様」

「え? ああ、すまないボーっとしていた。もう一度話してくれないか?」

「……わかりました。昨日の夕刻、ナギお婆様――。初代は突然胸を押さえられて倒れられました。その時点ですぐに昏睡状態になったのですぐに村の薬師を呼び見てもらいましたが、すでに取れる手段はないとの告知を受けました。それから間もなくの事でございます。息を引き取られました」

「そうか。……そうか」

「連絡が遅くなって申し訳ございません。夜分遅くの事でもありましたし、家の者も突然の事で混乱が生じておりました故」

「……いや、いい。うん」


 空白。

 まるで穴が開いたかのように――。違う。

 それは大きすぎて、まるで穴しかないかのように――。違う。

 穴しかないのであればそれは「 」だろう。


 自分はへたり込んだ。どこにも力が入らない。

 ――いや、待てよ。

 ナギが倒れた夕刻でそこから薬師が来た。

 昨日の晩おそらく一瞬騒がしかったのはそれだろう。

 それから間もなく……

 いや、それはおかしい。


「昨日の晩わしはナギと酒を飲んだんだが?」

「……はぁ?」


 二人はきょとんとした顔でこちらを見返す。

 それもそうか。間もなくと言っていたから、ナギの事は終始見ていただろう。

 そんな状態であるはずのナギがフラフラと酒瓶を持って出て行っていたらわからないはずがない。


「……いや、忘れてくれ」


 昨晩の事はきっと自分が見た夢だったんだろう。

 ……。

 思い返せばいくらかおかしな事があった。

 月が綺麗ですねと言った。まーるいとも言った。

 ナギは千里眼持ちで、それを封じるために普段は目を閉じ開けはしない。

 結果として、ナギは視野を失う。それでも周りにあるものはある程度把握した。

 それこそ自分の真後ろにあってもわかっていたから、おそらく普通とは違う形で見えていたんだろう。

 その代わり、ナギは遠くにあるものを見る事は苦手だった。ある一定の距離から先は突然視野を失ったのかのようにふるまっていた。

 そのナギが言った。


“月が綺麗でございますね”


 そんなナギからは到底飛びだして来ない言葉だ。

 そしてその月がまーるいとも言った。

 形までわかるって事は完全に見えていた事を意味している。


 ありえない。

 それに昨晩のナギは完全に目を開けていた。

 自分は見た。

 緑の目を。深い深い緑の目を。

 綺麗だった。ずっと見つめあっていたかったほどに。

 でも、それはありえなかった。


 夢だった。

 幻だった。

 妄想だった。

 いずれにせよ、自身に起因する事である。

 自身が作り出したナギ。

 自身が作り出したやり取り。


 独りよがりの満足感。

 昨晩は何もなかったのだ……


「――あれ? でも、そう言えば。今朝、御台所にいったらなぜか杯が二つ置いてあったよ。昨日家で誰か飲んだっけ?」

「飲めるわけないでしょ。あんな大変な時に……」

「だよね? それに一つは使った跡があったけど、もう一つは無かったしなぁ」

「変ねぇ……。そう言えば曲島の土産に頂いた酒樽も変な位置にあったかしら。封も開いていないのに妙に軽くて。……そうね、ちょうどマッシュ様がお召しになるくらいは減っていたのかしらね」

「え? ……じゃあ、やっぱり」

「――ッ!」


 全身が粟立った。

 そうか……。

 そうか――。

 そうかっ!


「すまないっ! 少しだけ――、ほんの一刻だけでいい。一人にさせてくれないか? そして、誰も近づけないで欲しい」


 自分は顔を俯かせた。

 そしてそのままそう二人に言うと、現族長は軽く頭を下げた。


「わかりました」

「え? え?」

「ほら、あなたも出ますよ」

「あ、うん。――でも、もうちょっとだけ」


 青年はいささか混乱気味であったものの、現族長に腕を引かれて社を出ようとしたところで待ったをかけた。


「あ、あの。マッシュ様、今朝もう一度だけひいお婆様の顔を見たくて覗いたんです。そしたら、そしたらすごい幸せそうに笑ってるように見えました。

 なんて言ったらいいかわからないけど。

 マッシュ様、ありがとうございましたっ!」

「……そうか」


 自分は俯きながら返事をした。

 何かが邪魔をして喉が詰まる。声が届いたかどうかはわからない。

 それでも、二人は社を後にした。


「……ふっ。うぐぅ。うぁああああああ――――」


 堰を切ったようにあふれ出した涙が床の染みを一気に広げる。


 夢じゃなかった。

 幻じゃなかった。


 ナギは動ける状況ではなかった。これは事実だ。

 なら自分に会いに来たナギは偽物か?

 これは否だ。

 おそらくはいずれもナギだった。


 自分の前に居たナギは、飲んだはずの酒は減らず。見る事が出来ないはずのない月が見えた。

 そして、出会ったすぐのころの姿も見せた。

 あり得ない事がこれだけ起こった。

 故に、ナギの体はそこには無かったんだろう。


 だけど、そんなのは大した問題ではない。

 ナギはそこに存在したんだとしたら。


 それだけで十分だろう。

 心に刻もう。


 まーるいまーるい月の綺麗な夜だった。

 先に逝ったナギは大好きと返してくれた。


 わしはナギが大好きだった。 



 ◇◆◇


 非常に重い倦怠感と共に目を覚ます。

 何回改装したかわからない最近よく見た社の風景。

 ああ、夢を見ていたか。

 もしくは走馬灯か?

 いったいどんな事を見ていたかは、目を開くと同時に忘れてしまった。

 だけど、自分にとって大事な。とっても、大事なものを見て居た気がする。

 大事なものなら何を見たのかくらい覚えていてほしい。

 忘れた自分に少々のいらだちを感じた。

 ……しかし、なんだか視界の端がたまに散りつく。これは?


「あら? お目覚めですか? マッシュ様」


 少し自分を覗きこむような格好で覗きこまれる。

 両目を閉じているが、その顔は最後の最後に見た大好きな少女の面影があった。


「ナ――ッ! 違う、チハヤか。……まったく心臓に悪い、もうお迎えが来たのかと思ったぞ。――まぁ、時間の問題だが」


 似ている。とはいえ、まーるいまーるい月の記憶からすると、チハヤは十以上年上のように見える。

 少女。と言うにはいささか……


「あら、失礼ですね」

「……なんのことだ?」


 心が読めるのか? 本当に心臓に悪い娘だ。

 ドキドキするのを悟られないように取り繕っていると、社の襖が開く。 


「心臓に悪いのはこちらです。私は諦めていません。もう今しばらく、持たせて見せます。チハヤ、そろそろ交代しよう。先に昼食を取ってくれ」


 今度はエボシが入ってきた。

 一見、エボシも人の心を読んだようにも思えるが、こいつはそう器用なやつではない。

 おおかた、先の会話を聞いていたんだろう。

 それにしても交代とはなんだ?

 って、看病か。

 と言ってもやる事はそうないから付添くらいだと思うが。

 ……いや、それにしてはチハヤは額に汗を浮かべているいて疲れているように見える。


「ええ、わかったわ。……ふぅ。兄さん、頼みます」


 チハヤが返事をすると、パッと何かが解けた感じがした。

 視界の端のちりつきが無くなる。


【一、二、三……。つちのとを掌握。きのえは遅延、己の時を支配する】


 光の柱が自分の周りから一瞬上がると、視界の端にちりつきがまた見え始める。

 体が非常に重い。


「……そう言う事か」

「申し訳ございません。マッシュ様の身にこのような真似を。お叱りはまた後日受けます」

「……許す。好きにしろ。お前の思うようにするといい」


 エボシは下唇をかみしめた。

 後日に叱ってやりたいのはやまやまだがな。


「あーーーーーーれーーーーーーっ!」


 社の外からタマグシの声が聞こえて来た。

 相変わらずよく通る声だと思う。


「ああ、もうっ! こんな時にっ! また鍋でもひっくり返したのか?」


 エボシが少し苛立たしげにつぶやく。

 しかし、自分にはこの声が聞こえて来たのが何となくうれしかった。

 タマグシのこの叫びを何度聞いただろうか、タマグシが嫁いできて以来数え切れないほど聞いている。

 姑、大姑が居た頃はそのたびにどやされていたが、タマグシは持ち前の能天気さでけろっとしていた。

 それでも愛嬌のある性格から別に嫌われる事ない。むしろ好かれていた。

 ダイカクは良い嫁さんをもらったんじゃないだろうか。

 といっても、しょっちゅう鍋をひっくり返されるのもたまらないか。

 そばで聞いてる分には面白いんだけどな……。

 

 体が思いながらもくっくっくっと笑みがこぼれる。

 でも、これももう聞けないのかな。

 そう思うと、少しだけ死ぬのが惜しいかもな。

 ……我ながら死ぬのを怖がるツボが少しずれていると思う。

 でも、もう少しだけ。もう少しだけ、見守っていたかったかもしれない。


 ……千百年。ナギが逝ってからは千余年。

 ナギの分を見守ったと言い張るには少し足りなかっただろうか。

 逢う事があったら、怒られるかもしれないな。

 まぁでもここは――


 ……なんだ? 少し違和感を感じる。



「兄さんっ!」


 チハヤが騒々しく襖を開く。

 その後ろには黄狐族の村の者も見えた。


「わっ! 若先生っ――って、うわわわわわっ。マッシュ様が本当に小さくなってる」

「己式の術を行使中です。と言うか、社であまり騒ぐのは……。って本当にって事はどこからか聞いたんですか?」

「ああそれは、アズサお嬢から――。ってそうそう、そのアズサお嬢がっ、お嬢がっ」

「え? アズサがどうかしたんです?」

「なんかこう大勢がわーっときて、村中でこうぶわー。むわーって」

「……さっぱりわからない」

「なんにせよ来てくれっ! すごい事になってるんだ」

「し、しかし今は……。そうだ、チハヤ――」

「エボシ。術を解け」


 違和感の正体。それに気が付いてエボシに指示を出す。


「……しかし、マッシュ様」

「つべこべ言うなっ! 今すぐ解けっ! 早くしろっ!」

「はっ! はいっ! 法域解散っ!」


 怒鳴られたエボシはビクンと体をすくませると、法域解散で術式を強制終了する。

 法域のなくなった術式は供給するべき法力が断たれると、すぐに止まった。

 しかし、怒鳴られたからと言って法域解散で止めるとはいささか焦りすぎじゃないだろうか。


 それが少し心配であり微笑ましくありながらも、違和感の正体を実感すると勢いよく立ちあがった。


「力が回復していく……」

「本当ですかっ?」

「ああ。遅延結界内ではごくごくわずかだったが。今では少しずつだが戻って来ているようだ」

「ああ、良かった。良かった。心なしか体が薄れていたのも戻ってきているような気がする。しかし何故なんだろう? なんにせよ良かった」

「ふふ、大の男が泣くな。まったく。それよりアズサの所へ行――。うえっぷ」


 そこまで言いかけたところで、急に気分が悪くなる。

 だんだんと力は戻って行っているのは確実なんだが、何だこれは。


「マッシュ様っ!」

「いい。エボシ、わしに構うな。力が戻ってるのは確実なんだ。うっ――、早くアズサの方へ行け、そっちも一大事なんだろう? よくわからぬが少なくとも、慌てようから察するに村に何かが起こっている」

「マッシュ様の回復と何か関係が……?」

「わしにもわからん。だから、お前がそれを見てこい」

「私がマッシュ様を見てますから、兄さん行って。アズサちゃんが待ってる。……それに何となく、と言うよりうちの子たちも絶対絡んでる気がするの。だからよろしくお願いします」


 エボシはこちらとチハヤの方へ一回ずつ頷いた。


「アズサの所へ案内願えますか?」

「了解。こっち、南の門の方でさ」


 エボシは村の者と一緒に社を駆け足で飛び出た。


「マッシュ様。お水を飲まれますか?」


 チハヤより水の入った器を受け取ると、それを一気に飲み干す。

 相変わらず気分が悪いため、ごろんと寝転がった。

 いくぶんか気分はましになる。


「……チハヤは、どうして村の騒動にソーラとカイトが関係していると思うんだ? 一人娘で育てられててアズサはわがままなところも多いからな。アズサ一人で事を起してるかも知れんぞ?」

「そんなの。なんとなくですわ」

「なんとなくか。ふふふ、そうだな。実はわしも何となくそんな気がしているよ。良きにせよ悪しきにせよ、何かと騒動の中心に近い所に居てそうだ。将来大物になるかもな」

「親としてはあまり危ない事をされると頭が痛いんですが……」


 チハヤは渋く口をへの字に曲げながら、こめかみを押さえた。



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