「はいですか?」
氷瀑。凍った氷の滝をそう言うらしい。
切り裂くような寒さは、滝壺までの落ちてくるはずだった川の時間をそこに止める。滝の周りの木に出来た氷柱は、気根のように大きく地面まで垂れ下がる。
その氷の中に、宝石のように煌く八重咲きの花が一輪。その氷櫃に閉じられた花は、僕の記憶のなかでは少し季節が外れている気がしていた。
その花は約束されていた。美しくある事を。
その対価として差し出した。実を結ばぬ事を。
朝から僕が姉ちゃんに凍った川で村の人たちが滑って遊んでいた事を話すと、それを聞いていたアズサちゃんが、僕達をとっておきの場所に連れてきてやると意気込んで僕たちをここに案内してくれた。
アズサちゃんがとっておきの場所って言うだけあって、自然と氷の芸術が詰め込まれたここは、とってもきれいな場所だった。でも、実は僕たちはここには、父さんや伯父さん達には内緒で連れてこられている。なぜなら、ここは村外れらしいからだ。
村はずれだと魔物が出ないのかなと僕は心配したんだけど、どうやらあまりの寒さに冬の間はまず遭遇する事がないとアズサちゃんが言っていたから、それならと僕と姉ちゃんもアズサちゃんの話に乗る事にした。
アズサちゃんは慣れているようでひょいひょいと進んでいくから気がつかなかったけど、ここに来るまでの道は、村人もあまり知らない秘密の抜け道なようだった。
「華樹の杜の一族は、よくここで修行してますのっ」
村から抜けた道と、その場所を繋ぐ吊り橋を抜けて、凍りついた滝壺が見えた時にアズサちゃんは少し興奮気味にそう言ったのだった。
話は少し戻るけど、僕はこの吊り橋を渡る時すごく怖かった。
一歩目を歩くと、ギシギシ。二歩目を歩くと、ギイギイ。吊り橋の蔓が軋む。
この吊り橋はキレヌカズラと足場葉が絶妙に絡み合って出来た天然のかずら橋。キレヌカズラの頑丈なケーブルに、足場葉の葉が絶妙に橋桁を架ける。素材だけをみると、獣人の森で並ぶものがないほど頑丈だ。キレヌカズラは切れないからキレヌカズラと言われているくらいだし、足場葉の葉はあのギガントベアが乗っても大丈夫だと言われているほどの足場を作れる蔓性の植物だ。それでも大きいとはとても言えないこの橋は、僕が足を踏み入れるたびにほんの僅かに沈む。
谷底からは高いのか低いのかわからない反響する空気の振動が、僕の体を下から上に通り抜けて耳に届く。
僕はブルッと身震いをした。たぶんそれは寒いだけじゃ説明できないものも一緒に感じたからだと思う。
僕は顔を少し上向きにあげながら、足元を確認する。自分でも器用なことをしていると思う。だけど、谷底なんかとてもじゃないけど見たくないって気持ちが僕をそうさせた。
「カイト早く早くっ!」
すでに軽やかな足取りで吊り橋を渡りきっていた姉ちゃんが大声で僕を呼ぶ。
「わ、わかってるよっ! す、すぐ行くからっ!」
僕は姉ちゃんに負けないように大きな声で返す。僕の声が震えてたり不自然に高かったりしたのはたぶん深い谷で反響したから。
……それにしては姉ちゃんの声は普通だったから位置的なものだろう。うん、きっとそう。
僕は谷の不思議を解明するも、足は一向に前に進まない。
「もうっ、カイトっ! 早くってばっ!」
「わわ、わかってるってばばっ!」
姉ちゃんがまた僕を急かす。姉ちゃんの声は普通なのに、僕の声はより震えて姉ちゃんの方へ飛んでいく。おかしいな、一歩も動いていないのに声の震え方が変わるなんて……
もしや、この谷は僕が見ていないのをいい事にグネグネと形が変わってたりするんじゃ――。
「ふふ」
僕の思考が不気味な方に走りかけたところで、小さな笑い声と一緒に僕の両肩に小さな手が乗る。僕は心臓が飛び出しそうになったけど、必死に押さえて心臓はゴクンと飲み込んだ。
僕はゆっくり首を後ろに向けて振り返る。その手の主はアズサちゃん。アズサちゃんはニコニコと僕の方を向いて笑いかける。
かわいい顔に思わずドキっとした僕。
その時――
「じゃあ、あたしは前からアズサは後ろからね」
「はいですの」
「はいですか?」
突然まじかで聞こえた姉ちゃんの声。僕は間の抜けた声とともに前に振りかえる。僕の目の前にはいつの間にか来ていた姉ちゃん。姉ちゃんは僕の右手首を姉ちゃんが後ろ手に掴んでいた。
手を繋いで行くのかな? そう思って二、三度僕は手は握るけどそれも空を切る。それもそうだ。手首を掴まれたら僕の手が握るものがない。
少し不思議な感じだけど、これなら安心かなと思う事にする。思う事にするとしたのは、なぜかわからないけど、素直に安心と言うには心にポツポツと鳥肌が立つような気持ちがしたからだ。
身体の方はとっくに鳥肌まみれだけれども、これはきっと寒さのせい。吊り橋の下で奏でられる不協和音が、地形で増幅させた音を僕に叩きつけてくるせい。
僕がそう思っているところに、アズサちゃんの両手は僕の肩から背中に移った。
姉ちゃんはにっこりとした笑顔を僕に向けてくる。僕もその笑顔に答えようと、にっこりと返そうとする。だけど、僕の顔はにっこりと言うにはあまりにもぎこちなかったんじゃないだろうか。ギギギと建てつけの悪い扉を開ける時の、軋むような音をさせていたのではないかと自分でも思うほどだったのだから。
これもきっと……、寒さのせい――
「アズサっ、行くよっ」
「はい行くですのっ」
「ねぇ、そんなに改まってどこに行くの? ねぇっ。ねぇぇっ!」
僕の声なんてまるで聞こえていないように二人はワラう。声だけ聞けば、女の子二人の無邪気な笑い声なんてほんわかしそうなものだけど、状況が状況でその景色は異様だ。
「「せーのっ」」
二人の笑い声は掛け声に変わって前後で同時に重なる。そして嫌な予感。
「やめっ……。ヒィィィィィィィッ!」
的中。
一気に走りだす姉ちゃんとアズサちゃん。間に挟まれている僕も否応なしに走らざるを得なくなる。
姉ちゃんはグイグイと力強く僕の腕を引っ張りながら走る。僕が腰を引いてそれに抗いたいと思っても、アズサちゃんの手がそれをさせてくれない。
僕は走る。引っ張る姉ちゃん、押してくるアズサちゃん。その二人のスピードに寸分たがわず合せて走る。
「――――っ!」
僕は何かを叫んでいる。だけど、自分でも何を叫んでいるのかわからない。
僕はただ夢中だった。
足をもつれさせたらアウト。足を滑らせたらアウト。何かにつまづいたらアウト。
外れる。まさに、吊り橋の外への転落の可能性。
吊り橋の外へアウトしたらどうなるか……。そんなのは考えたくもない。
思考を止めた僕は息を止め無心に集中する。姉ちゃん越しにどんどん近付いてくる橋の切れ目だけを眺めていた。
「よっしっ! とーちゃーっく」
橋を抜けたところで姉ちゃんが僕の腕を開放して、両腕を上にあげた。僕の背中を押すアズサちゃんの手も間もなくして離れる。
「ふわぁ。ふわぁ……。ぷはぁぁぁぁぁ。生きてたぁぁぁぁ」
僕は二、三歩歩いてへたり込んだ。俯きながら呆けるように自分の両手を覗く。ここでようやく息を吐けた。
とは言うものの、ちゃんとした地面に足が付いてもう安全だと言うのに、早鐘のように打つ鼓動は収まる気配を見せない。
そんな僕の上に誰かの影がかぶってくると、僕の前にアズサちゃんが踊り出る。
僅かに微笑みをたたえながら、軽やかに白い尻尾をたなびかせる。目を奪うようなその姿は、雪の妖精が居たらこんなのなんだろうかとも思った。
アズサちゃんが僕の目線に合わせるようにしゃがみ込む。
変わらず、ドキドキしたままの僕の胸。
……もしかして、これって恋?
「うぷぷぷぷ。ヒャァァァってカイトの悲鳴ったら傑作でしたの。かっこわるーい」
「余計な御世話だよっ! もうっ!」
アズサちゃんは押さえる気もない笑いを口元を押さえる仕草をして僕を笑う。これは完全に小馬鹿にしているような笑い方だ。
むっかー、あったまにきた。あのドキドキは絶対恋なんかじゃないぞっ!
絶対恋なんかじゃないぞっ!
あれは吊り橋の緊張感が残ってたからそう勘違いしただけっ。
「アズサぁ。悲鳴もそうだけど、走ってる時のカイトの必死な顔ったらすっごく面白かったんだから」
「あら、私後ろでしたので見えませんでしたの。どんな顔でしたの?」
「こーんなの」
姉ちゃんが思いっきり変な顔を作る。口をへの字のまま大きく開けて目は大きく見開いた形。正直、
僕の真似だって言っても女の子がする顔じゃない。
それはそれとしても、僕はここはしっかり否定する。
「僕はそんな顔してないよっ」
「えー? じゃあカイトはどんな顔してたって言うの?」
どんな顔と聞かれれば、ぐうの音も出ないような顔で答えるしかないだろう。
僕は目をわずかに細めてキリっとした目を作る。そして少し顎を上げて、やや左向きにしてどうだとばかりに姉ちゃんに目線を流してやった。
「ふっ……。こんな顔、かな?」
サラサラ。髪からそんな擬音が聞こえてきそうなほどのきめ台詞を僕は放つ。
姉ちゃんとアズサちゃんは一瞬目を大きく開けて僕の方を見る。どうやら言葉が出ないようだ。
――――勝った。
僕はそう確信した。
「「ぶっ」」
姉ちゃんとアズサちゃんの二人が同時に吹き出す。
「あははははははははっ! 似合わな――あははははっ!」
「ぷぷ。ぷぷぷ。『ふっ』なんて言われましても困りますの。もう私、私どう反応していいか」
お腹を抱えて今にも転げ出さんばかりに笑いだす姉ちゃん。そして両手で口元を隠してこらえきれないようにほっぺを膨らませて笑うアズサちゃん。
おかしい。笑うところなんか一つもなかったはずなのに。
僕はきりっとした目のまま、顎に手を当てて考え込んだのだった。
《足場葉》
植物型。
獣人の森で見られる蔓性の植物で、芽吹いた時に蔓が二股に分かれる。二股に分かれた蔓は平行に伸び、その蔓の間を大型の葉が階段のように生えてくる。この時の蔓の間に生えてくる葉は必ず水平に付く。
水平に生えた足場葉の葉は上下の衝撃にとても頑丈で、動物、魔物の大小を問わずこの足場葉を足場にして移動する姿を見る事が出来る。
蔓は二股に分かれた蔓の左右いずれかが引っかかればもう片方の蔓が必ず平行に伸びるため、木に巻き付いて螺旋階段のようになっている姿も珍しくはない。
足場葉の葉は根元を支点に左右に振るようにすれば採れるが、枯れた足場葉の葉はその特筆すべき耐久性を失うため、足場葉の葉を利用して盾を作る等は有効ではない。
自らを足場にする事で、自身の若葉を食べる虫の天敵を容易に呼び込む事が出来るが、同時に自らの若葉を食べる動物の足場にもなるため、大きく育つ足場葉はそう多くはない。




