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芽吹きの庭

作者: 葉月
掲載日:2026/06/08

 実家に帰るのは一年ぶりくらいか。見慣れた家を眺めていると、勝手に涙があふれそうになる。私は慌てて目元を拭うと、玄関の扉に手をかけた。



 家の中は、思っていたよりもきれいだった。誰もいなくなってからもうしばらく経つはずなのに、埃は薄く積もっているだけでどこか生活感がある。

 片付けが行き届いているというよりは、ただそのまま残されている、という感じだった。


 靴を脱いで、廊下に上がる。床がギシッと音を立てた。歩く度に音の鳴る床を見て「こんなに古かったっけ」と思わず呟く。静かな家で、私の声がやけに大きく聞こえた。



 居間のテーブルの上には、使いかけのままのメモ帳が置いてあった。一番上のページには、買い物リストの途中のような文字。


 卵、牛乳、ねぎ——


 そこで途切れている。見慣れた字だった。それをそっと指でなぞる。また涙が出てきそうだったので、慌てて視線を逸らした。



 掃き出し窓の向こうに庭が見える。草は伸びて、ところどころ枯れている。手入れをされなくなった時間が、そのまま積もっていた。


 母は庭いじりが好きだった。子どもの頃は季節ごとに花が咲いて、名前も覚えきれないくらい、いろんな植物があったことを思い出す。


「お母さんの好きな花はなんだったっけ……」


 外に出ると、土の匂いがした。雑草ばかりが生えており、記憶の中にあるような色とりどりの花は咲いていない。


「……当たり前か」


 手入れをされていない庭を見ていると、現実を突き付けられているようで余計に胸が痛む。家の中に戻ろうとした時、人影が見えた気がして目を向けた。

 庭の奥、古い柵のそばで、しゃがんでいる影がある。


 ――子どもだ。


 何をしているのかはわからない。地面に手をついて、じっと何かを見ている。


「……何してるの?」


 問いかけると、子どもはゆっくりと顔を上げた。何も答えないまま、こちらをじっと見ている。


 何でここに?

 どうやって入ったの?


 そんな言葉が頭に浮かび、そして声に出す前に消えていった。何故だか、そんなことはどうでもいい気がした。

 どちらも言葉を発しない。しばらくすると、子どもが無言で私に手を差し出してきた。私は何も疑問に思わず、その手を取る。小さくて、あたたかい手だった。


 子どもと一緒に家に入る。飲み物を差し出せば、無言でそれを飲んだ。私は家の中を見渡すとため息をつく。


「片付けは明日やろう」


 子どもは勝手にソファで丸くなると、そのまま寝てしまったようだった。それを見て、私も横に布団を敷いて寝転がる。眠気はすぐにやってきて、私はそれに抗うことなく意識を手放した。



 目が覚めると、枕は自分の涙で濡れていた。どうやら寝ている間に泣いていたらしい。そういえば、誰かが手を握っていてくれた気がする。


 そこで、昨日の子どもの存在を思い出した。ソファを見れば、そこには誰もいない。もしや、あれは夢だったのか。そもそも、見知らぬ子どもを家に上げるのもおかしなことだ。


「今日こそは片づけなくちゃ」


 気が進まないまま立ち上がると、庭から水の音がした。その音に目をやると、子どもがじょうろを持って土の上に水をかけている。


「ちょ、ちょっと! なにやってるの?」


 夢ではなかったらしい。私が慌てて庭に出て尋ねれば、子どもは一度手を止めてこちらを見た。


「……土に、還してる」

「還す? なにを?」


 問いかけても、答えはない。子どもは私から目を逸らすと、再び水をやり始める。


「まあ、いいか……」


 ただ、庭に水をやっているだけだ。もう子どもがいることに疑問は持たなかった。

 私はため息をつくと、家の中に戻る。ふと振り返ると、庭のみどりが少し増えている気がした。



 その日の夕方。

 子どもが朝方水をやっていた場所に、小さな芽が出ているのを見つけた。ついさっきまで、何もなかったはずなのに……。

 しゃがみ込んで見つめると、やはり生えたばかりと思える瑞々しいみどりの芽だった。

 振り返ると、子どもがこちらを見ている。その子は何も言わないが、なんとなく無関係だとは思えなかった。


 一体、なにを還していたのだろうか。



 それから、何日かが過ぎた。庭は、少しずつ変わっていった。

 水をやった場所から、芽が出る。点のようだった緑が、線になり、面になっていく。枯れた葉も、瑞々しいみどりに変わっていった。


 子どもは、いつも庭にいた。土に触れて、葉に触れて、水をやる。


 自分も、水をやるようになっていた。

 泣くことが、少なくなった。

 家の中も、少しずつ片付いていく。


 手をつけられなかった場所にも、自然と手が伸びる。淡々と、片付けが進んでいた。



 ある日、ふと手が止まった。アルバムを整理していた時だった。

 写真を見ても、何があったか上手く思い出せない。子どもの頃の話だと言ってしまえばそれまでだが、何か違う気がする。


 母の口癖、好きな色、嫌いな食べ物。思い出そうとして、うまく掴めない。そこで、はっきりと違和感が生まれた。

 振り返ると、子どもがすぐ後ろに立っている。


「……これ」


 言葉が途切れる。確信はない。それでも。


「あなたが、やってるの?」


 子どもは少しだけ首を傾ける。


「……かなしいは、つらいから」


 土に還す。子どもが庭で言っていた言葉を思い出した。



 その夜、眠れなかった。思い出そうとすると、消えていく。

 母の声。台所に立つ背中。呼ばれたことのある名前。何度も繰り返したはずの、日常。

 それが、うまく浮かばない。輪郭だけが残っていて、中身が消えてしまったような感覚だった。



 翌朝、台所に立つ。引き出しを開けると、見慣れたはずの調理器具。母がいつも使っていた……はずだ。

 でも、もう上手く思い出せない。学生の頃は毎朝お弁当を作ってくれていた。落ち込んだ日は、いつも好物が並んでいた。

 なのに、それすらも曖昧になっていく。


 ゆっくりと、息を吐く。振り返ると、子どもが立っていた。視線が絡む。


「……あなたが、これをしてるの?」


 問いかける。いつも通り、子どもは答えない。ただ、近づいてきて、そっと袖に触れた。

 その瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。息が、楽になる。


 庭に増えたみどり。泣かなくなったのは、時間が経ったからだと思っていた。いや、考えないようにしていたのかもしれない。


 このままなら、楽になれるのだろう。思い出せないことも、気にならなくなって。痛みも、きっと消えていく。


 けれど――


「……いいの」


 言葉が、先に出た。


「もう、いいのよ」


 袖に触れていた子どもの手が、わずかに動く。


「忘れたくないの」


 はっきりと、伝える。


「つらくても、いいから。それを抱えて生きていくの」


 しばらく、静けさが落ちる。子どもは、何も言わない。ただ、そこにいる。


 やがて、手が離れた。体温が、少し遠ざかる。


 風が、庭を揺らす。葉が触れ合う音。

 庭に目をやれば、みどりはそこにある。来た時とは違い、土も、枯れた草も見えなかった。


 けれど、それ以上増えていく気配はない。


 もう一度、子どもの方を見る。そこには、誰もいなかった。



 庭に出る。やわらかな緑が、私を出迎えた。

 その中に、小さな青い花が咲いていた。しゃがみ込んで見てみれば、見覚えがある気がする。


「……ああ」


 ふいに、声が蘇る。


『勿忘草、好きなのよ』


 やわらかく笑う声。風に混ざるような、懐かしい響き。胸の奥が、ちくりと痛む。


「そっか……」


 指先で、そっと花に触れた。


「お母さん、勿忘草が好きだったね」


 思い出せることと、思い出せないことが混ざって、うまく言葉にならない。それでも、目を逸らさなかった。



 じょうろに水を入れて、ゆっくりと土に注ぐ。水の中に、ぽつりと、別のしずくが混じった。


 涙だと気づくまでに、少し時間がかかった。


 じょうろの水なのか、涙なのか、もう分からない。水はゆっくりと、土に吸い込まれていく。


 やわらかな風が、小さな青い花をそっと揺らしていた。

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