001 プロローグ
冒険者アシェルは壁に直面していた。
自分が無力ではないということの証明のために家を飛び出し、冒険者となっておよそ2年。能力の限界の壁、冒険者を評価する等級の壁、そして……金欠冒険者が最後に手を出すカチカチの黒パン、通称『壁』。アシェルの前には多くの壁が立ちはだかっていた。
「(装備の修繕代をケチるほうが死に直結する……。ご飯は、我慢……!)」
2つの大きな壁を越えるため、そっと黒パンに手を伸ばす。何故この黒パンが壁と称されているか? それはこのパンを口にした者が口を揃えて……。
「(壁を食べているほうがマシだこれ……)」
と、感想を抱くからだ。マズい、固い、味がしない。人間として最低限、食事とギリギリ称することが出来るか否かの境界線。それがこの黒パン、壁である。
1つの壁を越えたアシェルが向かう先は、自身の身体を休めるための宿。重い足取りで寝床のことを思い出すと、重い足に更に鉄球が着けられたかのように重くなる。安宿の寝床は硬く、隙間風も吹き、灯りもない。温かい風呂に入ったのは随分前のことで、最近はずっと冷たい川で水浴びしか出来ていない。
「あら、おかえり。はい鍵」
「ありがとう。おやすみ」
「ご飯は良いのかい?」
「お金……ないから」
「そうかい……。おやすみ」
寝床の評判は悪い安宿であるが、この宿を仕切っている女将の評判はすこぶる良い。人情があり、宿泊者に出来る限りのサービスを提供し、料理も美味い。宿のボロさ以外は完璧と言って過言でないだろう。
金がなく調子も悪そうなアシェルを心配しながら見送り、アシェルが最後の宿泊者だと確認すると女将は残念そうに部屋へ戻った。最近落ち込んでいるアシェルのために料理を作って待っていたのだが、金がないと言われては出すことが出来ない。1人を特別扱いしてしまうと、その話がどこからか漏れれば『俺も特別扱いしろ』と他の客にたかられてしまう。安宿でこれが起きるのは致命的なことだ。
「(なにか、作ってくれてたのかな……。申し訳ないな……)」
最近、この都市の周辺では野党が多く出没しており、魔物の活動も活発になっていた。アシェルはソロの冒険者であり、これら全てに対抗するための能力が備わっていない。強さで言えば下の上、そこらの素人よりは強いが、熟練の冒険者には簡単に倒される程度。野党や魔物が束になって襲いかかってきたら、あっという間に殺されてしまうだろう。
そのことは十分理解していたので、比較的安全なエリアでの薬草採集、紛失物の捜索、ちょっとした人助けなど……。治安が良くなるまでの我慢だと、自分の能力に見合った仕事で食いつないでいたのだが、一向に治安が良くなる傾向は見えず、むしろ治安が悪化し続けていた。
「(お金……。仕事……。明日はドブ浚いでもやるしかないか……)」
冒険者として小柄なアシェルは、力仕事というものが苦手だった。素早く器用に動くことは得意だが、筋力のほうは人並みかそれ以下というところ。以前は小型の魔物を討伐して稼げていたが、最近では稼げる仕事がなくなりつつあった。死活問題である。
そんなことを考えながら、割り当てられた部屋の前までやってきた。硬い寝床のことや明日の仕事について考えながらドアを開くと、部屋には外の寒い空気が流れ込んでいて冷え切っていた。
「はぁ……」
溜息をつきつつ、建付けの悪い窓を閉めようと歩を進める。『せめてこの窓ぐらい直してくれれば良いのに』と考えながら歩いていると、視界の端に見覚えのない色が飛び込んできた。
「(え……? 桃、色? なん――――)」
アシェルの力は人並みかそれ以下、しかし敏捷性においては人より優れていた。そして敏捷性よりも優れているのが……。
「動くな。動いたら殺す。勝手に喋っても殺す」
「……ッ!?」
そう、判断力である。見慣れない色があった……それだけの情報で、アシェルは腰に下げた細剣を抜き放ち、その色の持ち主に対して突きつけていた。
「(角……? 桃色の髪に、艶めかしい体、派手な格好……まさか)」
侵入者の正体は、普通の人間ではなかった。
頭に羊のような角を持ち、愛らしい桃色の髪に、見るものを魅了する肉体を持つ夜の住人……。
「お前、サキュバス?」
「…………ッ!」
「答えろ!」
「で、でも喋るなって」
「答えろって言ったら答える!」
「サ、サキュバスです! ごごご、ごめんなさい!! 殺さないでぇ!!」
人々の生命力を吸い取り永遠の美と命を持つと言われる、夜魔であった。
「なんでチャームが効かな、ごぇっ……!!」
サキュバスはチャームという魔法を使い、人々を魅了状態にして生命力を貪る。だがこのサキュバスの使ったチャームはどうやら不発だったらしく、アシェルには微塵も効いていなかった。
そして、アシェルの警告も聞いていなかった。いや、聞いていたがすぐに忘れた。勝手に喋ったので腹に蹴りを入れられたのである。
「質問にだけ答えろ」
「は、はびぃ……!」
「名前は?」
「アイヴィでず……」
「どうして私の部屋に?」
「…………き、昨日の昼間に見かけて、格好良いなぁってぇ~」
「は?」
「だ、だって!! 君達だってみてくれの良い、美味しそうな食事のほうが良いでしょ!? 僕もそう思っただけなんだよぉ~!!」
サキュバスの名は、アイヴィと言うらしい。たまたま見かけたアシェルの容姿に惹かれ、今夜こっそり忍び込んで頂こうと目論んでいたのだ。
サキュバスが人の密集している都市に現れ、今回のように侵入して人を襲うというのは非常に珍しいことだ。本来は辺境の村などでこっそり暮らしていて、複数人の男性と関係を持ちながらのんびり暮らしている種族なのだ。それが何故かアシェルの住む都市に現れ、大胆にも侵入して襲いかかろうとしてきた。アシェルの脳内は『なんなんだこいつ……』という困惑の感情で埋め尽くされている。
「それで、襲いかかろうとしたわけ?」
「うん! 君、美味しそうだし……。それに、いい匂いがするし!」
「チャームが効いたら、どうするつもりだった?」
「こうさ……。襲うんだよね? えっと、がお~ってやれば、エネルギーが吸えると思う! うん、きっとそう!」
アイヴィは馬鹿であった。それもただの馬鹿ではなく、とびきりの馬鹿であった。
サキュバスであるにも関わらず、生命力を吸収する方法を知らなかったのである。まるで生まれて間もない雛鳥のように、どうやってご飯を食べるかの知識が備わっていなかった。
当然アシェルは頭を抱えた。こんな馬鹿なサキュバスがこの世に存在するのかと、この先どうやっても生き残れそうにないアイヴィを見て心底呆れ返った。もはや、動いたら殺すなどという言葉はどこかへ消え去り、殺意の欠片も残らず消えてしまった。
「……今までさ、どうやって暮らしてきたの?」
「ええっとね、3人のお姉様が居てさ! 僕にエネルギーを分けてくれてたの!」
「で、いつまで経っても自立出来ないから、呆れられて捨てられた?」
「ううん、わかんない……。頑張って生き延びなさいって、お姉様達に魔界を追い出されたんだぁ~……。僕、どうすれば良いのかわかんなくって、でもお腹が空いちゃって……」
「魔界? ダンジョンの奥深くで繋がってるって言われてる、あの魔界……?」
「うん! そうだよ! ダンジョンにはお姉様達に連れてって貰ったことがあるけど、すっごく怖いの!」
アイヴィは雛鳥であった。どういうわけかまともな教育も受けず、生き残るすべを知らぬまま人間界へ放り出されてしまった雛鳥であった。
アシェルの胸の中には、2つの感情が生まれていた。1つは『世のため人のため、この魔族は殺しておくべき』という感情。そしてもう1つは『生き残るチャンスすら与えられず殺されるのは可哀想だ』という感情。魔族は人間にとって害となることが圧倒的に多い。サキュバスは特に、人から生命力を奪う魔族として、特に冒険者から恐れられている存在だ。サキュバスに生命力を吸い尽くされ、金級冒険者が鉄級よりも下の銅級冒険者程の能力しかなくなってしまったという話さえもある。冒険者にとって、サキュバスは天敵に等しい存在なのだ。生かしておく道理はない。
だが、同時に可哀想とも思ってしまった。自分とは異なり、アイヴィには選択肢が与えられず追い出された。チャンスもなく死を待つのみだった。そう思うと、殺すという選択は出来なかったのである。故に、会話を続けようと試みた。殺す理由さえあれば……と、考えたのだ。
「あんたさ」
「アイヴィだよ~!」
「……アイヴィは、自分の力を正確に理解してる?」
「うん! あのね、お姉様達から聞いたんだけど、僕の力ってとっても幅広く使えるみたいで、凄く危ないんだって!」
「……その内容は?」
「え? えっと、えっと……。あ! ポーションの力を吸い取って、セリエお姉様の傷を治したことがあるよぉ~!」
アイヴィの能力はサキュバスの得意技に漏れず、ドレイン系で確定であった。しかし、アシェルはこの話に違和感を覚える。サキュバスは吸うのは得意だが、吐くことは出来ないとされている。つまり、一度生命力を吸い取った相手にそれを戻すということは、絶対に不可能。しかし今の話が本当ならば、アイヴィはサキュバスの常識をひっくり返す存在ということになる。
そして、サキュバスは神聖魔法が使えない。傷を治すものは全て神聖魔法の領分であり、サキュバスはそれが使えないので当然傷を治すことなど出来るはずがない。そこでアシェルは話の真偽を確かめるため、あることを思いついたので試してみることにした。
「……これ、安いポーションだけど。これも吸い取って、私の腕の傷とかが治せるってこと?」
「う~ん、ちっちゃい傷ぐらいしか無理だと思うけど……。あ、これぐらいなら!」
「やって」
「ええ、でもお腹空いちゃって……」
「死にたい?」
「ひいいいっ!? やります、やります!! えいえい、えいえいっ!!」
アイヴィはポーション瓶を受け取ると、栓をあけることもなく瓶に手をかざした。すると、ポーション瓶から光の粒がアイヴィの手の中に吸い込まれ、今度は逆にアシェルの腕に光の粒を放出した。
「……治ってる」
「わへ~……。お腹空いた……」
「これでも食べて我慢して」
アシェルは壁をアイヴィに押し付け、自分の腕をよく確認する。傷は跡形もなく消え、痛みもなく、幻覚であるような様子もない。
「うぇえ~……。カチコチで、大きいよぉ~……」
「アイヴィ、この能力だけど……」
「うん! お姉様達がね、いっぱい褒めてくれたんだよぉ~!」
「絶対に、誰にも喋っちゃダメ」
「えっ? 皆に褒めて貰いたいのに」
アシェルは直感した。この能力は、絶対に公表してはならないと。
傷を治すのは神聖魔法、教会の領分である。神の慈悲により施される、神聖なものであるとされているのだ。それを対局の位置に居る魔族に同じようなことが出来るとなれば……不都合。
「アイヴィ、死にたくないよね?」
「う、うん……。お姉様達に、頑張って生き延びなさいって言われたし、僕ね? 死にたくない……」
殺すべきだ。サキュバスを討伐したと教会に報告すれば、金貨10枚はくだらない。金貨10枚といったら、今より良い宿で2年は遊んで暮らせる程の大金だ。節約して生きれば、10年以上何もせずとも暮らせるだろう。それだけの大金である。
「私は、アイヴィを殺さない」
「や、やったぁ……! じゃあ、えっと、お友達から……」
「私の従魔になりなさい」
「ジューマ?」
「…………ペットになれってこと」
「ぺ、ぺっとぉ!? ど、どうして……」
「あのね、魔族っていうのは――――」
先程にもあった通り、魔族という存在は人間の害となる存在。保護されていない魔族を理由なく殺したとしても、なんら罪にはならない。むしろ褒め称えられる行為なのだ。アシェルはそのことをアイヴィに教えると、最初はふわふわとした可愛らしい笑顔だったアイヴィも、恐怖に顔が歪み泣き出しそうになっていた。
「ぼ、僕、死にたくない……!!」
「だから、私と従魔契約を結べって話になるの」
「それをすると、どうなるの……?」
「私に保護されいている魔族だから、犯罪行為をしない限り殺せなくなる。本当は保証人とか居ればもっと安全なんだけど、私はソロだから……」
従魔契約をすれば、アシェルの従魔のアイヴィということになり、殺すことは出来なくなる。ただしアイヴィが犯罪行為をしでかした場合、その責任はアシェルにも及ぶことになる。アシェルにとって、リスクしかない行為だった。なんら得がない。
「私はアイヴィを保護し、そして殺さない。これが私側の条件」
「うんうん」
「アイヴィは、私の許可なく能力の秘密を何らかの形で伝えることの禁止、許可なく能力を発動してならない、私に隠し事をしない。そして命令には必ず従うこと……これが条件」
「う……ん? 僕のほうが、凄く条件が多いよ?」
「ここで殺したほうが、全て丸く収まるんだけど」
「ごめんなさい! それで大丈夫です!」
だが、アシェルには考えがあった。もしかしたら、自分を悩ませている壁を、越えられるかもしれない……と。リスクは大きいが、リターンも大きいかもしれない、と。
いつぞや教わったことがある従魔契約の魔法をどうにか思い出し、アイヴィの同意を得て従魔契約魔法を進める。
「ねえねえ?」
「うん?」
「契約にアシェルのことを様付けで呼べってないけど、大丈夫?」
「……別に、なんて呼んでも良い」
「じゃあ、僕はこれからアシェルのこと、アシェるんって呼ぶぎゃぁあああ!!」
立会人が星空と満月のみの、ひっそりとした契約の儀式。この日、人間と魔族の新たな主従が誕生した。
「アシェルって呼んで」
「…………はぁい」
主人の名はアシェル、極普通の鉄級冒険者。従者の名はアイヴィ、ちょっと訳アリな世間知らずのサキュバス。
「ところでアシェル、どうして僕のチャームが効かないの~?」
「…………それ、同性って効く?」
「効かない! え、あっ……」
「まあ、そういうこと」
これは、獲物の性別さえ見抜けない間抜けなサキュバスと、サキュバスに一目惚れされた女の子の物語。
2人の出会いがこの都市を、いずれ世界をも動かすキッカケになることを、2人はまだ知らない…………。
「えええええええええええええええええええええええええええはぎゃっ!?」
「うるさい」




