黒水の怪物
水面が煮え立ちはじめた。
それは、太陽が水面を温めるときのような穏やかなものではなかった。
魚が流れを破るような自然なざわめきでもなかった。
それは──不自然な沸騰だった。
暴力的で、
闇に染まった沸騰。
湖の表面が爆ぜ、腐った鉱石のような匂いを放つ黒い泡が吹き出した。
まるで大地そのものが、それから逃れようと、何かを吐き出そうとしているようだった。
リアナは一歩後ずさった。
肺に空気が入らない。
──目覚めろ!──とゼウスの声が雷のように轟いた。
──考えるな。動け──とフレイヤが命じた。
──侮るな。そいつはこの世界のものではない──とヴィシュヌが警告した。
そして──リアナは見た。
湖の中央から浮かび上がる何かを。
それは、形。
それは、質量。
それは、存在してはならない「存在」。
四本の脚を持っていた──だが動物ではない。
熊ほどの大きさだったが、その黒く濡れた皮膚には、ねばついた油のような液体が絶え間なく滴っていた。
背には棘が生え、上下に振動している。
呼吸のたびに、剥き出しの脊髄が波打った。
前脚は水中の生物のように長く、滑らかだったが、
尾のはずの部分には、人間のような長く細い腕があり、指が蠢いて何かを探しているようだった。
そして──顔は、
なかった。
そこには、巨大な口があるだけ。
無数の奇形の歯が生えそろった口。
そして、眼は──体中に散らばっていた。
まばたきを繰り返しながら、あらゆる方向を監視していた。
リアナは胃がきゅっと縮むのを感じた。
──……お前……何なの……?
怪物は吠えた。
だが、それは音ではなかった。
黒い水が岩にぶつかり、吐き出されるような──
湿った、ねばついた、粘性のある「音」。
その咆哮の波動に触れた植物たちは、溶けるようにして崩れ、灰となって地に落ちた。
──リアナ、今だ!──とケツァルコアトルが叫んだ。
彼女は即座に跳躍した。
地面を焼くように飛び散る腐食性の液体を辛うじて避ける。
着地と同時に構えを取る。
膝を曲げ、指先には電気が宿っていた。
──風のように動け。
雷のように撃て。
そして、触れさせるな──
ゼウスの声は、静かにして揺るぎなかった。
イシスが言葉を重ねた。
──その液体が肌に触れれば……傷では済まぬ。
“穢れ”が体内に入り、お前を蝕む。
リアナは唾を飲み込んだ。
彼女は、その名前を知っていた。
湖の底から囁かれていた名。
──アウィツォトル。
既に滅びた世界の、怪物。
アウィツォトルはその巨体に似合わぬ速度で突進してきた。
走るのではない。
流れるように滑り込んできた。
不自然なまでに滑らかで、獰猛な動き。
リアナは横へ跳んだ。
風が彼女の足を包み、跳躍を導く。
ぎりぎりで避けた。
ズバァアア!!
アウィツォトルが着地した場所は、黒泥の穴となって溶けていた。
リアナは歯を食いしばった。
──……いいわ。
やってやる!
彼女が手を掲げる。
空が即座に応じた。
雷が轟き、怒りとともに怪物の背に落ちた。
アウィツォトルが、湿った、肉が裂けて泣くような悲鳴を上げた。
のたうち回る──
だが、倒れない。
退かない。
むしろ──
全身に散らばる眼が、一斉にリアナに焦点を合わせた。
再び、突進してくる。
先ほどよりも速く。
より飢えたように。
より「生きて」いるように。
アウィツォトルとの最初の戦いが、今まさに始まった。
そしてリアナは、怪物たちが支配する「現実の世界」へと、ようやく一歩を踏み出したのだった。
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