3. レウルと霞パン
ケットシーの村は雨が降らない。
これは大規模な魔術により構築された一種の結界によるものだ。降った雨が上空で霧に変換されるのだとか。なのでケットシーの村の周りはたいてい霧に包まれていて、不審者を通さない仕組みにもなっている。幻覚のような、人を迷わせる作用があるらしい。
というわけで、本日はこの霧を調理していこうと思います。
霧を食材にするなんて訳のわからない話に思えるが、魔術を使えば実はなんとでもなる。これは昔、先代ドルイドに教えてもらった知識だ。パンを焼くのにイースト菌がなくて膨らまないと相談したら、霞を入れて焼けばいいと言われたのだ。ケットシーの村に伝わる伝統的なパンらしい。
使うのは朝一に採れた新鮮な霞だ。霞に新鮮とかあるかわからないが、気分の問題だ。魔力の膜に包んで確保しておく。この魔力の膜は、料理をするときに全身に纏わせることで猫毛混入を防止する効果もある。
これを小麦粉と木の実ミルク、夢種油で捏ねたものに混ぜる。しばらくすると膨らんでくるので、もう一回軽く捏ねる。ポイントは寝かせるときに冷たい場所に置くことだ。肉球がひんやりしてくるくらいの温度がいい。
捏ねたものはいくつかに分けて丸めて、再度寝かせる。最後に膨らみ終わったら、オーブンで焼くだけだ。
つまり発酵の過程とそう変わりはしない。本当に膨らんだ時は驚いた。この世界の仕組みはよくわからないし、人間たちが酵母を使ってパンを焼いているかどうかもわからない。ただ、行商エルフには珍しいと喜ばれるので、霞を使ってパンを焼くことはないのだろう。
「ちゃんと焼けたかな」
オープンから取り出したパンはつやつやの薄茶色で、焼き立てのいいにおいがする。少し冷ましてから割ってみると、ふわふわの生地がしっかり焼きあがっていた。
「うん、おいしい」
食感はふわっとしていて、高級食パンのようだ。かすかに甘くて上品な味がする。行商エルフいわく、こんなにやわらかいパンは他にないらしく、ケットシーの霞パンとしてよく売れるのだそうだ。仙人が霞を食って生きるように、ケットシーは霞パンを食べるというネーミングなのかもしれない。
せっせとパンを捏ねては焼いて、焼きあがったものはひとつずつ袋詰めにする。なんの変哲もない茶色い紙袋のように見えるが、殺菌の魔法陣が刻まれているものだ。これでしばらくは持つようになる。
いくつかはまとめて大きな袋に入れて、よいしょと両手で抱える。これはお裾分け用だ。
パン自体は軽いが袋が大きいので、靴を履いて足元に気を付けつつ外に出る。目的地はこの村で一番大きな家だ。
一番大きいというのは、立派という意味ではない。物理的に大きな者が暮らしているから、大きな家なのだ。つまり、人間の暮らしている家である。
ドアについている呼び鈴――これはケットシーの村ではこの家でしか見たことがない――を鳴らすと、すぐにドアが開いた。
「まあ、いらっしゃい。レウルさん」
顔を出したのは、真っ白の髪の人間だ。この村に住む二人の人間のうちの一人である。
「こんにちは、サリェ。体調はどう?」
「ずいぶんいいわ。パンを持ってきてくださったの?」
「うん。どうぞ」
人間は食べないと生きていけない。そして、パンは主食だ。なので、パンを焼いたときは人間であるサリェたちにお裾分けするようにしている。
「助かるわ。いつもありがとうね」
サリェは嬉しそうに受け取り、「お茶でもしていってちょうだい」と家に上げてくれた。この家は土足なので、靴のまま上がらせてもらう。
「ゴルム、レウルさんがパンをお裾分けに来てくださったわよ」
「……むう、レウルか。いらっしゃい」
窓際の肘掛け椅子を独占していた真っ黒の塊がもぞりと動く。深い青の瞳以外は黒いケットシーだ。
「いつも助かるぞ。レウルのパンは、リアハもトーヤも好きだから」
「二人は不在かな?」
「遊びに出ているぞ」
ちなみにゴルムと契約している人間がサリェで、リアハと契約しているのがトーヤだ。トーヤはこの村に来たときは、というか今でもまだとても幼いので、サリェが育てているようなものである。なので四人は一緒に暮らしていた。
「また何か欲しいものでもあるのか?」
「絵の具を買おうと思って」
「レウルはなんでもするな。ふむ。絵の具は、トーヤも好きだろうか?」
「どうだろう。トーヤに文字を教える予定はあるのか?」
「サリェがな、人間の営みに戻ってもよいように教えるらしい」
「こちらも今オーランに文字を教えているところだから、絵の具で色をつけた絵と文字の表をトーヤにも作ってみようか」
「ほう?色のついた絵か。いいのではないか?」
ゴルムが尻尾をパタンと揺らす。お気に召したらしい。
「レウルさんは人間のようなことを思いつくわね。でもそうね、とても役に立ちそうだわ。作ってくださるならトーヤも楽しくお勉強できるでしょう」
お茶を淹れていたサリェが戻ってきてそう微笑んだ。もしかすると、子供向けの教材を知っているのかもしれない。サリェは人間の街にもそれなりに住んでいたはずだ。
「なら、作ったら見せに来よう」
「レウルさんにはもらってばかりね。どうぞ、おかけになって」
「気にしなくていい。こちらは、したいことをするだけだから」
人間サイズの食卓なので、座らせてもらうのは背の高い椅子だ。ケットシーなのでぴょんと飛び乗って、腰を落ち着かせる。ゴルムは肘掛け椅子で丸くなったままだが、顔はこちらに向けていた。
「そうだぞ。サリェはレウルに与えるべきものをすでに与えている。気にしなくてよい」
「トーヤの世話も大変だろうしな。む、緑のお茶だ。美味」
サリェが淹れてくれたのは早摘みのお茶だった。苦みがあるが、緑茶のようでとてもおいしい。サリェはこちらの好みをわかっている。
「妖精というのはみな親切ね。レウルさん、わたくしに頼みたいことがあればいつでも遠慮なくおっしゃって」
そういうサリェも、善き人間だ。善き人間でないと、妖精の村に住み続けることはできない。ある種厭世的な人間でもあるのだが。
「うん。オーランの教育については相談するかもしれない」
「茶トラのかわいいオーランさんね」
「よく歌っているオーランだ」
オーランはいろんな家に顔を出しているから、サリェも知っているらしい。ゴルムはあきれたようにこちらを見ていた。
「レウルはオーランを気に入っているのだな。弟子にするのか?」
「オーランが望めばね。でも、オーランはそのうち街に行くだろう」
「ゴルムはレウルが外に出ないことが不思議だぞ」
「まあ、まだしばらくはこの村でのんびりしたいからな」
こちらも好奇心はあるほうなので、とっとと村を出てしまうと思われていたらしい。でも、この世界自体が不思議なのだから、この村にだって不思議がたくさんある。まだまだ退屈はしない。
お茶を飲んで雑談をし、サリェに撫でてもらって心地の良い時間を過ごすことができた。元人間なので人間に撫でられるのに抵抗はあるのだが、サリェはケットシーを撫でる達人だと思う。さすが気難しいゴルムが契約する人間だ。トーヤはまだ幼子なので、こう撫でてもらうことはない。
お土産にサリェの焼いたパウンドケーキをもらい、家に戻る。すると家の前にはオーランが立っていた。
「あ!レウル、戻ってきた」
「オーラン、何か用?」
「パンのにおいがするからオーラン来た」
耳ざとい、ではなく、鼻ざとい。笑って家の中に招いてやる。
「パンは行商に卸すものだけど、オーランの分くらいならあるよ。おいで」
「やったあ。オーラン、レウルのパンすき」
オーランが「レウルのパンはかすみのパン」と歌いだす。宣伝にもなりそうだ。行商エルフが来たら歌ってもらおうかとちょっと考えてしまった。




