1. ケットシーのレウル
ぽたり、と目の前の葉に水滴が落ちる。ぽた、ぽた、とゆっくり集まった朝露を、両手で抱えられる水瓶に丁寧にうつした。
この時間はまだ寒い。きんと冷たい空気に髭の先がふるえる。伸びをしたくなったが、両手に水瓶を抱えているので今はできない。代わりに耳をぱたぱたと動かす。
朝露が十分に溜まったので、濡れた葉をしゃくしゃくと踏み、家に戻る。この村には家に住んでいる者と、大きな木のうろに住んでいる者と半々くらいだ。木のうろも悪くはないが、やはり住むなら家がいい。木造の簡素で小さい家ではあるが、雨の降らないこの村においては十分である。
水瓶の中身をやかんに入れて、魔法陣の上に置く。熱が伝わってそのうち沸くので、ティーポットに紅茶の葉を入れて湯を注いだ。紅茶はこの村では貴重だ。朝露を集めるのも、貴重な紅茶を美味しく飲むためである。魔術で生み出した水は、どうしても魔力の味がする。
先週くらいに作ったクッキーをガラスの瓶から取り出して、木製の素朴な皿の上に並べた。ジンジャーと木の実の、あまり甘くないクッキーだ。スパイスも入れてすこしピリリとする。好みが分かれる味かもしれない。
蒸らした紅茶は陶器のコップに入れて、分厚くてふわふわの産毛が生えた葉で作ったカップスリーブをはめて両前肢で持った。ふうふうと冷ましながらぺろりと舐める。
「うん、ちょうどいい」
目を眇めて今度は口をつけて飲む。これは人間時代に培ったわざなので、まわりでやる者はあまりいない。熱い飲み物ならなおさらだ。
クッキーをかじり、早朝の静かな時間を過ごす。食べ終わったら片づけをして、寝室に戻った。寝室といっても、寝台があるわけではない。ラグの上のふかふかのクッションをいい感じに整え、一度伸びをして、毛布と一緒に丸くなる。二度寝をするのだ。
なぜなら、猫なので。猫は眠るのが大好きな生き物である。
この村には、猫妖精が住んでいる。まれにほかの妖精や人間が居つくこともあるが、ほぼケットシーの集落だ。
自分という個体がその村に発生したのは、数十年前である。百年は経っていないはずだ。五十年か、六十年くらいだろうか。ケットシーはあまり年を数えないので、こちらの記憶もあいまいである。
ケットシーに限らず、妖精の発生というのは必然的なものと、偶発的なものがある。前者は妖精同士が番った結果として生まれるもの。後者は、魔力の溜まりなどから妖精として実体化するもの。
こちらは後者であるから親兄弟はいないが、集団で暮らしている妖精は何くれとお互いを気遣うものだ。こちらに人間だったころの記憶があるのもあって、そう不便したことはない。
それに、ケットシーたちは社会的でも、野生的でもない。妖精は魔力さえあれば生きていけて、働くとか食べ物を得るとか、そういう行為に必死になる必要はないのである。一日中のんびり転寝をしていてよいのだから、困る理由は暇だから以外にはほぼなかった。
もちろん、労働とか何かをつくるだとかの行為が好きな者はいる。人間と暮らすケットシーもそれなりにいるし、ケットシー集落外で暮らすケットシーは何らかの役割を担っていることがほとんどらしい。まあ、村の外に出ることはあっても、人間の町に行ったことはないので、らしいとしか言いようがないのだが。
こちらは、人間として生きた記憶があるだけあり、比較的何かをして過ごすのが好きな性格のケットシーだろう。茶を飲むとかクッキーを焼くあたりが完全にそうだ。そういうケットシーは木のうろではなく、小さな家に住んでいることが多く、互いに作ったものを交換することも多い。
「レウル、レウル」
トントントン、とドアをノックされる音で目が覚める。星というのがこちらの通り名だ。ケットシーは身体的特徴や性格、職業から通り名がつくことが多い。レウルというのは目にきらきらと星のようなものが散っているからそう呼ばれている。
ぐっと伸びをしてからクッションから身を起こす。ドアを開けると、頭から背中にかけて淡い茶色の虎模様のケットシーが立っていた。ちなみにケットシーは二足歩行で歩くし、靴を履き服を着る個体もいる。服と言っても、ベストや上着だけのことが多いが。
「おはよう、オーラン」
「もうお昼だよ、レウル。一緒にご飯食べようって言ったよ」
「そうだった。早起きしたから二度寝して寝過ごしたな。ごめんごめん」
「オーラン楽しみにしてたんだからね」
オーランは玄関マットで靴を脱いで家に上がってくる。我が家は土足厳禁なのだ。
「早起きって、レウル、また朝露集めてたの?」
「うん」
「マメだねえ。お茶飲みたい」
「いいよ。手を洗って座って」
「やったあ」
魔術で手を清めて、オーランがいそいそと椅子に腰かける。こちらはその間にやかんに瓶の中身をうつして、魔法陣の上に置いた。
オーランは近くに住んでいるケットシーで、歌という名の通り、よく歌う陽気な個体だ。そして好奇心が強い。行商人について村を出たこともあるし、こちらが作る料理にも興味を示した。こちらとしても誰かに食べさせるのは嫌ではないので、ねだられたら作ってやっている。それにオーランは単独で発生した若い個体なので、面倒をみてやっているところもある。
ちなみに、妖精は自分のことをこちらと呼ぶことが多いが、名前を気に入っている個体は一人称が名前であることもある。通り名は変わることもあるが、オーランはずっとこのままだろう。
「今日は何のお茶?」
「紅茶だよ」
「わあ、珍しいやつ。うれしいな」
味より物珍しさで喜んでにゃんにゃんと歌いだすのを聞きながら、朝と同じように紅茶を淹れる。ちなみにオーランは舐める派なので、カップは浅くて口径が大きいものである。
「ご飯作ってるから飲んで待ってて」
「ありがと、レウル」
飲んでいるあいだは静かになる。エプロンを身につけ、冷蔵箱から鳥のだしをとったスープを取り出し、鍋に野菜と一緒に入れて煮込む。味が足りないかもしれないので、干し肉も切って入れた。
それから、小麦粉を水で溶かして薄いクレープを作る。これに葉野菜を載せて巻いて食べるのだ。今日はちょっと奮発して、薄くスライスしたチーズも一緒に巻いた。
オーランがにゃんにゃんと再度歌いだしたのは料理のにおいがしだしたからだろう。オーランはけっこう食いしん坊だ。
「おまたせ。オーラン、こっちの皿を運んで」
「スープのかおり!オーラン、レウルのスープ好き」
「チーズもあるよ」
「チーズも好き!」
チーズは足が速いので、たくさんは買えない。行商エルフには時間を止める運命属性の倉庫を持っている者がいるが、残念ながら我が家にはないし、魔法陣も知らない。多分ものすごく魔力を使うと思う。食材を長持ちさせる魔法陣がせいぜいだ。
二人で食卓につき、「光の神ルレインよ、このひとときを照らしたまえ」と祈りを捧げる。それからケットシーの前肢でスプーンを持った。ケットシーは食事をしなくてよいので、村でカトラリーを使える者は少数派かもしれない。オーランはスープを一口食べて、ひげ袋を膨らませた。
「スープおいしい」
「それはよかった」
「胡椒かけたい」
「はいはい」
スープボウルの上でゴリゴリと胡椒を挽いてやる。オーランも昔は削るたびにくしゃみをしていたものだ。懐かしい。
「レウル、オーランも料理したいな」
野菜巻きクレープを食べたオーランが不意にそんなことを言ってくる。
「料理をするなら、まずは魔法陣を覚えないとだな」
「そうなの?」
「火にかけるのと、食材を保存するのとだ。それと、刃物の扱いを知らないといけないし、食べられるものを見分けられるようにならなきゃいけない。覚えることはたくさんある」
「レウル、教えてくれる?」
「まあいいだろう。こちらも暇をしているからね」
「やったあ!」
オーランは、そのうち村を出る個体のような気がする。知識はあったほうがいいだろう。ただし、何年かかるかわからないが。
まあ、ケットシーは暇な上に長生きだ。のんびり教えてやればいいか。
食後はオーランに誘われて外に出た。今日は日差しがあって暖かい。雨が降らないとはいえ、曇っている時は曇っている。
「しばらく晴れて暖かいって、天の目が言ってたよ」
「それはよかった。ということは、いつものところか」
「うん」
スイル・ネヴは運命属性の発現が強いケットシーなので、天気を聞けば答えてくれる。そして曇りの日に毛がくるくるになるのには困っている。雨が降らない分、霧や露が降りて湿度が高くなるからだろう。晴れの日は機嫌がいいので、機嫌だけでおおよその天気を察することはできるのだが。
オーランについて歩くと、ぽかぼかと暖かい空き地に出る。木漏れ日が射しているのもいい。こちらの毛皮は大部分が黒いから、直射日光は少し苦手だ。
空き地には他にも何人かのケットシーが丸まっていた。みな昼寝をする最適なスポットを探してここに辿り着いたのだろう。
「やあ、レウルにオーラン。ふたりもひるね?」
ぼんやりとした口調の灰色のケットシーが声をかけてくる。薄いブルーの瞳も気だるげだ。
「リアハ!こんにちは」
「やあリアハ。そうだよ」
「そっか。レウルはいつもおいしそうなにおいがするね」
「リアハのところもご飯作ってるでしょ?」
オーランが首を傾げて尋ねた。
リアハは人間と住んでいるケットシーだ。この村で人間は二人だけで、リアハの主人はそのうちの一人である。なので当然食事も作るし、リアハも食べているはずだ。
「うん、でも、レウルはなんだかおいしそう」
「こちらを食べないでくれよ、リアハ」
「どりょくする」
以前外で寝ていたら、リアハに前肢で揉まれて毛皮を吸われたことがある。リアハはこちらより年上のはずだが。
妖精は嘘をつかないが、約束を破らないとは言い切れない。リアハの返答がこれなので、多分またやるだろう。仕方のないやつだ。
「ひるねなら、ここがいいよ。リアハもねむるから、さんにんでねよう」
リアハに先導された先の木の根元は確かにちょうどいい。木の根が苔むしてふわふわだし、生えている芝生も柔らかい。それに近くの霧草の居心地の良いにおいがした。
ケットシーの体はやわらかいので丸くなれるし、互いに折り重なっても息苦しくない。オーランがくるくると喉を鳴らすのを聞きながら、目を閉じるとすぐに眠りに誘われた。




