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果てしなく続く物語の中で  作者: 毛井茂唯
エピソード 混迷の大陸 黎明
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第9話 side敏夫 仮初の平穏



 うちの息子がとんでもない。

 

 自分の子どもが親よりお金を稼いだり、有名になることは普通に有り得ることだ。

 それにしても規模とか限度がある。

 誰が世界を救った人間になるなんて、想像できるのだろうか。

 

 おかげで、親である自分も表にこそ出ないものの有名人になってしまった。

 両親の教育についても、いい面も悪い面も取り沙汰されるが、信也に限っては俺も紀子も教育したと言える自信がない。

 

 今にして思えば、あいつの人格は家族として迎え入れた段階で、幼いながら完成されていたと思う。

 有り得ないことのように思えるが、有り得ないことではない。それくらい信也は自立していた。

 家族を支えて、大切にしてきた。

 悔しいが俺より父親らしかったとも言える。

 俺は仕事をするばかりで、余り家庭的ではない自覚はある。

 多分、言わなくとも考えて行動する信也や紀子に甘えていたのだろう。


 青野家は二人の柱を失ってしまってから、そのありがたみを自覚した。





 紀子は抜け殻のようになった。

 最低限自分の面倒はなんとかしているが、表情は動くことなく、自発的な会話もない。

 家のことは紀子に代わって娘たちが取り仕切っているが、娘たちにしても余裕があるわけじゃない。

 ご近所の塚本家の人達からも手伝って貰って、なんとか日々を暮らしている。

 

 1週間もすれば人間は慣れ始めるもので、ルーティーンを作り、二週間目には塚本家の手を借りずとも回るようになった。

 それでも心配だからと未だ手を借りているのが現状だが、精神的には有難い。

 大人が俺一人ではどうにも辛い。

 娘たちからは、信也がいなくなっても様子の変わらない俺のことを冷たく見られている。

 いや、これに関しては悲しいことにいつも通りかもしれない。

 ようは平穏だった日々が、胃の痛くなるような日々に変わり、俺は辛いということだ。


 だからさ。

 俺が目の前の人間をぶん殴っても、許されると思うんだ。






「やっほー……ちょっとやつれた?」

「お前をぶん殴ったら良くなると思うぞ」

「拳が痛くなるから止めた方がいいよ?」


 電話一本で呼び出されて、家族に内緒で会っている朗らかな笑顔を浮かべるこの男、青野信也という野郎を殴りたい。

 

 深呼吸をしてから握り込んだ拳を開く。

 呼び出し場所が遊園地のフードコートって。

 信也と同じオムライスを突っつきつつ、なんとも言えない気持ちになる。


「殴るのは後でいいとして、一体何の用だ」

「殴るのは確定なんだ……まあ、いいけど。僕の用事はこれ」


 信也がテーブルに出したものは、上質な紙に書かれた印章付きの契約書だった。

 様々な条項があるが、契約書の内容は俺たち青野家が日本国籍でありながら、欧州連合の支援を受けることが出来るというもの。

 緊急時の移住の手続きや、渡航手段まで明記してある。

 こんなもの、どれだけの特例が与えられれば手に入るのか想像すら出来ない。


「本当は陰ながら見守るつもりだったけど、今回の試練は下手したら奈落の受胎以上に世界を混乱させるかもしれない、世界がどう動くか分からない。日本も安全じゃないから」

「……どうしてここまでやるんだ。俺たちのことを見限ったんじゃないのか」


 信也はそれを聞いて寂しそうに笑った。


「父さんの、敏夫さんの認識ではそうなんだ。でも違うよ、みんなが僕を見限ったんだよ」

「紀子の言葉はそんな意味じゃ、それに花音たちは今でも……」

「そんな意味なんだ、『青野信也』にとっては」


 顔を伏せ、そう呟いた信也の言葉は聡明さはなく、どうしようもないほど幼げだった。

 大人びた息子の、剥き出しの感情に触れたように胸が突かれる。

 

「どれだけ一緒にいても分かり合えない部分はあるよ。絶望から救い出されて、一度幸福を知った心は、昔よりずっと弱くなるんだ」

「……もう家族として分かり合えないのか?」

「僕に家族なんて居ないよ。居たこともない」


 顔を再び上げたとき、その顔は穏やかだった。

 ただその目は、幼子がガラス張りの中のおもちゃでも眺めるように、物欲しげに見えた。

 いや、これは願望が見せた幻だったのかもしれない。

 一度瞬きをしただけで、そこには何の情も宿していない無機質な瞳にしかなかったのだから。

 透明で、平等な心しか映していない。


 冷えた料理を静かに食べ、会計を済ませる。

 流石に信也に奢ってもらうのはプライドが許さないので固辞させてもらった。

 外に出れば寒くなり始めた秋風が頬を撫でる。


「それじゃあ、僕は帰るけど敏夫さんは遊んでく?」

「誰が大人一人で遊ぶか。遊ぶなら家族で来た時だ」

「そんなこと言っても、今まで一回も乗り物に乗ったことないくせに」


 家族と何度か遊園地に来たことがあっても、確かに俺は乗り物に乗ったことがなかった。

 そんなことよく覚えているもんだ。娘たちはおろか、紀子でさえ覚えちゃいないだろうに。

 ……昔から、本当によく見てるな。


「じゃあな、信也。殴るのは今度会ったときに取っとく」

「うん……殴られたくないから、これが最後のお別れだね。さようなら、敏夫さん」


 そう言って未練なく信也は背中を向けた。

 飾らない別れの言葉に、確かな決別の意思を感じた。

 本当に会うつもりがないのだろう。

 俺はその背に向けて言うべき言葉を、言いたい言葉を、喉のほんの寸前まで出かかって、飲み込んだ。

 子どものあいつが言わないのに、大人の俺が言うのは違うと言い聞かせて。

 

 こういう場面で、言い訳ばかりが上手くなる人間になってしまったんだと、少しだけ自分の成長を疎ましく思った。





「お父さん、何処行ってたの?」

「買い物するのに、車出してもらおうと思ってたのに」


 家に帰れば春香と萌香に尋問という名の歓迎をされる。

 最近は少し娘と会話することが増えたな。必要に迫られた感が否めないが、頼りにされるのは気分がいい。


「悪い、ちょっと呼び出されたんだ。今からでもいいか?」

「うん、今日は夕希ちゃんたちも連れてくから待ってて」

「私、呼んでくるねっ」

 

 二人がバラバラに去って行けば、代わりに莉々が近付いてくる。

 莉々は露骨に俺に懐かないが、珍しく距離が近い。クンクンと何やら匂いを嗅がれる。


「お兄ちゃんの匂いがする。……なんで?」


 光の無い瞳で、こちらを不思議そうに見てくる。

 ゾワリと寒気が走り、全身に鳥肌が立つ。

 莉々は何をしても可愛いが、この時ばかりは恐ろしかった。

 まるで刃物を首筋にあてられ、返答次第では首を切り落とされるのではないかと思えるほどだった。


「い、いや、会ってないぞ。フランス大使館の職員から書類貰ったが、それじゃないのかな?」

「んっ」


 差し出された小さな手に、恐々と信也に渡された書類を乗せる。

 莉々が書類の匂いを嗅いで確かめると、目の中の光が戻って来た。


「?」

「色々な手続き関係だよ。ちょっと莉々には難しいかな」

「…………ん」

 

 返ってきた書類を手に持ちため息を吐く。内容には興味がなかったらしい。

 どういう嗅覚をしていたら信也の匂いになんて気付くのだろうか。人間超えてるだろ。そもそも俺は信也に指一本触れていない。


 匂いとはブラフで、本当は俺の態度から推察した可能性が高いな。花音も鋭いし、会ったときは感づかれない様に気を付けよう。

 いや、よくよく考えれば黙っている意味ないよな。素直に信也から渡されたって言っていいのか。

 そうしたら家族も安心するんじゃ……。


「?」

「何でもないよ」

 

 動かなくなった俺を不思議そうに莉々が見て来る。

 咄嗟に嘘を付いてしまったし、今は莉々に言うのは止めておこう。まださっきの恐怖が抜けていない。

 俺は誤魔化すように笑いつつ、莉々の頭を撫でようとしたが「やっ!」と言ってバックステップで躱された。

 感情豊かになって、喋れるようになって嬉しいけど、拒絶する方向に伸びてほしくなかった。


 ガックリと肩を落とす俺を見ることもなく、莉々は背を向けて自分の部屋へ行ってしまった。

 リビングに入れば紀子と花音がソファーに座っていた。

 紀子はコップを両手に持ち、中身の無くなった底をじっと見詰めていた。

 

「母さん、今日は何が食べたい?」

「何でもいいわよ……」

「うーん、じゃあ昨日は魚だったしお肉にしましょうか。鶏肉と豆腐で和風ハンバーグなんてどう?付け合わせは金平ごぼう」

「それでいいわ」

「献立も決まったし、これからご飯炊きましょうか」

「ええ、そうね」

 

 二人の会話が終わり、花音が立ち上がる。

 扉の前に立つ俺に、花音の冷たい目が迎える。


「何かしら?」

「少し話があるんだが、いいか」

 

 花音は頷き、俺はリビングから廊下に連れ出して書類を取り出した。

 花音がそれを読み始めれば、徐々に顔を強張らせ、俺を睨みつけてくる。

 うちの長女は何故か迫力がとんでもない。思わずひれ伏したくなるがぐっとこらえた。


「どういうことかしら、こんな都合のいいものを父さんが用意したって言うの?まさかとは思うけど、信也を売ったなんてことはないわよね……」


 そういう発想も出来るか。

 どれだけ俺の株が安いのだろうか。もうチリ紙以下の代物かもしれない。


「違う。それは今日、信也に貰った。これからの試練で日本が危なくなった時に使えってな」

「どうして父さんなんかに、あの子のことを一番思ってるのは……」

 

 唇を噛み締めて、苛立ちを抑えるように手を固く握り込む。

 花音の膨れ上がる感情に呼応するように、空気が重く息苦しくなる。

 母親思いだし、紀子が一番思っていると言いたかったのだろう。


「あいつとは本当にこれっきりだ。しっかりもう会わないって釘も刺された。自分には家族なんて居ないって言われてな。それでも会いたかったか?」

「………っ」

 

 睨む目の強さが増すが、肯定の言葉は飛んでこなかった。

 花音は姉妹や幼馴染たちに、学校でも信也に会わないよう強く言い聞かせていた。

 お互い時間を置くべきだとして。


 会うのが、もう一度拒絶されるのが怖かったのだろう。

 淡い期待が壊れるのが耐えられないから。

 だから憎まれ役の俺がその事実を改めて言った。

 この様子だと、言葉を捏造して自分たちから信也を遠ざけるために言っているだけだと解釈されている可能性もあるな。

 書類を信也から受け取ったくだりすら信用されているか怪しい。

 だけど、それも仕方ないのかもしれない。

 

 紀子の代わりに、花音はこの家を支えてくれている。

 それでも、姉妹の中で誰が一番辛そうであったかと言えば、俺でも花音だと分かる。

 春香も、萌香も、莉々も、何かよりどころがあるのか大きな心の乱れはないが、花音は別だった。

 塞ぎ込む様になったし、感情的になりやすく、余裕がなかった。

 紀子の代わりをすることで、精神の安定を図っているのかさえ思う。


「それは花音に預ける。紀子の代わりに、大切にしまっておいてくれ」

「……分かったわ」


 書類をしまいに部屋へと去っていく花音の背中が見えなくなり、俺はその場に座り込んだ。

 花音の威圧が腰にきたのだ。


 うちの娘たちが怖すぎる。

 見かけも性格も天使なのに、俺に厳し過ぎやしないだろうか。


 少しの休憩の後、立ち上がってリビングの紀子に声を掛けた。

 その姿は虚ろで生気がない。

 紀子は若々しく美人だし、顔立ちは本当に整っている。

 だから今の彼女は、人形のようだった。


「調子はどうだい?」

「大丈夫よ」

「今日は信也と会ったぞ」

「そう、元気だった?」

「太々しいくらい元気だった。思わず殴りたくなったな。こっちの気も知らないでって」

「そんなことしちゃ駄目よ。あの子はずっと辛い目にあってたんだから。私たちは優しくしてあげないと」

「……そうだな」

「お腹を空かせていないかしら」

「きっと空かせてるだろうな。あいつは紀子の料理が一番好きだったから」

「なら、何か作ってあげないと」

「あいつはもう、会う気はないと思うが」

「そう」

「…………」


 会話が止まる。

 俺が口を噤めば、彼女が喋り出すことはない。

 これでも紀子は正常なのだ。心が壊れたわけでも、精神がおかしくなったわけでもない。

 知り合いのカウンセラーに確認してもらったが、飲み込めない感情を処理しようとして、時間が掛かっているだけだと言われた。

 そう時間を掛けることなく、いつもの彼女に戻るだろうと。

 ただ、整理がついたときに紀子は何を思うのだろうか。

 そればかりは誰にも分からない。

 寧ろ、今の方が幸せなのかもしれない。




「よろしくお願いします、お義父様」

「あなたのその言い方はなんなの。すいません、うちの妹が」

「いや、構わないよ。あいつも隅に置けないな……」


 春香と萌香と塚本姉妹を車に乗せて、郊外を目指す。

 ミラー越しに夕希ちゃんを見るが、贔屓目に見ているうちの娘たちに匹敵する器量だし、俺から見ても他人の評価でも、性格は思い遣りがあって非常にいい。

 家の手伝いをするし家庭的な面もある。

 

 そんな超優良物件のこの少女は、昔から信也のことが好きなのだ。

 どんな男子でも選り取り見取りなはずだが、うちの息子の何処に何処に惚れ込んでいるのだろうか。


 今でこそ試練の活躍で世界中にファンがいるが、それ以前は全くモテていなかった。

 性格もいいし気遣いも出来る、同年代では大人びていたから女の子に好かれそうだと思っていたけど、夕希ちゃん以外にはまるでモテない。いや、縁そのものが皆無だった気がする。

 世の中思ったより顔なのだろうか。俺が言えたことじゃないけど。


「夕希ちゃん、客観的に見て信也って女子受け悪かったのかな?」

「え、どうしてですか?」

「あいつ、試練が始まるまで女子の話題なんて何もなかったからね。身内贔屓に思われても仕方ないけど、俺としてはそこまで悪くないと思ってたから」


 その言葉に夕希ちゃんはギクリと肩を揺らして口を噤んだ。心なしか額に汗が滲んでいるような。


「信也君、女子受けは良いですよ。ただ男女の人間関係が複雑で、ちょっと女子が接触し辛い事情があったので、その辺りですかね」

「あ~そうだね」

「うん、まあ、あれはね……」

 

 有紗ちゃんの説明に、萌香と春香が訳知り顔で頷く。夕希ちゃんは何か面白いものでもあるのか窓の外を熱心に眺めていた。

 何やら女の子は複雑らしい。

 詳しく聞きたくなるが、目的地に着いてしまったのでまた今度にする。


 車を駐車場に止めて、有紗ちゃん以外の三人は店の中へと入っていった。


「有紗ちゃんはいいのか?」

「ええ、大丈夫ですよ。少し敏夫さんとお話したいこともありましたし」


 珍しいこともある。有紗ちゃんは夕希ちゃんと違ってあんまり俺と話さない。

 花音のように邪険にされているわけじゃなくて、大抵夕希ちゃんが用事を喋るためだ。

 

「最近の彼は、フランスの留学生と親しくしているみたいで、少し心配なんです。ただ花音に接触をしないように言われている手前、私からはどうにも言い出し辛くて」

「ほぉ、とするとあのゴシップの子か。さっきの話じゃモテないみたいに言ったけど、実はあいつもやることやってるんだな。美人だし、夕希ちゃんとしてはライバル出現で気が気じゃないわけか」 


 うん?今、ぞわっと寒気が走ったぞ。思わず二の腕を擦った。

 周りを見ても、穏やかな顔の有紗ちゃんがいるだけで何もない。薄着しすぎただけだろうか。


「そうですね。それでも義理がありますから行動できないようでして」

「あんまりうちのこと気にしなくてもいいよ。あいつが俺たちの家族でないにしても、二人が幼馴染なのは変わらないから。寧ろそこまで縁を切るつもりはないんじゃないかな」

「そう、だといいのですけど……」

 

 顔を落とした有紗ちゃん。表情は伺えないが、気を落としているのは分かる。


「今日聞いとけばよかったな……」

「え?」

「ん?ああ、今日は昼に会って来たんだよ、あいつに呼び出されて」

「………」


 あれ、また寒気が。しかも鳥肌まで立ってきて、ゾワゾワし続けている。

 風邪でも引いたのかもしれない。


「どうしてでしょうか?」

「書類を渡されただけだよ。ちょっと特殊だったから説明したかったんじゃないかな。俺との顔合わせ、というより家族との顔合わせは今日が最後って話だったけど」

「紀子さんでも花音でもなく……敏夫さんは信頼されているんですね」

「そうじゃないと思うよ。どちらかと言えば、何しても許されるくらいに思われていそうだけど」

「……自慢ですか、それ?」

「え、なんて言ったの?声が急に小さくて聞こえなかったんだけど」

「いえ、気を許されているんだな、と申しました。ええ、それだけですよ……」

 

 朗らかな笑みでそう言いつつ、有紗ちゃんも姉妹と合流するつもりのようで、背を向けて歩き去って行った。

 体の寒気はいつの間にか消えていた。

 念のため今日は帰って風邪薬を飲んでおくことにするか。





 それから数日後、紀子は復調し日常生活を送れるようになった。

 家事もいつも通りこなせて、特に危険な兆候はない。

 でもその口から、一度も信也の名前が出てくることはなかった。

 俺たちもそれを察して、紀子の前で信也の話題を出さなかった。

 

 

 その二週間後には新たな試練が始まった。

 次の日には信也はこの世界から居なくなった。

 世界はその情報によって、様々な憶測が流れては消えた。

 しばらくすれば消えた英雄なんかより、今の試練の方に話題がシフトし、取り上げられなくなった。



 青野家の中は変わりがなかった。

 内心どう思っていようと、話題にできないのだから当たり前か。

 それに、一ヶ月という時間で信也がもう家族じゃないのだと、この時は皆理解し始めていた。


 信也の部屋は、気付けば何も無くなっていた。

 ベッドも机も、わずかに残っていた私物も何もかもない。

 俺が会社に、娘たちが学校に行っている間、部屋のものを全て、紀子が業者に捨てさせていた。

 

 世界からも、青野家からも、信也の痕跡は跡形もなく消えていた。


 親権の辞任を進める手続きに関する書類が、紀子の荷物の中に紛れていた。

 俺には何の相談もなかった。

 紀子はまるで憑き物が落ちたように、信也のことを気にしなくなっていた。



 信也が消えてから二週間の時が流れた。

 丁度試練の折り返しの日数となる。

 あれから何千人の試練資格者が亡くなっただろうか。


 資源ポイントを持つ現地生物が、理不尽なほど強すぎた。

 例えば1000ポイント持つ現地生物の強さは、大焦熱地獄の統率個体と同等ほどあるという。

 1000ポイントの現地生物にすら、一国の試練資格者数百人が全滅させられた。

 そんな驚異的な生物ですら、新大陸では生態系の下層でしかない。


 まともに戦えるのはごく一部、危なげなく10000ポイントを個人で集められるのは、日原琴羽だけだろう。

 今回の試練は異層空間と違い、参加登録してしまった人間が試練を放棄するという選択肢をとれない。

 当然、理不尽な現実を前に悪辣な手段でポイントを奪い取る人間が現れだす。

 酷い国では配信のブラインド機能を使い、同じ試練資格者同士で殺し合わせてポイントを奪取している。

 同じ国の内部ですら、疑心暗鬼にかられ協力できなくなっていた。

 国に所属する試練資格者の資源ポイントの量で、国家間のパワーバランスが今後変わるかもしれない。

 

 試練の外側でも火の気が燻り、争いの気配が日に日に濃くなっていく。

 一般人が知らないだけで、裏ではもう動きがあっているかもしれない。


 そして、各国政府から一般人にも、新大陸の秘匿情報が齎された。

 既に五つのエリアで、拠点を持つとされる5体の現地生物、「唯一種」と呼ばれる者たちが確認されていた。


 推定脅威度は天竜と同等とされ、人類が個人兵装で対処できる脅威度を逸脱した存在。

 彼らは対話可能なほどの知性を有し、不当な人類の侵攻に対して、報復措置をとると宣言した。

 人類という種に、種族が被っただけの痛みと嘆きを、死と破滅を与えると。

 その報復は試練が終わり、新大陸の境界が消え次第行われる。

 

 

 

 世界はようやく信也の忠告の意味を知った。

 試練に挑まず、彼らと対話することが最も正しき道だった。


 俺は渡された書類の価値を知った。

 新大陸に面した日本は、間違いなく報復の被害に遭うのだから。


 そう、あいつは正しかったのだ。








『カバーストーリ―:技能の消失』



 恩恵たる技能は、肉体とは違い一度獲得した力が衰えることはない。

 しかし失うことは稀に起こりえる。


 マイナス技能が反転することも失うにあたるが、消失は完全に技能そのものが消え去ることを指す。


 ある出来事によって変性された意識によって発生した技能は、その記憶や意味を失った時点で逆説的な変性を起こし、その技能の無かった状態に戻してしまう。

 技能の消失によるショックは大きく、精神に由来するものであるなら、性格の変化や記憶障害を起こす可能性もある。

 しかし逆説的な変性はそう簡単に起こりえる事象ではないため、多くの人間にとっては可能性にすら入れる必要はないと言える。


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