不眠症に悩まされる女嫌いの公爵は訳アリ歌姫の声じゃないと眠れない ~追放された聖女の契約婚~
流浪の民──カナルと呼ばれる一団の歌姫、シャロンの声はまさに天上の音楽だ。その妙なる歌声は全ての人間を魅了した。女嫌いのドラヴェンハート公爵も例外ではなく、彼は大金を払って彼女を公爵家に迎えた。不眠症に悩む彼が唯一眠りにつけるのが彼女の歌を聞いたときだったからだ。
波打つ黒髪、エメラルドの瞳、気品すら漂わせる美しい歌姫を屋敷の玄関で迎えた銀髪の貴公子ルファス・ドラヴェンハートは冷たい声で言い放った。
「私が君に期待するのはその声だけだ。余計な真似は一切せず、私が眠りにつくまで歌っていろ」
名前すら呼ばず、突き放すような言い方は何もかもを拒絶していた。しかし、シャロンはそれに臆すことはなかった。
「ははっ。おあいにく様。私は歌うなんて言ってないわ。金を貰ったのは団長で私じゃないし、カナルの私に公爵家の権力は通じないのよ。歌って欲しけりゃ、『シャロンさま。お願いします。夜寝られないから歌って下さい』って言いな」
腰に手を当てふんぞり返るシャロンにルファスは面食らう。
彼の知る女は媚びた目と金に目がくらんだ目でぎゃいぎゃいやかましいカラスだ。しかし、目の前のシャロンはルファスの思う女像とかけ離れている。
「……君、本当に女か?」
「は? 喧嘩を売ってんの?」
シャロンの眉間にしわが寄る。
「いや、女は私に媚びるから、それをしない君は一体なんなんだと」
「ハハ。あんた、ナルシストなのね。確かにカッコイイのは認めるけど、私はあんたに何の魅力も感じないの。だから歌って欲しけりゃあお願いしなさいな」
ふふんとシャロンは笑う。アーモンド形の目はまるで悪戯好きな猫のようだった。気まぐれでな猫に不眠で困っているルファスは観念する他ない。ぐっと唇を噛んで屈辱を飲み込み、猫目の女に白旗を上げた。
「……これは正式な依頼だ。契約金を言い値で払う」
「まあ、プライド高そうなあんたにしては頑張ったほうね。いいわ。一日銀貨2枚で手を打ってあげる」
「いいだろう。眠れるなら安いものだ」
ルファスはその金額で手を打った。いい契約をしたと、いつもの癖でルファスは握手をするために手を出す。商談相手はいつも男性だからもはや癖になっていた。
「……ねえ、女嫌いの公爵さん。あなた、女性をエスコートどころか握手すらしないって噂だけれど、私に手を差し出すなんて頭でも打ったの?」
困惑した顔で指摘するシャロンにルファスは自分でも驚いた。
「あ、ああ……そうだな。女性に触ると蕁麻疹が出るから一切触れないようにしているのだが君は大丈夫らしい。きっと私の中で君は男なんだろう」
納得できる答えを自分なりにルファスが出すとシャロンは苦笑した。
「……誉め言葉なんだろうけど、今度言ったらその頬ひっぱたくわよ。金づるさん」
シャロンは出されたルファスの手を握った。少しひんやりとして柔らかい。ルファスは不思議とこの握手が嫌ではなかった。
■
月が空に昇るころ、眠るためにルファスはシャロンを呼んだ。眠気は彼の体にまとわりついているのに頭は冴えて目の奥が重い。こめかみに手をあてる彼に部屋に入ってきた彼女は腰に手を当ててふんぞり返った。
「仕事熱心なのは良いけれど、もうちょっと早く寝たら? 根を詰めすぎるともたないわよ」
居丈高な口調、眠いのもあってルファスはさすがに苛立つ。
「君にはわからないだろうが物事には優先順位と期日がある。私が怠けることでしわ寄せが来るのは領民なんだ。誰もかれもが自由に生きていけると思うんじゃない」
ルファスの言葉にシャロンは一瞬驚いた顔をした後、少しだけ微笑んだ。今朝のように傲慢な笑みではなく、優し気なあたたかいものだった。
「ええそうよね。ご立派な公爵さまで領民は幸せ者だわ。でも、あなたが倒れたら何もかもが回らなくなるから信頼できる人間を育てて仕事を任せるのも必要よ。って、こんな話をダラダラ続けていたら寝る時間が減ってしまうわね。歌うからさっさとベッドに入って」
シャロンはビシっと寝台を指さした。
しかし、ルファスは仕事が気がかりですぐには動かなかった。椅子に根を張ったようにまだ仕事をしようとするルファスにシャロンは声を荒げる。
「早く寝ろ!! アンタが寝ないと私も寝られない!!」
彼女の怒号に若干、腹が立ったがもっともな主張なので反論したくなるのを堪えノロノロとルファスは動いて寝台に入った。シャロンは灯を一つずつ消してゆき、彼女が持つランタンだけが部屋の明かりになった。
「それじゃあ歌うから目を閉じて」
シャロンに言われてルファスは目を閉じる。すると優しく美しい声が部屋の中に響き渡った。言葉の意味は分からないが、どこか懐かしさすら思えるほど温かい音色だ。
ルファスが目が覚めると、陽光がカーテン越しに室内を照らしていた。昨晩、彼女が立っていた場所は当然ながら誰もおらず、ルファスは心に何か不快感を抱えた。それが『寂しさ』だとは彼自身まだ気が付かない。
柱に掛かる時計が大きな音を立て始めると執事が来て洗顔セットと朝食を持ってきた。これはいつもの流れだ。先代から仕えてくれている執事レナードはルファスの顔色を見てよく眠れていたようだと喜んだ。
「シャロンの歌がよく効いたようですな。家臣たちの反対を押し切って屋敷に迎えた甲斐がございました」
「ああ、そうだな。……レナード、シャロンはどうしている? もう朝食は食べたのか?」
ルファスの問いに執事は目を丸くした。彼が女性を気遣うなんて前代未聞である。
『しょせん女だ。公爵家の申し出となれば喜んでやってくるさ。私が求めるのは安眠のための歌だけだ』そう言い切る主人の冷たさを嘆いていたのだが、どういう心変わりなのだろうか。
(ふーむ。シャロンは中々の美人であるし、公爵様も若い男性。これはもしや……)
執事はにんまりと微笑んだ。
「まだお休みになっております。起きたいときに起きるから起こさないようにと仰せつかっております」
「そ、そうか。シャロンのおかげでよく眠れたから礼をしたかったのだが……まあいい。起きたら感謝していたと伝えてくれ」
執事の満面の笑みに戸惑いつつも、ルファスはいつも通りの朝を迎えた。頭痛がすっかり消えたこと以外は。
■
日中、シャロンとルファスが会うことはなかった。ルファスは仕事で忙殺されており、食事は行政官や家臣たちの報告を聞きながら過ごしているためである。
しかし、その夜もルファスはシャロンを呼んだ。その次も、その次もルファスはシャロンの歌のおかげでゆっくりと眠ることができた。
ある日の夜、シャロンが珍しく口を開いた。
「ねえ、金づるの公爵さん。レナードとかいう執事が私の部屋をあなたのコネクティングルームに変更すると言ってきたんだけど、あなたの差し金?」
「は?」
ルファスは聞き返した。
「その顔は何も知らないようね。なら、執事さんにちゃんと言っておいてもらえる? 私はあなたの情婦じゃないって」
シャロンはため息を吐いた。
「はあ?!」
ルファスはさらに驚いた。
「じょ、情婦? レナードが君をそんな風に扱ったのか!?」
「ああ、言っておくけどそれはとても丁寧に接してくれたわ。身分もなくマナーもなってない私にね。彼、優しい人ね」
「ああ、レナードはいい奴だ……ではなくて、君の話を総合するとあいつは君と私が男女の関係にあると勘違いしているのか?」
「彼だけじゃないわよ。 専属侍女の子もそうだし、他の使用人もそうよ。てっきり、あなたが私をそんな風に紹介したのかと思ったわ」
シャロンが少しだけ笑っていった。
「そんなわけないだろう!!」
「そうよね。それじゃあ、訂正よろしくね」
シャロンはそう言うと、明かりを一つずつ消していった。それは彼女が歌うときのサインだ。ルファスは何か言い返したかったが、ランタンにほのかに照らされる彼女を見ていたらそんな気すら失せてしまい、静かに目を閉じて歌声を道しるべに夢を渡った。
次の朝、ルファスはやってきたレナードに対し、念入りに訂正した。
「レナード。シャロンと俺は特別な関係ではない。単なる……睡眠薬のようなものだ。他のものにも周知させろ」
「は、はい。かしこまりました」
レナードは困惑しながらも、ルファスの命令を受け入れた。使用人を集め、「シャロンと旦那様は特別な関係ではない」とルファスの言った通りに宣言した。しかし、使用人たちは鵜呑みにはせず、シャロンをただの下賤な歌姫ではなく、大切な客人として丁重に扱った。そもそも、女嫌いの公爵が傍に置いている以上、『特別』なのである。
それは使用人たち以外も気付いていた。
「閣下、ここ最近お顔の色がよろしいですね」
ふだん、無駄口を叩かないレンドルー行政官が打ち合わせの終わり間際に言った。
「そう見えるか?」
「ええ、目の周りの隈がだいぶ薄れております。例の歌姫のおかげですね」
「ああ、そうだな」
ルファスは認めた。
「彼女を迎えた時、我々家臣は大反対しましたが、それを今お詫びいたします。彼女が閣下の側にいて本当に良かった」
レンドルーは深く頭を下げた。
「ふん。お前たちが私のことを考えて止めてくれたのは理解しているさ。で、なぜじっと私を見つめてくるんだ。まだ何かあるのか?」
「いえ、その。我々はシャロンをどのように扱えばよいのか考えあぐねておりまして」
「は?」
「取り急ぎ、リュション海の真珠で作らせたネックレスとイヤリングのセットを持ってまいりました」
「は?」
ルファスは何度も聞き返した。いまだかつてルファスはレンドルーに聞き返したことはなかったが、レンドルーの言っている意味が本当にわからない。
「もしかしてシャロンは真珠がお嫌いでしたか?」
眉を下げてしょんぼりするレンドルーの姿も初めて見た。
「いや知らん。シャロンへの贈り物なのはわかったが、なぜ私に聞く。勝手に渡せばいいだろう」
「いえその。家臣から寵姫へのプレゼントですので」
「寵姫?」
「はい、お二人は何度も夜を過ごされたと聞きました。お世継ぎ問題が解消されて家臣として万々歳でございます。身分に関してですが、家臣筆頭のゴルドヴァン伯爵が養親を買って出て下さいましたので問題ございません」
「ちょっとまて! なぜそのような話になっている!!」
ルファスは今にもレンドルーの胸ぐらをつかみかからんばかりに立ち上がった。
「え、ですから、女嫌いの閣下が唯一、シャロンに心を許して寝所に迎えたからですが……」
きょとんとした顔でレンドルーは言った。真面目一徹な彼は冗談を言わない。曇りなき眼でルファスを見つめなおした。
ルファスは声にならない声を上げ、部屋から出て一路シャロンの下へ向かった。
シャロンは陽光が差し込むテラスのソファで寝ていた。サイドテーブルには茶器セットがあり、ついさきほどまでお茶を楽しんでいた様子が窺える。背もたれに体を預けて静かに眠るシャロンは妖精のように儚げで飾り気のない白いドレスがより一層、彼女の美しさを際立たせていた。
寝ているシャロンを無理に起こす気にはなれず、ルファスは一度離れようとした。しかし、小さなうめき声に引き留められ、ルファスはシャロンを見た。
眉間にしわを寄せ、苦しそうにあえぐシャロンにルファスは自然と手を伸ばし、体を揺さぶっていた。
「起きろ、シャロン。悪い夢を見ているのだろうが、それは現実じゃない。起きろ」
シャロンの瞳がゆっくりと開く。
「クロード……さま?」
そう呟いた彼女の目は悲しみに染まっていた。思わず息をのむルファスだが、シャロンは相手がルファスだと知るといつもの調子を取り戻した。
「あら、金づるさん。この時間に私を必要とするなんて珍しいわね。昼寝でもするの?」
「いや、違う……」
「それならなんで?」
「家臣たちがお前を寵姫だと思っていてな。シャロン、心当たりは?」
「ないわ。それはこっちのセリフじゃない? 訂正よろしくって言ったのにさらに話が大事になってるんだもん。今朝なんて事業の取引先の人たちがこぞって私に挨拶して贈り物を置いてったわ」
シャロンは呆れた目でルファスを見る。
「君が寵姫と名乗って金銭をせしめたわけではないんだな?」
「そりゃあお金は大好きだけど、すぐバレる嘘で巻き上げたりなんかしないわよ。贈り物は部屋に置いてあるからテキトーに返すか、情婦にあげるなり好きにして」
シャロンはそう言って組んだ手を頭上にあげて思いっきり伸びをした。しかし、ルファスは彼女の傍から離れられなかった。
「まだ何か?」
「いや……」
ルファスは首を振った。シャロンは何事もなかったようにティータイムを再開した。テラスから廊下に出るときにルファスはもう一度シャロンを見た。すっと伸びた背、カップの柄を持つ細い指。それは一朝一夕で身に付けられるようなものではなかった。流浪の民の娘ができるはずもないものだ。
(クロード……、そいつは一体誰なんだ)
シャロンが呟いたその名前はトゲのようにルファスの胸に刺さる。
その夜、ルファスはシャロンが来た時に尋ねた。お前は誰だと。
■
シャロンは気分を害するでもなくルファスを笑った。
「カナルの人間に素性を尋ねるなんて愚か者のすることよ。それにあなた言ったじゃない。『期待するのは声だけ』って。今日も最上の声をあなたに届けるわ。それで問題ないでしょう?」
シャロンにそう言われてルファスはそれ以上、本人に問うことはなかった。翌朝、ルファスは朝の支度を手伝いにきたレナードに命じた。
「レナード。シャロンの素性を調べろ。カナルの一団もな」
朝、開口一番言ってきたルファスにレナードは一瞬驚くが、満面の笑みで了承した。
「はい喜んでいたします!! しかし、素性を調べずともルファス様が結婚なさるという決定だけで家門の者たちは大喜びするかと思いますが」
「おい。邪推をするな。あいつの所作に気になるところがあったから調べるだけだ」
ルファスの言葉にレナードは目を点にした。
ドラヴェンハート公爵家に仇を成すなど愚の骨頂だ。ドラヴェンハートはただの公爵家にあらず、かつて聖女や英雄と共に魔を封印した月の竜の子孫である。英雄は帝国の始祖、聖女はソフィエラ王国の始祖とされ、ドラヴェンハートは竜を始祖とする。大陸のすべてから畏敬を集めるドラヴェンハートに手を出すなどまずありえないのだ。
現在の最大の危機はルファスの女嫌いただ一点であり、家臣や使用人たちはシャロンを歓迎している。命令であるため素性調査はしっかりやるつもりだが、彼らはルファスとシャロンをどうにか結ばせたいとすら考えているのだった。
季節は巡って冬になった。
帝国の冬は皇太子の誕生パーティが開かれる季節でもあった。基本的にパーティは男女同伴だが、ルファスは特例で一人で来ることを許されている。しかし……
「ルファスに寵姫だとぉ?」
社交界一の美貌を誇る皇太子レグラスは変な声を出す。青みのかかった艶やかな黒髪、燃えるような紅玉の瞳、騎士に遜色のない体躯は鍛えられており、黙っていれば英雄の彫像と見間違うほどだ。
「驚かれるのも無理はありません。しかし、家臣たちからこぞって寵姫の席も用意してほしいとの要望書が届きました」
理知的な美形と貴婦人に噂されるテリーの顔も変だった。人間嫌い、女嫌いのドラヴェンハート公爵が寵姫を持つなど信じられない。
「それが本当なら喜ばしいけどな」
皇太子レグラスにとってルファスは従兄弟であり大切な友達だ。たとえ、気難しくて融通が利かない唐変木だろうと、レグラスはルファスのまっすぐなところが気に入っている。できればルファスに素敵な恋をして幸せな家庭を築いてほしいと願っているのだ。
「半信半疑ですが、念のため席は用意いたします。それとは別件で……ソフィエラ王国の王太子は欠席だそうです」
「意外だな。顕示欲の強いあいつは必ず来るのに」
レグラスは目を見開く。
隣国のソフィエラ王国は小さいながら、聖女が建国した伝説を持っている。そして数代に一度、聖女の力を持つ人間が現れて魔を封じるのだ。先代までは良い関係を築けていたのだが、国王が病に伏して王太子が実権を握ってからおかしくなった。深い眠りについていた魔物たちが再び現れ始め、国境付近に兵を派遣するほどにまでなったのだ。
「どうやらソフィエラ王国でトラブルがあったようです。……出入りの商人の噂では、王太子が意中の女性からフラれたと」
テリーは何とも言えない顔で言ったがレグラスは大笑いした。
「ハハハっ!!! その女性はとっても見る目があるな!! 一緒に語り明かせば美味い酒が飲めそうだ」
■
帝国皇太子の誕生パーティはいつも盛大だ。それは各国の王侯貴族や商人に帝国の産物を見せつけ、大口顧客を獲得するためだった。レグラスは見た目に反して商魂たくましい人間でもあるのだ。
パーティ当日、大勢で賑わう大広間にルファスは当然のごとく一人で来た。
中央のひな壇にレグラスが座り、ダンスフロアを囲むように客人たちが座る。要人は桟敷が用意されており、ルファスの桟敷は一席余っていた。空いた隣の席が気になってワインを注ぎに来た侍従に尋ねる。
「私の横に誰か来るのか?」
「あ、あのご寵姫殿は一緒ではないのですか?」
「は?」
「ご寵姫がいらっしゃると伺っております」
「わ、私にそんな者はいない!! あいつはただの……睡眠薬代わりだ!!」
ルファスにぎろりと睨みつけられて侍従は平謝りで椅子を下げた。
そしてその報告を受けたテリーが皇太子に伝える。
「顔を真っ赤にして怒っていたそうです。『アイツ』と三人称を指すところを見ると、親しい人間はいるようですね」
「へえ。いつも涼しげな顔のルファスがねえ」
レグラスは興味深そうににやりとする。悪戯好きの子供のような顔だった。
パーティは滞りなく終わったが、レグラスはルファスを引き留めて自室に呼んだ。
ルファスは従兄弟という気兼ねのなさから、二人だけの時は言葉が崩れる。
「どうしたんだ、レグラス。主役がのんびりこんなところで油を売っていていいのか?」
「いやなに、お前に寵姫ができたというので詳しく話を聞きたくてな」
「だからっ!! 寵姫じゃない!!」
ルファスは目を吊り上げて怒った。そしてルファスはシャロンの事はレグラスに知られないようにしようと思った。
シャロンと自分は特別な関係ではないが、この想像力豊かな従兄に毎女と過ごしていることが知れたら、きっと盛大な結婚式を計画するにきまっているからだ。
(レグラスは行動力がありすぎるんだ。絶対に知られないようにしないと)
■
一方、レグラスから嫌厭されているソフィエラ王国では、実権を握った王太子が癇癪を起していた。金髪の巻き毛に青い瞳の彼は美形ではあったが、目を吊り上げて怒号を響かせている姿は躾のなっていない子供のようにも見える。
「まだシャーロットは見つからないのか!!」
ソフィエラ王国王太子クロードの顔は焦りが見え隠れしていた。それは婚約破棄をしたシャーロット・ヴァンデリカ侯爵令嬢こそが伝説の聖女ということが分かったからだ。
「ですから臣下一同、シャーロット様の追放を大反対しましたでしょう!!」
「うるさい!! 俺はあいつよりも立派に統治できると見せてやりたかったんだ!!」
クロードはぎりぎりと爪を噛む。彼はシャーロットが気に食わなかった。どんな難問でも解いていく彼女が憎らしかった。領地の問題や種々のトラブルを解決し、臣民から支持を得る彼女が嫌いだった。常に自分の側で優しく微笑む彼女の顔を後悔と憐憫で染めてやりたかったのだ。
シャーロットが聖女でなくなりさえすれば……、偽物とわかれば皆が彼女の下から去っていくだろう。そして自分を愛するシャーロットは捨てられたくないと涙を流して懇願するはずだったのだ。
「くそっ。聖女なんてただの眉唾の伝説とばかり思っていたのに、よりによってあいつが本物だとは思いもよらなかった!!」
大陸の中にも伝説を軽視する人間は多い。なぜならその奇跡を目にすることもないため、自分たちの力で魔を封じているという自負があるからだ。特に王族は聖女の血をひいているため、クロードは聖女不要論を唱えていた。
シャーロットに一泡ふかしてやろうと仕組んだ罠だったが、シャーロットはとっとと逃げ出し、魔は再び動き始めて土地を蹂躙した。そしてそれこそがシャーロットが聖女である証拠となったのだ。
ヴァンデリカ侯爵家は貴族派でクロードと仲が悪く、シャーロットの行方を問い詰めても知らぬ存ぜぬの一点張りだった。
「くそっ。草の根分けてもシャーロットを見つけ出せ!!どうせ俺が探していると分かればすぐに来るさ!!」
クロードの自信は幼いころから彼女が傍にいたというだけのちっぽけなものだった。しかし、彼にとってそれが事実であり、真実だった。
「シャーロットは必ず戻ってくる。なにせあいつは俺が好きだからな……」
自分に言い聞かせるようにクロードは繰り返して言った。
ソフィエラ王国の軍はシャーロットを捜索するために各地へ散らばった。西へ東へ人々は金髪のシャーロットという娘を探した。
しかし、当のシャーロットはすでに金髪ではなく、名前もそれではなくなっていた。
ドラヴェンハート公爵家で優雅に過ごしている女こそ、ソフィエラ王国の聖女シャーロット本人だ。金髪を黒髪に染めあげ、侯爵令嬢の身分を捨ててカナルの歌姫として第二の人生を歩んでいた。
シャーロットの性格は豪胆だ。責任感ゆえに最後の最後までバカなクロードの婚約者に収まっていたが、偽聖女扱いされたときにシャーロットはようやく目が覚めた。
『お前が聖女でなくなったとしても俺の婚約者でいさせてやる』
『いえ偽物なので責任を取ってこの国から去ります』
『は!? なぜ!!』
『あなたに愛想が尽きたからです』
民に対しての責任、国に対しての忠誠……そんなものは立派な主の下で生まれるものだ。シャーロットは自ら離籍し、カナルの歌姫となって旅に出たのだった。
聖女の歌は魔を鎮め、竜を落ち着かせる。しかし、自分が聖女かどうかなどシャロンは国を離れた時点でどうでもよくなっていた。ただ、時折、自分のお人好しさに嫌気が差す。クロードに認めて欲しかった。クロードの役に立ちたかった……そんな己の愚かさがどうにも腹が立つのだ。
「はやく目標金額貯まらないかしら」
彼女がお金を貯めるのは一人で生き抜くためだ。男爵位ならお金で買える。爵位があれば女でも舐められることはないのだから。
■
皇太子の誕生パーティから一か月後、ソフィエラ王国の捜索隊とドラヴェンハート公爵家の諜報団員がほとんど同時にシャロンがシャーロットであること、そしてシャーロットがシャロンであることを突き止めていた。
シャロンがソフィエラ王国の聖女という事実にルファスは驚いたが、ある意味で納得した。
「なるほどな。ドラヴェンハート公爵家の祖先、月の竜は聖女の歌で落ち着きを取り戻したというから、私にシャロンの歌が効くのも納得だな。私が不眠に悩まされたのも、ソフィエラ王国が彼女を追放した時期であっているしな」
「ヴァンデリカ侯爵令嬢……しかも聖女でしたら公爵夫人としての格は申し分ありませんね」
レンドルー行政官が満面の笑みで言う。
「だからあいつとは何でもないと言っているだろう。不眠の解消のためだけに置いているにすぎん」
ルファスの言葉にレンドルー行政官は何とも言えない顔になった。
いくら不眠解消になるからといって嫌な人間を傍に置いておくはずがない。ましてルファスのようにプライドが高ければなおさらだ。
「でもどういたします? 侯爵令嬢をこのまま公爵家に置いておくつもりですか? 不眠解消のためとはいえ、『未婚の貴族女性と夜を共にしている』んですよ?」
「……っ。 だから、歌を歌って貰っているだけだ。あいつと私の契約で、シャロンが納得しているなら構わないはずだ」
「ですがヴァンデリカ侯爵令嬢の名誉は汚れるのでは? 社交界で後ろ指をさされるかもしれませんよ」
めげずにレンドルー行政官は言う。このまま一気に婚約まで推し進めるつもりだ。
「ハッ。あいつを貶める奴がいたならドラヴェンハート公爵家の名において粛清しろ。この話はこれで終わりだ。いいな」
ルファスはそう言い切ったが、なんだかんだでシャロンの悪口を絶対許さないあたり、心を許すどころかハートを持っていかれている証拠なのになあとレンドルーは思う。
「……わかりました。ひとまず引き下がりましょう。ですが私は諦めませんよ」
レンドルー行政官はそう言ってルファスの部屋を出た。
残されたルファスは面白くなさそうに舌打ちし、どかっと椅子に座り直した。しかし、その顔はひどく不機嫌だ。自分でもレンドルーの言葉の意味をよく知っていた。今まではカナルの人間だからという言い訳が通用したが、これからは違う。
「……だからといって手放せるわけがない」
ルファスの苦しそうな声が室内に響いた。
一方、部屋を出たレンドルー行政官はシャロンの部屋に向かった。
突然の来訪にもかかわらず、シャロンは不思議そうにしながらも迎え入れてくれた。ちょっとしたしぐさや姿勢……そのどれもが洗練された美しさを持っている。カナルの人間というには不釣り合いだったのだが、レンドルー行政官はようやくその理由を知ることができた。
「まさかヴァンデリカ侯爵令嬢だったとは驚きました。令嬢の立ち居振る舞いはどれも素晴らしいものでしたのでようやく納得がいきましたよ」
レンドルー行政官が微笑んで言うとシャロンは笑った。
「あらもうバレちゃったのね。もしかして私はお役御免?」
「いえ、閣下は今まで通りあなたとの契約を続けるおつもりのようですが、あなたはそれでいいのですか? 未婚女性が異性と夜を過ごす……あなたの家名にも傷がつくでしょう?」
「ふふ、私はもう離籍しているから大丈夫よ。それに父上も兄上もそれくらいじゃビクともしない実力をお持ちですもの」
ふふんと笑うシャロンから、どれだけ家族を信頼しているかが窺える。微笑ましい家族愛だが、レンドルー行政官としてはルファスとくっついて欲しいので、手詰まり状態になった。
ため息を吐くレンドルー行政官にシャロンは首を傾げた。
「何か問題でも?」
「いえ……侯爵令嬢でしたら家格として申し分ないので、どうしたら公爵夫人になって頂けるのかと悩んでおります。あなたには小細工とか通用しそうにありませんしね」
苦笑するレンドルー行政官にシャロンは笑う。
「それは……まあ、諦めてとしか言えないわね」
「ですよね……」
がっくりとレンドルー行政官は項垂れる。ルファスの容姿は優れているが、それで惚れてくれるならとっくの昔にくっついているだろう。
「令嬢。ちなみにですが、ドラヴェンハート公爵家は大陸一のお金持ちですが、興味ありませんか?」
「お金は魅力的だけど公爵夫人の重責に釣り合わないわ。今のままで十分よ」
「ですよね……」
レンドルー行政官はまたしてもがっくり項垂れた。
結局、シャロンの心を動かすことができず、家臣随一の切れ者である彼はスゴスゴと帰っていったのだった。手段を択ばないのであれば可能だったかもしれないが、シャロン……シャーロットに無理強いはしたくない。あくまで自主的に、可能なら恋でルファスと結ばれて欲しいのだ。
そして、その夜。ルファスとシャロンはいつものように歌を歌って寝た。もちろん何かあるはずもなかった。
■
特に何の変わりもない公爵家と違ってグランヴェリス帝国の宮殿は大波乱だった。ソフィエラ王国の王太子クロードが直接乗り込み、シャーロットを返せと怒鳴り散らしたのだ。
「ルファスの寵姫が聖女でソフィエラ王国王太子の婚約者だったとはな……」
皇太子レグラスは頭を抱えた。女嫌いの堅物がようやく心を開いた女性が現れたと喜んでいただけに彼のショックは大きい。
「どういたしましょう。ドラヴェンハート公爵家に使者を出し、ヴァンデリカ侯爵令嬢を出迎えましょうか」
テリーが案を出す。しかしレグラスは渋った。
「いやだめだ。ルファスが気が付かないだけであいつはヴァンデリカ侯爵令嬢を愛している。それをいきなり引き離しでもしたら……どうなるかわからん」
きっと今以上にカラに閉じこもるだろうし不眠症も酷くなっていくに違いない。レグラスにとってルファスは大事な親友で弟みたいなものだ。絶対に幸せになって欲しい。そして絶対にあのバカに渡したくないのだ。
「テリー! ドラヴェンハート公爵家に行くぞ。すぐに用意をしろ!!」
レグラスはそう言って出立の準備をした。
彼がドラヴェンハート公爵家に到着したのは明け方だったが、仕事熱心なルファスはすでに起きて仕事をしていた。
「レグラス、お前が直接ここに来るなど一体何があったんだ!?」
ルファスはレグラスの来訪を嫌がるどころが国の一大事だと考え、緊張した面持ちで出迎えた。
応接間でソファに座ったレグラスはまっすぐルファスの顔を見て言った。
「ルファス。お前もシャロンがヴァンデリカ侯爵令嬢でソフィエラ王国の聖女だということは知っているな?」
「……それがどうした」
ルファスは気に障ったようにチッと舌打ちをした。
「ソフィエラ王国が彼女を返せと言ってきた」
「ふさけるな!! まさか承諾したわけではないな? ソフィエラ王国のクロード王太子は婚約者の彼女に偽物の汚名を着せて追い出した男だぞ。そんな人間のもとに彼女を戻すせるものか!!」
前のめりになってルファスは声を荒げた。冷静な彼と程遠い姿だ。
「俺も同意見だ。それにソフィエラ王国の財政は傾いているし、あのバカの性根も変わらんから戻っても彼女が苦労するだけだ。しかし、魔の封印が解かれつつあるのは事実で聖女の存在は皆が必要としている」
レグラスは言う。
「……」
ルファスは黙った。反論することができなかったからだ。
「そこでだ。俺が彼女を皇太子妃として迎えようと思う。グランヴェリス帝国の未来の皇后ならば聖女を冠するにふさわしいし、彼女を守ってやれる」
にっとレグラスは笑う。
「っ……!! あいつの意思を無視して娶るつもりか!!?」
ルファスの猛った目がレグラスを睨む。
「まさか。きちっと求婚して俺を好きになってもらうところから始めるさ。手始めに彼女の好きな花は何か教えてもらえるか? 宝石もいいな。贅を凝らしたドレスもプレゼントしてみようか」
レグラスは唇を少し開けて笑う。挑発したつもりだが、ルファスは引っかからなかった。むしろ余裕の笑みすら浮かべる。
「ふん。あいつはお金が大好きだが、面倒なことは嫌いな性格だ。お前がいくら皇室の権威を見せつけたところで歯牙にもかけんだろうよ」
ルファスは笑った。
「試してみないと分からんぞ、俺が求婚して彼女が受け入れたとしたらどうだ?」
レグラスの言葉にルファスは目を丸くする。そしてじっとレグラスを見た。艶やかな青みのかかった黒髪、宝石のごとく輝く目、整った顔立ちは社交界が憧れる美男子だ。女ならば誰でもときめくだろう。
「……私が口出しすることではない」
レグラスは苦々しい気持ちで一杯になった。
(この強情っぱりめ!!)
どうみてもシャロンに惹かれているのに頑なに認めないのはなぜなのか。レグラスは一気に畳みかける。
「わかった。聖女をソフィエラ王国に渡すわけにはいかないから俺の妃になってもらう。嫌がるなら皇帝の勅令で無理やりにでも俺のものにしてやる」
レグラスは宣言した。本心じゃない。ここまで言わないときっとルファスは動かないからだ。
思った通り、ルファスは猛った目でレグラスを睨んできた。
「見損なったぞレグラス!! 相手の気持ちも考えずに権力でねじ伏せるのか!! お前はあいつを何も知らないくせに!!」
「お前ならわかるとでも?」
「少なくともレグラスよりは知っている」
「だが、俺が引き下がったとしても周囲はどうにかして聖女を帝国のものにしようと動くぞ。皇帝が勅命を出して俺との結婚を指示すれば誰も逆らえない」
にやっとレグラスは唇の端を上げる。
「……ドラヴェンハート公爵家は別だ」
「ああ、そうだ。ソフィエラ王国や帝国皇室からも守ってやれるのはドラヴェンハート公爵家の主であるお前だけだな? さて、どうする?」
「……ッチ」
ルファスは舌打ちした。ここでようやくレグラスの芝居に気づいた。だが、彼の言葉は真実であり、皇帝が動けば本人たちの意思は関係なくシャロンはレグラスの妃になる。
(……嫌だ)
ルファスはそう思ってしまった。シャロンが自分の側からいなくなると考えただけで目の前が真っ暗になる。しかし、それが恋であることに、ルファスはまだ気づけずにいる。
レグラスはルファスが答えを見つけたことで満足して公爵家を後にした。
そして宮殿に戻る最中、
(もしかしてご先祖様も英雄と聖女をくっつけるために奔走したのかもしれんな……)
と月を見ながらふと思うのだった。
■
レグラスが戻ってから、ルファスはシャロンの部屋に行った。彼女は弦楽器を楽しそうに弾き、奏でる旋律に没頭しているところだった。
「シャロン。話がある」
「あら金づるさん。ずいぶんと怖い顔だこと。私をソフィエラ王国に引き渡すのかしら?」
シャロンはくすっと笑った。シャロンは何も信じない。だからルファスがシャロンを売り飛ばしたとしても当然と考えるのだ。その言葉に彼女が人を……自分を信じていないのだと理解した。そして同時にそれが胸の痛みとなってルファスの心に傷を作る。
「いいや。お前の……歌が私に必要だ」
「あら、ずいぶん買ってくれてるわね。でも私がいない帝都でもゆっくり休めていたんでしょう? もう不眠症は治ったんじゃない?」
「……治ったとしてもそれは君がいたからだ。恩人を売り飛ばすような真似はしないさ」
「ずいぶんと義理堅いのね」
シャロンが驚くのはクロードという前例がいるからだ。彼は王太子という身分でありながら人の心を平気で踏みにじってないがしろにする人間だった。歩み寄ろうと努力しても相手に響かなければそれは無意味だ。
(クロードとは別人ってわかっているけど、やっぱりどうしても疑っちゃうのよね)
ルファスは少々頑固で強情だが、それにあまりある美点がある。民を思い、国を思い、人任せにせずに自ら動くのだ。シャロンはそこを好ましく思っていた。
「お気持ちはありがたいんだけど、一つの国を敵に回すことになるわよ? それに皇帝がソフィエラ王国の肩を持つとさらに厄介だわ」
「ドラヴェンハート公爵家の軍事力を侮ってもらっては困る。それに食料も燃料も他国に頼りきりのソフィエラ王国は流通を止めるだけですぐに干上がるだろう。私が持つ商会だけでも息の根を止められるだろうな」
ルファスは唇の端を上げる。
「さすがドラヴェンハート公爵家ね。で、私をどうする気かしら? 聖女の力を利用でもしてみる?」
「ああ。そうだな」
ルファスは言った。
シャロンは怪訝そうに眉間にしわを寄せる。ルファスは聖女の力など微塵も興味なさそうだっただけに、彼の返答が意外だったのだ。
「魔が跋扈している世界は民のためにならん。魔を封じられるのが君だけというならぜひやってもらいたい。もちろん報酬は弾む」
「ハハハ!! まさか聖女をお金で契約するとはね!! いいわよ!! あなたの金払いの良さは知っているもの。月で金貨3枚でどうかしら」
「安いな。それでいいのか?」
「ソフィエラ王国と皇室から守ってくれるならそれだけで価値があるわ」
シャロンは笑った。
ルファスは同じように笑ったが、すぐに真剣な顔になった。緊張のあまり冷や汗すら流れ出る。
「……それでだ。ドラヴェンハート公爵家が君を庇護するには……その、名分がいる」
ルファスはつっかえつっかえしながら言った。
「まあ、そうね……」
シャロンは頷いた。
「君さえよければだが契約結婚というのはどうだろうか。月に金貨6枚、一年ごとに更新だ。それに君が何かをする必要はないし名ばかりの公爵夫人で構わない。面倒事はすべてレンドルー行政官に任せろ」
「乗った!」
実に軽いノリでシャロンは公爵夫人となった。クロードのことがあってから人間不信のある彼女が乗り気になるのは、シャロン自身もルファスに惹かれているからだろう。そう語るのは彼女の家族である。結婚の報せを受け取った彼らはシャーロトが逞しく生きているのを知って喜んだ。娘ために爵位くらい用意する心づもりだったが、シャーロットが自分で道を切り開くと宣言したために何もできることはなかった。歯がゆいながらも逞しく育った娘を誇りに思うのである。
ちなみに、ソフィエラ王国は『聖女を持つ』という唯一のとりえを失い、グランヴェリス帝国に吸収された。クロードは小さい領地と城を貰ってそこで父親と暮らしているのだが、そこで初めてシャーロットを愛していたことに気づいたらしい。シャーロットへの恋文を一日に何十通もレグラスとルファス宛てに送っているのだが、誰にも読まれることはない。
シャロンを夫人に迎え入れたルファスは前以上に仕事に熱を入れて領地を発展させ事業を拡大させた。シャロンは変わらず好き勝手に過ごしていたが、ルファスの要望があればすぐに赴いて聖女の務めを果たした。
いつしか二人は同じ部屋で夜を過ごすようになった。シャロンが途中で部屋に戻るのが面倒くさかったとかそんな理由からかもしれないが、誰も詮索はしなかった。二人はやがて朝食を共に過ごすようになった。この頃には会話も増え、シャロンはルファスの政務を助けるようになっていた。
「ルファスは私のすることに反対しないのね」
「実績のある君を疑う必要はないだろう」
「なら、あなたの信頼に応えないとね」
シャロンはルファスを名前で呼ぶようになっていた。そして、ある時、ルファスはシャロンに大きなダイヤモンドの指輪を贈り、シャロンはそれを薬指に嵌めた。金貨六枚の契約金はなくなり、代わりにルファスからのプレゼントが様々なタイミングで贈られた。
そして月日がたち……。
「ねえ、レンドルー。父上と母上が契約結婚だったって本当?」
「……どこからそんな言葉を覚えてきたのですが、フェルドさま」
「レグラスおじさま……皇帝陛下がね。父上に「契約結婚だって言い張ってたのになあ」って仰ってたの。父上は母上にぞっこんだし、母上は父上のことが大好きだし……どういうこと?」
「……私にはわかりかねます」
レンドルーは口を閉じた。
(ルファス様がシャロン様を好いていたのは最初からだが、シャロン様はどうなんだろうな。……ただ、同情で結婚などなさらぬ方だろうから、ルファス様の何かがシャロン様の心を動かしたんだろう)
レンドルーは肩を抱き合い、テラスでゆったりと過ごしている主人たちの姿を見ながら思った。
最初はシャロンの憩いの場で、だんだんとルファスが共にするようになってきた場所だ。そこにフェルドが小走りにかけてきて公爵夫人の膝に乗った。
── 母上は父上のどんなところが好き?
私を尊重して話をきちんと聞いてくれるところかしら。
── 父上は母上のどんなところが好き?
そうだな。頭がよく、強くて逞しいところ……優しくて気配りがあるところ……歌が上手くてどんな楽器もうまく操るところ……
── あ、もういいです。
ちなみに、フェルド少年はレグラスの失言と父母の熱愛ぶりから、契約結婚を『相思相愛で幸せな結婚』と誤解し、大好きな幼馴染のリリーに「僕と契約結婚してください」と告白して大騒動を引き起こすのだった。