第十四話
この話は8月20日のことだ。
「慎也、山に、行くぞ」
昨日怜がそう言ってきたのは、夕飯を食い終わって、やること色々終えて、布団に寝っ転がって、そろそろ寝るかと思っていた時だ。
「……一応聞くぞ、今からか?」
半分は冗談だったが、もう半分は本気で聞いた。何故なら、俺はこいつの常識を信用していないからだ。
人の家で突然居候を始めて、我が物顔で暮らしているような人間の普通などあってないようなものだからな。
そんな俺の心配を気にすることなく、怜は、あからさまに呆れた顔で首を横に振った。
「慎也には、常識が、ないのか、明日の、朝に、決まってるだろ」
……まあ、常識を疑われるべきは怜の方だと思うが、それはそれとして、そりゃ明日の朝だよな。
流石にそれは常識云々以前の話だもんな。
「まあ、別にいいが、それよりどういう風の吹き回しだ?」
「ん、まあ、一日中、家にいて、大した、思い出も、なさそうな、慎也が、少し、可哀想でな」
「…………」
余計なお世話だな。本当に。
「じゃあ、おやすみ、ちゃんと、何処に行くか、決めてから、寝るんだぞ」
「……聞き間違いか?俺が予定を決めることになってる気がするが……って、もう寝てやがる」
はあ……まあ、いいか。どうせすることもないしな。
さて、近くの山って何かあるかな……あー、そういや昔遠足で登った山があったな。
標高は少しだけ高かった気もするが、まあ、小学生でも登れたんだ、大丈夫だろ。
怜だって、拘りがあるわけじゃなさそうだしな。
はあ、多分明日は馬鹿みたいに早く起こされるからな、もう寝てしまおう……
ジリリリリリリリリリ!
ダンッ!
…………えーっと?朝5時…………ばか……?
……ああ、そうか……今日は山登りか……ねむ……
「おお、慎也、おはよう、準備を、しておけ、もうすぐ、弁当が、できるからな」
「ありがとう……」
見ると、いつ買ったのかわからないプラスチック製の弁当箱に、いつ作ったのかわからない唐揚げやおにぎりを詰めていた。
こいつ本当に寝てんのか?
クマはないし、顔色も悪そうには見えない。あれか、ショートスリーパーってやつか。羨ましいな。こちとら欠伸が止まらんっていうのに。
「それで、慎也、どこの、山に、登るのか、ちゃんと、決めたか?」
「あー……ほら、電車で二駅くらいの所に山あるだろ?あそこでいいか?」
「ああ、なんでも、いいぞ、ただの、思い出作り、だからな」
よかった。夏に海ではなく山に行きたいとか言ってたから、もし途轍もない拘りがあったらどうしようかと思ってたからな。
「さて、慎也、もう、出発、するぞ。早く、着替えて、準備しろ」
「はいはい」
電車で二駅先に向かう。夏休みだから混んでそうなものだが、案外空いていたな。まあ、多数派は海方面に行くからだろう。
そして午前8:02、俺たちは目的地に一番近い駅に降り立った。夏休みだからか、小学生くらいの男子四,五人の集団がポツポツといたが、他には誰もいない。閑散とは少し違う雰囲気の、居心地のいい場所だな。
そして、そこから十分程度歩く。段々と住宅地に緑が増え始める。そのまま歩き続け、家と木の割合が大体同じになったあたりの場所に、その山は佇んでいる。
「ここが、お前が、言っていた、山か?」
ちょうど俺の真横を歩きながら、怜が聞いてきた。
いつ買ったのかわからない帽子を被り、いつ買ったのかわからないリュックを俺に背負わせて。
「そうだが……何か不満か?」
「いや、ちゃんと、山だった、からな」
……つまり信用されていなかったってわけだ。
にしても、人が多いな。テーマパーク……とまでは言わないが、少し有名なレストランと同じくらいの人が集まってるんじゃないか?
「電車は、あんなに、空いていたのに、案外、賑わって、いるのだな」
「な。まあ、土産屋とかあるから、買いに来た人が多いんだろ」
“土産”という言葉を聞いた途端、怜の目の輝きが二段階ほど上がった。
「お土産屋が、あるのか?」
そういうや否や、スタスタと先は先へと歩く。俺が待てと言っても、全く聞く耳を持たない。
こいつそんな土産が好きだったのか。じゃあ、今度どっかにいかなきゃいけない時には、それも考慮しなきゃな。取り敢えず、少しは俺の身体を気にしてくれ。
「道が、二つ、あるな」
「ああ、二つに分かれてるな」
片方には、初心者向けですよと語りかけてくる看板が立っている。歩道もある程度舗装されていて、ハイキング感覚に近いな。ハイキングと登山の違いなんて知らないけど。
子どもでも楽しく登れるそうで、登山者も親子が多い気がするな。俺が小学生の頃に登った道も、多分これだ。
そして、もう一方は、いかにも上級者向けらしい道だ。ちゃんとした歩道なんてなく、土が丸見え。その上曲がりくねっており、勾配も急。そんなに高くない山だからまだいいが、もしこれがもっと高い山なら、何処かしらから苦情がきてもおかしくない。
頂上までの山道は、そんな両極端な二つの道にわかれていた。
……何故ミディアムがないのだろうか。
「さて、慎也」
怜が、イジワルそうな笑みを浮かべた。そして、細い指をゆっくりと動かす。
指されたのは、当然険しい方の山道だった。
「もちろん、こっち、だよな?」
意味をなさないクエスチョンマークをつけ、俺の返事を聞かず、先へ先へと進んで行った。
待てという言葉を聞く前に、もう姿が隠れてしまった。
「……おいてくか」
「聞こえて、いるぞ」
のどかな自然。綺麗な鳥の歌声。爽やかな風。柔らかな日光。程よい数の他の登山者。
そして、馬鹿みたいにきつい山道。
「なっ、なあ……怜……ちょっと…………休憩…………」怜は、初めて山に来たのか、周りの景色を物珍しそうに見ている。だからだろう、歩く速度は、平坦な道でのそれと殆ど変わらない。なのに、全く疲れた様子を見せない。
くるりと後ろを振り返り、呆れた顔で俺を見る。
「なんだ、慎也、もう、へばったのか、さっき、休憩した、ばっかだろ」
なんでこいつはこんなに元気なんだよ。
「ほら、早く、しないと、昼飯が、食べられないぞ」
汗を全くかいていない白い細い腕が、グイグイと俺の袖を引っ張る。
こいつも引きこもりのはずだろ。おかしいだろ。
午前11:28、ようやく俺たちは登頂した。
そこは、元気な登山客で混んでいた。土産屋や屋台も色々と並んでおり、威勢のいい声が飛び交っている。
そんな活気あふれる空間に、場違いに疲れ果てている人間が一人いた。
俺だ。
「はあ……はあ…………やっと……頂上…………」
休憩に休憩を重ね、俺の一週間分の体力を使い果たしながらも、なんとか頂上に辿り着いた。看板を信じるのなら、普通の人は一、二時間あれば登りきれるらしい。
いや、どう考えても嘘だろ。
「慎也、見ろ!」
怜の声色が興奮を孕んでいる。明らかにはしゃいでるな。俺はちょっとそれどころじゃないが。
息も絶え絶えになんとか怜の指している先を見ると、そこには夏の富士山が小さく聳え立っていた。富士山と聞いて真っ先に思い浮かぶような、雪をかぶっているやつではなく。
小学生の頃に見たそれより、少し小さくなっている気がする。
「おお……すごい…………」
確かに凄いんだろうが、疲労困憊の状態で見るもんじゃないな。後で改めてもう一回見よう。あと、帰りは絶対ロープウェイにしよう。
はあ、だいぶ回復してきたぞ。
奇跡的にベンチに座れて助かったな。もしこれがなければ……まあ、ロープウェイに乗って早々に下山してただろう。
「おい、慎也、そろそろ、昼飯の、時間だぞ」
いつの間にか居なくなっていた怜が、いつの間にか目の前に居た。片方の腕にいくつかの袋を提げている。
早いな、もう土産屋に行ったのか。というより、俺は三十分も休憩してたのか。
うーん、これはさすがに体力をつけなきゃいけないな。いつまたどこかに連れ出されても大丈夫なように。
「そうか、じゃあ、ちょうどあそこのテーブルが空いてるから、そこで食うか」
「「いただきます」」
怜が作ってくれた弁当は、かなり華やかだった。肉や米だけでなく、ちゃんと野菜も入っている。
保冷剤のせいでどうしたって冷たくなってしまっていたが、それでも滅茶苦茶に美味かった。朝飯を食べてないし、山頂という非日常な環境のせいもあるだろうが、怜が料理上手なことが主な要因だろう。
これで、勝手に人の家に住み着くという性質がなければ、手放しに歓迎できたんだがな。
その後、怜が、木々に隠れているアイスクリーム屋を発見した。よく見つけたなと感心するほど、その店は見つけにくい場所にあった。まあ、そのおかげですぐに買えたからありがたいが。
久しぶりに食べたからか、かなり美味しく感じたな。ちなみに、二人ともバニラだ。
改めて富士山を見た。確かにこれが日本の最高峰なのだが、俺のいる山の方が高く見える。面白いな。
次は絶対にロープウェイで登ろう。
「さて、慎也」
突然、同じく富士山を眺めている怜が声をかけてきた。とってもニコニコで、かなりわるーい顔をしている。嫌な予感しかしない。
「そろそろ、帰るぞ」
そう言いながら、細い指で遠くを指す。
そこにあるのは、ロープウェイ乗り場……ではなく、下山するための山道だった。
こちらも二つの道に分かれており、怜が指しているのは、比較的楽な方だった。こいつなりの優しさなのだろう。ふざけるな。
「な、なあ、怜、ロープウェイっていうのもあるが……って、聞いちゃいねえ……」
ロープウェイの”ウェ”くらいには、既に山道を降り始めていた。まだかと言わんばかりにこちらを見つめる。
はあ…………筋肉痛が長引かなきゃいいが……
ようやく、麓に辿り着いた。もう今すぐにでも寝てしまいたい、が、最低限の良識がそれを許さない。
できる限り早く帰ろう。もう限界だ。
しかし、こういう時に限って、酷いことは重なるんだ。
電車は絶望的な程混雑しており、座ることができなかった。たった十分、されど十分。手すりのありがたさが、心から理解できた。
やっとの思いで家に辿り着いたのは、まだ陽光が残っている頃だった。そのため、普段なら暫くはのんびりしていただろう。しかし、疲労は頂点に達している。
次に意識が戻ったのは、次の日の朝だった。
記憶が曖昧で、昨日の思い出は全て夢かと感じるほど、俺は即座に眠りについたらしい。
まあ、酷い筋肉痛が現実であることを訴えかけているわけだが、それは別のお話。




