第二話 “飛行機械コンテスト”②
夜。街外れの丘の中腹。テテンの秘密の工房に『キィギィッッ』と耳障りな甲高い金属音が響く。
テテンの首筋目掛けて振り下ろしたナイフの切っ先は、偶然にも両腕を上げて身体を伸ばした手に握られていた工具によって弾かれた。
翼の試運転を兼ねた披露会当日の夜から、テテンの新しい翼作りは始まっていた。
大展覧博当日まで、残された時間は僅かほども無い。確かな手ごたえはあったのだ。次こそは、飛行する翼を作って見せる、と意気込んでいた。
試運転時の周囲の環境、天候に、風向きに、気温、自身の身長体重、着衣の重量、翼の自重に形状、破損した箇所、墜落した箇所、墜落までに要した時間、使用した鉱石の種類に炉の反応率、エネルギーの変換率に拡散具合など、その他諸々のデータを算出して、図面に修正を加えていく。
自然と、工具を操るテテンの手にも力が入り、漲る気力があふれ出てしまいそうだ。
祖父と父親に、大展覧博までだからと頭を下げて、家業から一時開放されたテテンは昼夜を問わず、連日工房に篭りっきりになった。端から見る分には、以前と変わらない。いやそれよりもっと昔に戻ってしまったかのようだ。
なぜならテテンが作業をするどの時間を切り取ってみても、工房に彼女の、エイシアの姿は無いのだから。
披露会の日から、エイシアとは一度も顔を合わせていない。
今はそんなことに気を取られている暇はない、と不安を頭の隅に押しのけて、テテンは研究に没頭していた。
そんな日々が続いたある日。
テテンの新しい翼にようやく完成の目処がついた日の晩。
工房に忍び寄る一つの影があった。
建付けの悪い扉を音無く開けて、気配無く工房内に侵入を果たしたそいつは、翼のメンテナンスに夢中になっているテテンの背後に忍び寄ると。
その首筋目掛けて、手にしたナイフを振り下ろした。
そして鳴り響く金属音。
偶然、大きく振り上げた工具がナイフの切っ先を受け止めた、その衝撃で、テテンは、ようやく背後に忍び寄ってきたそいつの存在に気付いた。
振り返り、瞳に映ったのは黒い塊。
頭の上から爪の先にまで届く黒いマントで全身を覆い隠したそいつは、弾かれた右手をそのまま大きく振り上げていた。
黒マントはテテンが現状を把握するよりも早く、次の行動へと移っていた。
振り上げた右腕に、力が籠められていく。ナイフが薄暗い光石燈の明かりを反射して鈍く煌いた。頭に巻いている黒いバンダナから零れる髪は、手にしているナイフと同じ銀色に輝き、闇の奥から覗き込む様なその瞳には、煌々と紅い輝きが宿っていた。
その瞳に籠められた、なにか決死ともいえる、情念のようなものを感じ取り、気圧されたテテンは、すとんと、腰が抜けたかのように後ろへと倒れこんだ。それが幸いした。
振り下ろされたナイフは、テテンの眼前で、頭上の工作台に刺さって静止した。
一体何がどうしたというのか。今、自分はどういった状況に陥っているのか。目の前の黒マントは一体何者で、何をしようとしているのか。
必死で状況を理解しようとする頭の中で、彼の防衛本能がひたすらに警鐘をならしている。今は考えている場合じゃない、とにかく動き出せ、逃げるんだ、と。
まさに文字通りじたばたと、入り口に向って這い出そうとするテテンの襟首を、黒マントはむんずと掴み、小石でも投げるように軽々とその身体を工房の奥へと投げ飛ばした。
背中から壁に激突したテテンが、痛みに噎せ返りながらも体制を立て直している姿を横目に、黒マントは工作台に刺さったナイフを力任せに引き抜いた。
(こんな痛み、この間の墜落の時に比べたら!)
慣れない痛みと恐怖に震える身体を強引に動かすテテン。その後を銀色の軌跡が奔る。
逃げ回るテテンに追う黒マント。
雑然とした工房内のことを熟知しているテテンは、置いてある道具を上手く利用して器用に逃げ続ける。けれども黒マントもたいしたもので、どんな状況にあってもテテンが工房の外に逃げ出すことだけは許さなかった。
どれだけの時間逃げ回ったのだろうか、経験の無い疲労感に全身を蝕まれ、息も切れ切れに肩を上下させるテテンだったが、それに対して黒マントの方には息一つ乱している様子はない。
始めこそ活かされていた地の利も、次第に通じなくなってきていた。そうなればもうテテンに成す術はない。黒マントに追い詰められ、後は刺すなり、切るなり、削ぐなり、抉るなり、好き放題にやられてもおかしくはない状況だ。けれど幸いにも、黒マントの攻撃が決定打となることは無く、いまだテテンは無傷だった。心なしか、始めに比べて黒マントから必殺の気迫が抜け落ちているようにも感じる。
だからといって状況が好転するわけでもなく、必死で頭を廻らせるが、この期に及んで妙案など浮かんでくるはずもなかった。
だらだらと続く膠着の状態を、先に破ったのは黒マントの方だった。
不意にテテンから視線を外した黒マントは、その行く先を工房の中央に向けた。そこには、工作台の上に鎮座している製作途中の翼がある。
ぞくりと悪寒が走った。黒マントが何をしようとしているのか、本能的に理解した。
次の瞬間、テテンは、翼とナイフを振り上げた黒マントとの間に割って入っていた。逃げろと騒ぎ立てる防衛本能を気合で無視して、テテンは大きく両の手を広げ翼の前に立った。
それが黒マントの狙いだったのか、それとも本当に翼を壊すつもりだったのか。それは解らない。けれどどっちでもよかった。翼を壊させるわけにはいかない。
(命よりも大切なのか?)(死んでしまえば、結局は同じことだ)(翼は壊れても、また造り直せばいいだろう)そういう思考を隅に追いやってまでここに立つ自分は、きっとどうしようも無い馬鹿で、やっぱり“空っぽ頭”なんだろうな。と思わず苦笑が零れる。
(それでも!)
翼を背に庇うテテンに、僅かに逡巡の気配を見せながらも、黒マントはそれを振り払うかのように、ナイフを構え直した。
翼を見捨てられなかった時点で、すでにテテンの命運は決まっていた。
決まっていたはずだった。
しかし黒マントの次の一手が、テテンに達することはなかった。
覚悟を決めて目を閉じた瞬間、唐突に音の連鎖が耳朶を打った。
まず始めは入り口の方向から。荒々しく工房の扉を開け放つ音。次いで聞こえたのは空気を振るわせる破裂音。その刹那の後に聞こえたのは甲高い金属音で、最後に何かが床の上を跳ねる音がした。
恐る恐る目を開けると、黒マントが驚きに見開いた瞳を、入り口の方に向けていた。その右手からは、先ほどまで握られていたはずのナイフが無くなっている。よく見ればナイフは少し離れた床の上に転がっている。
(それにしても、こんなに顔とか隠してても、人の感情ってわかるもんなんだな)
などと、場違いなことを考えているテテンの耳に、男性の声が聞こえた。
「大丈夫だったかい」
声の方向、黒マントの視線の先でもある工房の入り口に目を向けると、そこには二人の男が立っていた。一人は臙脂色の豪奢な服を着て、金色の長髪を背中で緩く三つ編みにまとめた、いかにも貴族然とした青年。もう一人は黒い燕尾服をぴっちりと着こなし、灰色掛かった短髪を後ろに上げた、渋い風貌の細身の中年だった。こちらは青年の従者といったところか、腰には体格と同じで細身のサーベルが納まっていた。
テテンに声を掛けたのは青年の方で、その手に握られているのは黒金色の、
「鉱石銃!」
テテンが驚きの声を上げた瞬間、呪縛から解き放たれたかのように黒マントが動いた。テテンに向けて手を伸ばすが、再度の破裂音が響き黒マントの足元に弾丸が打ち込まれた。そのまま続けて銃声が鳴り、後方に飛びのいた黒マントの足元を穿った。
「さて、事情は知らないけれど、状況から鑑みるに、君の方が悪者。で、いいのかな?」
そう言って、青年は黒マントに銃口を向ける。
じりじりと後退る黒マントは、「動くな」という青年の忠告を無視して、床に転がっていた鉱石を手に取った。テテンの母親が研究し、最近ではエイシアが手を加えていた、紋様の掘り込まれた鉱石だ。
それを手にした瞬間、黒マントの左手首に光の輪が現れた。朱色に輝く一本一本が細い糸のような光が、幾重も重なって環を形作っている。黒マントが鉱石を放り投げて、左手を突き出すと、光の糸の一本がぷつりと途切れ、空中に放り投げられた鉱石の中に吸い込まれていった。瞬間、鉱石が発光した。それは光の爆発で、真昼の太陽の煌きのように、無警戒だったテテン達の目を焼いた。
その隙に黒マントは床に転がっていたナイフを拾い上げて、再びテテンに迫った。しかしその一撃は横から出てきたサーベルによって止められた。
「させまんよ」
光に目を潰されながらなお、従者風の男は流麗な動きでサーベルを構えなおす。
それを見て、形勢が悪いと判断したのか、黒マントはすぐさまその場から飛びのいて、工房の外へと駆け出していった。
その後を追って、男も工房を飛び出していく。ほとんど目が見えていないだろうに、その動きには何の不自由も見られなかった。
「やれやれ。ハッタリだってばれてたかな。回転式の薬莢倉を採用した連続発砲というのは中々にいい線いってるけど。やっぱり装填数が三発というのは少なすぎるね。最低でも倍は欲しいところだ。まだまだ改良が必要だねぇ」
言いながら、しばらく周囲を警戒していた青年は、危機が去ったと悟ると、鉱石銃を懐に納め、テテンへと目を向けた。
「大丈夫だったかい」
親しげに手を差し伸べてくる青年の顔に、テテンは見覚えがあった。
あるに決まっていた。
毎日、拝むような気持ちでその青年の顔を眺めている、この工房にも貼ってある大展覧博のポスター。その片隅に小さく掲載されている“飛行機械コンテスト”の記事に青年の姿は描かれている。
ユヅカ・オリハリゲーテ。
王国に代々仕える宮廷技師の一族にして、王国騎兵団の若きエース。いま最も空に近いと噂されるテテンの憧れの人物が、写真の姿そのままに、そこにいた。
「ど、どうして……」
「おや、僕のことを知っているのかな?」
僕も有名になったものだね、とユヅカははにかみながら漏らした。
最近になって、ホークシティの近郊にさる大物貴族が研究施設を造り、人手を求めているという話はテテンの耳にも入っていた。その研究施設こそ、他でもないユヅカのものだったのだ。大展覧博が近いこともあり、ユヅカは自分の研究施設の視察もかねて、早々にホークシティにやって来た。そこでホークシティ出身の技術者から、変わり者の少年技師の噂を聞ききつけて尋ねてきたという。
「聞けば、君はたった一人で飛空装置の研究をしているそうだね。しかも今度の大会にも出場すると。これは是非とも激励をと思ってね。勿論、敵情視察も兼ねて、だけれどね」
「そんな、敵だなんて! 勿体無いお言葉です。ぼ…私などは、ユヅカ様に比べられることもおこがましく……」
「それでもやはり、自分の飛空装置が一番であると思っているのだろ?」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、覗き込むように顔を近づけてくるユヅカには、心の内の全てを見透かされている気がして、思わず顔を背けた。
「アハハハハッ。君は正直な奴だな。だがそれでいい。誰になんと言われようと、自分の仕事には絶対の自信を持って臨む。それでこそ技術者というものだ。そして僕もそんな技師の一人だ。どこに優劣なんてあるものか」
屈託無く笑うユヅカを前に、自然とテテンの緊張も解れていく。そんな中、黒マントを追っていった従者風の男が戻ってきた。
「申し訳ありません。取り逃がしました」
「ふむ。仕方ないね。相手もまるで素人というわけでもないようだ。ご苦労だったねグレン。さて、さっきの不審人物は、君の知り合いだったりしたのかな?」
首を振るテテンに、それはそうだろうね、とユヅカは首肯した。
「最近この近郊で泥棒が増えているという報告もある、そっちの線かな。大展覧博が近づき、多くの人々が集まってきている。よからぬ輩が紛れていても不思議ではないか。ふむ、警備体制を強化する必要があるかな。とりあえず、えーと君は……」
「はい! 僕…は、テテンと申します」
「そうか、うん。テテン君。とりあえず君は、この工房を引き払った方がいい。二度目は無いと思いたいけど、いざという時には街にいた方が安全だからね」
「……はい」
「なんにせよ。君が、いや君達が無事でよかったよ。今はまだ、飛空航行の分野は好奇の目を寄せられることが多いけど、今後絶対に時代は覆る。その立役者になるかもしれない君と、君の作品を守ることができたのだからね」
求められて、恐る恐る伸びてきたテテンの手を、がっしり両手で握りこんで、ぶんぶんと上下させながら、ユヅカは爽やかに言った。
その後しばらく、空に関する意見を交わし、次はコンテスト会場でお互いの飛行装置をお披露目し合おうと約束し、ユヅカは工房を後にした。
憧れの人物に出会えた喜びと高揚で、すっかり舞い上がっていたテテンは、つい先ほどまで命を狙われていたという現実をさっぱり忘れて、上機嫌に鼻歌交じりで工具を手に取ると、工作台に向き直り再び作業に没頭していった。
工房の外をしばらく街へ向けて下った路肩に、黒塗りの蒸気式自走車が停まっていた。
燃料を積み込んでいる前方の動力車両に腰を据えていた運転技師は、後部に連接している居住車両に主人が乗り込むのを確認すると、炉の小窓を開けて、細かく砕いた鉱石を混ぜた泥油を流し込んだ。炉が赤く輝き、熱を発し始めると、発生した蒸気の圧力でタービンが回転を始め、自走車はゆっくりと動き出す。
居住車両の中には、ユヅカとグレンの他にもう一名。後部座席を占拠している白装束の女がいた。ユヅカは念入りに両の手を拭いたハンカチを窓から投げ捨てながら、不遜な態度で白装束の女に尋ねた。
「アレがお前の言うところの鍵だというのか? まだまだ乳臭いガキだったぞ」
「正確にはまだ鍵ではありませんよ。卵。そう、幾多に分かれる未来において、鍵たる可能性を秘めた、卵の一つでございます」
ユヅカの投げかけた言葉に、白装束の女は口元に小さな笑みを零して答えた。
「お前の言葉を信じ、国王に飛行大会の開催を進言して数年。ようやく兆しが現れたのだ。この機を失することは許さんぞ」
「それは私の測り知る所ではございませんよ」
「ふん。そう言えば先客がいたな。あのガキの命を狙っていた。よもや我等と狙いを同じくする者がいるのではないだろうな」
「なれば命を狙うことはありませぬでしょう」
「ならば私怨ということか? まぁいい。あんなガキの命一つ。取るに足らないモノではあるが、大切な卵には違いない」
ユヅカが指を鳴らすと、助手席に座っていたグレンは小さく頷き、既に高速で走り始めた自走車の窓を開け放つと、躊躇無く外へと飛び出し闇の中へと姿を消した。
「さてと、それでは他の卵達の姿でも拝みに行くとするか。大展覧博は近い、そろそろこの街に集まって来ていることだろう」
そう言って、ユヅカは窓から外の風景に視線を向けた。目に写るのは、夜空を覆う灰色の雲の隙間から、微かに覗くか細い星々の煌き。手を伸ばし、ソレを掴もうとするかのように拳を握りこむ。空を握る拳はまるで、視線の先の空、その全てを掌握しているかのようであった。