第一話 ホークシティの“空っぽ頭”⑤
「テテーーーン!」
週末の午後。安息日に定められているその日は、たいていの人々にとっては文字通り休息の一日であり、この日ばかりはホークシティ中が仕事の手を休め余暇を満喫している。
テテンの家でも、祖父は例外として、父親などは早朝起きるが直ぐに買い溜めしてある酒瓶の封を切っていた。
テテンにとってその日は、週に一度の教会学校の日だった。
教会学校は、文字通り教会が定期的に子ども達を集め行っている教育活動である。元来は教会の啓蒙活動の一環として行われるのだが、他国に比べても教育制度の徹底が十分になされていないキディ王国、とりわけホークシティのような工業が盛んで、万年人手不足から年端もいかない子どもも労働力の頭数に数えられるような田舎の都市では、信仰や布教活動はそっちのけで、純粋に一つの教育機関として機能していた。
物心の付き始める年頃から学校に通い始め、多くは正式に職に就いた者から自主卒業という形で学校を去っていく。見習いとはいえ、修理工として働いているテテンも従来なら教会学校を卒業していてもおかしくはないのだが、同世代の少年達もまだ通っているということもあって、週末の安息日にのみ足を運んでいた。
本人としては辞めようと思っていたのだが、そこは父親がガンとして譲らなかった。どうもその昔、子どもが成人するまでは教会学校に通わすよう、母親と約束したらしい。二人の約束に時効は無いと、父親は律儀にそれを果たそうとしていた。年子の弟にも、父親は同様に言い聞かせているが、彼に聴く耳は無いようで、少なくともテテンはここ数カ月は一度も学校で一緒になったことは無い。
そもそも安息日とは国が教会の教えに習って定めた日である。にもかかわらず、誰よりも教えを尊むべき教会関係者が、率先して安息日にまで教壇に立っているのはどうしたことだろうか。
珍しく午前中で授業が終わった帰りの道筋で、そんなことをぼんやりと考えていた時、不意に後ろからテテンを呼ぶ声がした。ここ最近何度と無く聞いている声。ついこの間まで耳にしても気に止めることも無かった、今では日頃から気が付けば探している、すっかり耳に馴染んだその声に、テテンは驚き振り返った。
するとそこには案の定、手を振りながら駆けて来るエイシアの姿があった。
「やっぱりテテンだ。よかった。人違いだったらどうしようかと思った」
エイシアはテテンに駆け寄ると、その腕をとって自分の方に引き寄せた。突然のことにバランスを崩しかけてよろめいたテテンに、エイシアは添うように身を寄せた。
「?? え? ええっ?」
「(ごめんなさい。しつこい人達に言い寄られて困っているの。少しの間でいいから私に合わせて)」
戸惑うテテンに彼女はそっと耳打ちする。
言われて見れば、彼女が駆けて来たその向こうに、数人の少年の姿が見えた。どこかあどけなさの残る彼らは全員が目を丸くして、唖然とした表情でこっち見ている。
エイシアはテテンの腕をぐいっと引っ張ると、何事も無かったかのように歩き出した。もちろん彼らとは反対の方向に向ってだ。
「ちょ、ちょっと待てよ!」
遠のいていく二人の後姿を、呆然と見送っていた少年の一人が慌てて追いかけて来た。色彩豊かな派手な服と、首に腕に指に足にと煌びやかなアクセサリーで着飾った、長身金髪の少年だ。他の連中もぞろぞろと彼の後に続く。
「エイシアちゃん。まさかとは思うけど、君が約束をしていた奴ってぇのは、こいつのことなのか?」
「ええ、そうですよ。今日は彼にこの街を案内してもらう約束なんです」
「そいつに…街を、案内? ……ククク…アーハハハハハハッ」
エイシアの台詞に、「理解できない」と言葉を詰らせた長身の少年は、身体をくの字に曲げて笑い出した。彼だけではない、他の連中も同じように笑っている。そこに込められているのは侮蔑と嘲り。
「ハハハッ。エイシアちゃんはマジ冗談が上手い。それとも、そいつに何か吹き込まれたのかな? 何にせよ、そいつに街の案内なんてできるわけねーっての。引篭もって実験ばかりやっている変態なんだからな。エイシアちゃん。案内なら、それこそ俺達に任せなよ。そいつじゃ一生掛かっても教えられない、この街の楽しみ方ってやつを教えてやるよ」
そう言って伸ばされた長身の少年の手をエイシアはひらりとかわした。
「それは私が決めることです。私は今日、彼と約束していたんです。それを破るつもりはありません。それに、テテンは私の大切な友人です。彼を馬鹿にするような言動は止めていただけませんか」
丁寧な彼女の言葉遣い、だがその内にはっきりとした拒絶の意志が込められていた。
男達の顔から笑みが消え、信じられないものを見るようにエイシアとテテンに目を向けた。直接言葉を投げかけられた長身の少年は、顔をしかめテテンを睨みつけた。
「エイシアちゃんはそう言ってんだけどさ。本当に約束してたのかよ?」
「それは……っ」
殺気立った長身の少年の様子に、言葉を詰らせるテテンの裾をエイシアが横からツイッと引っ張る。横目で見ると、こちらも必死の視線を投げかけている。できれば逃げ出したい状況だけれど、そういうわけにもいかない。テテンは諦めの溜息を小さく漏らすと、長身の少年に視線を戻した。そうして、一言一句噛み締めるように口を開いた。
「本当だよ。今日は彼女と一緒に街を回る約束をしている」
長身の少年はしばらくテテンの瞳を真直ぐに凝視していたが、やがて苦虫を噛み殺したかのような表情を浮かべて視線を逸らした。
「はっ。まぁそういうことなら仕方ねぇやな。おい。お前ら行くぞ」
長身の少年が言うと、男達は肩を落として、グチグチと漏らしながら歩き出した。そんな中、長身の少年だけが立ち止まり、テテンに話しかけてきた。
「そういやぁよ。おい、“空っぽ頭”。てめぇまさか、こっちの約束を忘れたわけじゃねぇだろうな? こんな時期に、女と一緒で鼻の下伸ばしてるなんざぁ、ずいぶんと余裕じゃねえかよ。ふん。まぁいいさ。明後日、楽しみにしてるぜ。せぇぜぇ俺らの前で、無様な姿ぁ晒してくれよ」
ゲラゲラと笑いながら、彼らは街の中心街に向けて去っていった。
少年達の姿が見えなくなって、ようやくエイシアはテテンの腕を放した。身を寄せられている時は緊張のあまり落ち着かなくて、早く解放されたい、なんて考えたりもしていたが、いざ離れてしまうと名残惜しく感じてしまうのだから勝手なものだ。
「ありがとうテテン。しつこくて困っていたの。そういえば、あなたのこと知っていたみたいだけど。もしかしてお友達だった?」
エイシアに聞かれ、テテンはどこか気まずげに頬を掻きながら答えた。
「まぁ、一応全員顔見知り、というか…。さっきの、弟なんだよね」
その後、ばったりイレイ達に出くわしても気まずいからと、二人は街中を散策することにした。イレイの言う通り、テテンに案内役が務まるわけもなく、むしろエイシアの方が詳しいくらいだったけれど、二人連れ立っての道中は思いの外楽しかった。
途中一度だけ、やっぱり街のことを何も知らない自分と一緒にいるより、イレイ達といた方が楽しいんじゃないだろうか、と不安をそのままを口にすると、エイシアは、
「私が楽しくなさそうに見える? そんなこと考えるだなんてテテンの方こそ、私と一緒じゃつまらないの?」
などと拗ねた様に口を尖らせた。
「そそ、そ、そんなことは無いよ! 楽しくないなんて、あるわけない、絶対」
慌てるテテンを横目にくすくす忍び笑いを零しながらエイシアは、
「私もだよ」
そう言ってテテンの腕を引っ張った。
雑貨店に、噴水広場、大展覧博目当てに集まった商魂逞しい商人達の露天なんかを次々に覗いて、テテンが唯一案内できそうな街に乱立する工場群の解説などをして周る内に、時間は瞬く間に過ぎて、気付いた頃にはもう日は西に傾いていた。その頃になると、二人の足は自然とテテンの工房へと向かっていた。
その途中、ちょっといいかなと、テテンが案内したのは、街外れの丘の中腹、彼の工房の丁度反対に位置する場所だった。丘の中腹部から空に突き出すように延びる高台。その先端に立つと西に向けて表情を変えていく空の様子が眼前に映し出される。
「綺麗…」
頭上を占めるのは白に覆われた空。その白の両端から染み入るように橙と群青の色が広がっている。東から西、左から右、視界の端から遥か先へと向けて、移り変わるその様は、自然特有の瑞々しさを残しつつ、どこか人の手の加わった精巧な絵画のようにも見える。風景画の上を、鉄が熱を失っていくように、刻々と夜色の群青が広がっていく。そのありさまを前にして、エイシアの口から漏れたのは、単純な、それゆえに純粋な一言だった。
「でも…」
と、彼女は言葉を繋げる。
「どこか寂しい景色」
「エイシアの故郷の空はどんな感じなの?」
聞かれてエイシアは、眩しそうに瞳を細めた。
「こことはまるで違う色をしてる。私の故郷は、インステリアの空は、どこまでも高くて、遠くて、澄んでて、そんな中にポツンポツンて、水玉模様のように雲が浮かんでいるの。空をずっと見上げていたら、まるで吸い込まれるんじゃないかって、空と自分の境界があやふやで、まるで浮いているような気分になったり。そんな故郷の空が、私は好き。ああ、なんだか無性にあの空が見たくなっちゃったよ」
「いいな。僕もそんな空を見てみたいよ」
「あはは…。無理だよ。インステリアはここからずっと、ずっと遠い場所にあるから…」
エイシアに掛ける言葉は、何も出てこない。だから胸の内で呟く。(それでもいつか、どんなに遠くても、一緒にエイシアの故郷の空を見てみたい)と。
それからしばらくの間、二人は高台の上に寝転がり、のんびりと空を眺めていた。
いや、本当の意味でのんびりとしていたのはエイシアだけだったかもしれない。なぜなら空と向き合う時、テテンはいつも真剣なのだから。
「この空は、いつも変わらない。白い雲と工場の煙とが混じった濁った灰色」
テテンが両の手を空に掲げた。眼前に流れる景色を掴み取ろうとでもするように、力強く、真剣な眼差しで。
「だから。慣れてしまっているから。みんな気にしない。でも…」
掲げたテテンの両手の先が、風の流れを感じ取って、ぴくん、と動いた。
「僕は知ってる。例えば、今日みたいな風の強い安息日。この空が、一変する瞬間を!」
テテンが身体を跳ね起こす。それを待っていたかのように、丘の下から上へ強風が吹き上げた。髪を逆立てながらかざすテテンの指の先。
白い皮膜で覆われていた空の一角に、強風のナイフが鋭い切れ込みを入れる。そうして生まれた雲と煙の切れ間の先に、夕焼け色のどこまでも高い空が姿を覗かせた。
その現実の風景は、けれどどこまでも非現実的な光景で、エイシアも思わず言葉を忘れて見入っていた。
「よかった。この空を、エイシアに見せてあげたかったんだ。僕がこの街で自信をもって紹介できるのって、多分これくらいしかないから」
言いながら照れくさくて、エイシアの顔をまともに見ることができない。横顔に視線を感じながら、テテンはずっと空を見ていた。真っ赤になっている顔は、夕焼けが上手く隠してくれていると願いながら。
「この街の上空を覆っている灰色の幕の向こうには、やっぱり空が広がっているんだ。同じ空の下で、この街とエイシアの故郷も繋がっている。だから、故郷の空とは印象が違うかも知れないけど。この空も君の知っている空と同じだって思えば、少しは寂しさも紛れないかな……とか」
ちらりとエイシアの方を盗み見れば、彼女はとても驚いた風に目を見開いていたが、視線が合うと嬉しそうに相貌を崩した。
「ありがとう、テテン。こんな素敵な空をくれて。いつか、きっと、私の空もテテンにあげなきゃ、だね。……そうだテテン! お返しになっちゃったけど、私からもプレゼントがあるの」
そう言って彼女が胸元のポケットから取り出したのは首飾りだった。雑貨店でよく見掛ける麻紐の先に、幾何学的な模様の刻まれた鉱石が結び付けてある。
「これは…?」
「あはは…、プレゼントとか言って、もともとテテンのものだけど」
「いや、嬉しいよ! 凄く! でも、この模様は?」
「前に話したと思うけど、私の故郷にも似たような紋様を使ったおまじないがあるの。それは私が作った御守り、なんだけど。どうかな?」
「御守り…そうか、そうなんだ。ありがとうエイシア。大切にするよ」
さっそく首から提げてみる。弟と違って普段から装飾品を身につけない自分には不釣合いかと思ったけれど、お守りと考えればさほど気にもならなかった。ちょうど胸元辺りに垂れ下がる鉱石、普段から見慣れているはずのそれが、今はとても神秘的なものに映る。
「今なら、空だって飛べるような気がするよ」
「え?」
「ううん、何でもない」
やがて風は止み。空は再び白灰色の幕に覆われた。一瞬の、それ故に記憶に焼きついた風景の余韻に浸りながら、二人は空を仰ぎ続けた。日が完全に沈んでも二人はしばらくそのままでいた。テテンが何か言いたそうにしていて、言い出せないでいる。そんな空気を察して、エイシアも何も言わずにじっと暗くなった空を眺めた。
「実は、ここに案内したのにはもう一つ理由があったんだ」
やがて、意を決したかのようにテテンが大きく息を吸い込んだ。
「時間が空いてたらでいいんだ。明後日の正午過ぎ。この場所に来てくれないかな? エイシアに見てもらいたいものがあるんだ」
エイシアが頷くのを確認して、テテンは脱力しきった風に緩慢な動作で立ち上がった。
その日はそれでお開きとなった。エイシアは「送っていこうか」というテテンに笑顔で別れを告げて。テテンは遠のく後ろ姿を名残惜しそうに見送って、工房へと足を向けた。
それから、日付が変わってもずっと、工房の明かりが消えることは無かった。