第一話 ホークシティの“空っぽ頭”③
キディ王国で業界最大のシェアを誇るメーカーの標準規格の地図を眺めて見れば、菱形に線引きされた国土のほぼ中央を北から南に縦断する山脈が一つ。その南の外れにある高山帯に位置する工業都市ホークシティ。普段は寂れたその都市で、最近になって二つの騒ぎがあった。
一つは大きな騒ぎごと。
数年に一度開催される王国主催の大展覧博。その会場にホークシティが抜擢されたのだ。文化、芸術、芸能、教育、娯楽…、伝統と格式に彩られた催しから、最先端技術の粋を結集した一品まで。王国中からあらゆる分野の最高峰が一堂に会する。キディという国の全てが集約された会場は、小さいながら、まさに王国そのものと言って過言ではない。
国内はもちろん近隣諸国からも多くの人が集まる会場には、王国の首都近辺や国境に近い交易都市といった大都市が選ばれることが多い。国内でもそれほど交通の便が良いとは言えない地方の都市が会場に選ばれることはほとんど無い。というよりこのホークシティが王国史上初の地方開催都市となる。
それだけにその話が王国の使者から伝えられた時、都市中が大騒ぎとなった。大展覧博が開催されると興奮し、地方開催の栄えある一回目に選ばれたと歓喜し、田舎だから地方だからと言って過去の開催地に見劣りするわけにはいかないと奮起して、都市中がひとつの目標に向って活気づき始めた。
それからおよそ一年あまり、その勢いは衰える事なく、ホークシティ中がまもなく迎えるその時にむけて益々熱気を帯びていた。
街のいたる所に大展覧博のポスターが貼られ、チラシがばら撒かれている。もちろんテテンの家にもデカデカとそのポスターが貼られている。
とはいえ、その大イベントにあやかってテテン達の仕事が増えたわけでは無かったし、屋根から見える情景に著しい変化があったわけでもなかった。都市郊外に設営された大展覧博会場へと人々の大半は出払ってしまい、ホークシティの都市部は隙間風吹き抜ける、閑散とした状況にあった。むしろ大展覧博に参加するために各地から集まった各業界の面々や、気の早い観光客の姿の方が目に留まる有様だ。
そんな最中に、もう一つの騒ぎは起こった。
それは大展覧博開催に比べれば、騒ぎと呼ぶのもおこがましい、本当に些細なできごと。ホークシティの住人の大半の人間にとっては一切関係することなど無いような、そんな小さな騒ぎではあったが…。
それはある時ふらりとホークシティにやって来た、一人の異国の少女の話題だ。
遠く離れた国からやって来たという彼女は、人手不足を嘆いていた街のパン屋に住み込みで働き始めた。大展覧博の迫る今だからこそ注目されているものの、本来なら国内で発行されているどの観光ガイドを見ても目立った項目の一つも載っていないような田舎の都市だ。人が出て行くことがあっても、入ってくること自体が滅多にない。それが異国の、それも若い、年頃の女性となればなおさらだ。
噂を聞きつけ、物珍しさから多くの人々がパン屋を訪れ、賛美の言葉を零しながら帰途に着く、そしてさらに噂は肥大して都市中に伝播していった。とりわけ少女と同年代の少年達の間ではその話題で持ちきりになった。噂の尾鰭背鰭の多くは彼らによって脚色されたものだ。
同年代の世情に疎く、本来ならそんな話題には一切関係することの無い大半の部類の人間であるテテンがその噂を知っていたのは、ひとえにホークシティ随一の自由人を自称する弟のおかげだった。
曰く、すらりと足の長いスレンダーの美女。王国ではお目にかかれない、異国の民の証といえる雲のように白く澄んだ肌。肩甲骨辺りまで伸びた灰色掛かった長髪を左右非対称に結っていて、整った顔立ちの中で色素の薄い青い瞳と唇が、儚げに自己主張をしている。全体的に希薄で線の細い彼女の容姿が、逆にその存在感を浮き彫りにしている。
そんな、どこか自慢げに熱弁を振るっていたイレイの言葉そのままの女性が今、テテンの目の前に立っていた。
四隅の太い柱で支えられた長方形の間取りの工房。
床に散らばる工具と用途不明の金属片。部屋の中央に据えられた工作台の上にはガラクタを張り合わせた金属の塊がオブジェのように置かれて、隅の一角には鉱山で採掘された鉱石が並べられている。外観同様お世辞にも綺麗と言えない屋内の、ボロボロの壁にはいたる所に色褪せて何が描かれているか解らない模造紙が貼り付けられて、隙間風を遮っている。そんな殺風景な室内に一枚だけ、場違いだと言わんばかりな色鮮やかな大展覧博のポスターが入り口正面の壁面を陣取っている。
そのポスターを見ていた彼女は、唐突に入ってきたテテンに、大きく瞳を見開き、驚きの表情で振り返った。
噂を耳にしていなければ、とても彼女が自分と変わらない年頃の少女だとは気付かなかっただろう。一見して伝わってくる、彼女の淑やかで上品な雰囲気は、少女という呼び名より女性と評した方がしっくりくる。年端のいかない若者から見れば女性で、齢を重ねた大人達からすれば女の子。そういった少女の部分だけがすっぽりと抜け落ちているような、そんな不自然さが自然と馴染んでいる。彼女は、少なくともテテンがこれまで見てきた、どんな女性よりも美しく、近寄りがたい神秘的な雰囲気を醸し出していた。自分とは決して相容れない、まるで別世界の住人のような…。もしこの瞬間にも彼女が天使だと名乗ったなら、テテンはそれを容易に受け入れただろう。
「誰?」
彼女は訝しげにテテンのことを凝視していたが、間抜け顔で呆けているテテンには口にする言葉が見つからない。雰囲気に飲まれて、緊張している彼には、口を開くも言葉を吐き出すことができない。彼女はそんなテテンの様子に、ますます警戒心を強めていって、その目は間違いなく不審者を見るそれであった。
「誰なの? どうしてこんな所へ!?」
冷静に事実を受け止めるなら、不法侵入しているのは彼女の方で、テテンが不審者扱いされるいわれはない。ないのだが。射抜くような彼女の視線を前にしては、竦み上がってしまい、何もリアクションできない。身体中から妙な冷や汗まで噴出してくる始末だ。この場所に立つ自分が確かに罪人であるかのような、そんな錯覚さえ覚えてしまう。
「そ…そそ、そうイう、き…。…あなた…こそ…。なんで、僕のここ…工ぼ、に?」
喉をカラカラにしながらようやく搾り出したテテンの掠れ声に、彼女は怪訝そうに眉を顰めた。次の瞬間。バケツ一杯のペンキを頭から被ってしまったかのように、一瞬で色白の顔が朱色に染まった。
「え…あ! も、もしかして、あなたはここの? ごめんなさい!! 私…てっきり」
「いや…そ、そんな、謝らないで下さい! あ…あれですよ。僕も誰かがいるだなんて考えもしなくて、ノックもせずに扉を開けてしまって…、だから、ごめんなさい!」
「いえ。私の方こそ、勝手に入ってしまって、その、…鍵! そう、鍵をかけておけば扉を開ける時に気付けたでしょうし…。って、ああっ。なに言ってるんだろう私…」
「いや。僕の方こそ…」
うろたえている彼女の姿に、とんでもないことをしでかしてしまったとばかりにテテンは動揺して、てんで見当違いのことを口早に捲くし立てていた。そんなテテンにつられるように彼女も更にうろたえて。そんな彼女の様子がさらにテテンを動揺させる。互いに混乱を助長し合いながら、徐々に薄暗くなる狭い工房の中で、必死になって言葉を交わした。けれど、交わされた数々の言葉達がとうとう的を射ることは無く、噛み合わない歯車のように延々と無意味な問答を繰り返していた二人は、お互いの動揺しきった間抜けた表情を見合わすうちに、そのことに気付き。
「…ふふっ。ふふふふっ。あはははっ。あははははははははははっ」
「…ぷっ。ははははははははははっ」
どちらとも無く笑みをこぼすと、次いで弾けたように笑い始めた。
笑って、笑って。
目尻に涙を溜めて、お腹を抱えて、これでもかというくらいに笑い尽くして。
「ごめんなさい。ここは、あなたの工房だったのね。私ね。最近この街に越してきたばかりなの。はやく街に慣れようと思って、毎日仕事終わりにあちこち散策していたんだけれど。不意にこの廃…、小屋が目に入ってきて。まさか誰かがいるなんて思わなかったから、勝手にお邪魔させてもらったの」
どこか悪戯っぽく微笑む彼女からは、先ほどまで感じていた近寄り難さは抜け落ちていて、年齢相応の少女そのものだった。
「気にしないで。確かにどこから見たって廃屋には違いないから」
「そんなことありませんよ。確かに外観は……その…、個性的だとは思いますけど、中は……。まぁ、それなりに小奇麗ではあると、…ね?」
「元が正真正銘の廃屋だからね。それに、まさかこの場所に僕以外の人が来るなんて考えてもいなかったから。手入れなんて全くしてないし」
「あ、やっぱりそうなのね。ふふふ…」
そう言って目を細める、その笑顔はあまりに無防備で、テテンは再び息を呑んだ。
経緯はどうであれ、こんな時間、こんな場所で噂の美少女と一緒に談笑しているという場面。生まれてこのかた日常の中で一度たりとも起こりえなかった。遊び人を自称して、年中「金だ。女だ」と騒いでいるイレイならまだしも、趣味の機械弄りにしか情熱を傾けていない自分には、一生に一度とて出くわす縁があるなど露ほどにも想っていなかった、そんな場面の渦中にあって、テテンの胸中は強烈な違和感と焦燥感、気恥ずかしさとで一杯になってしまった。さきほどの彼女のように、今度は自分の顔が音を立てて赤に染まっていくのを感じて、気付かれないよう慌てて顔を伏せた。
そうして床と面を付き合わせたまま、テテンは工房の中央にあるガラクタに向った。工房の入り口から一直線上に、なぜだか都合よく転がっている愛用の工具を拾い集めて工作台に辿り着いたテテンは恐る恐るという風に、戸口に立つ彼女から視線を逸らしながら、顔を上げると、眼前に鎮座する金属の塊に手を伸ばした。
不揃いな金属片を出鱈目に張り合わせて造られた、赤ちゃん位のサイズはある奇怪な芋虫のようなその塊に、そっと触れる。これこそがテテンが夜毎心血を注いで製作している一品だった。
芋虫の頭に当たる部分からお尻の先にかけて、なだらかとは程遠い稜線を、なぞるように指を這わせる。金属の接合面をルーペ越しに覗き込み、ボルトの絞まり具合や接着具合を確認する。そうして細心の注意でもって芋虫を弄りまわすこと数分間。念入りな点検の結果、芋虫の具合が昨夜と同じであることに満足げに頷くと、テテンは工作台の引き棚の中に丸められていた長半紙の図面を取り出した。
図面を凝視して、再び芋虫の不細工な稜線に手を伸ばす。今度は先ほどまでの点検とは違う、テテンが脳裏に想い描く完成図と目の前の図面と見比べながら、工具で芋虫の一部を削り落としたり、金属片を外して別の金具をあてがってみたりと、せわしなく手を加える。
削って、外して、加えて、直して、考えて、夜の帳の只中で静寂の中に沈みこんでいく工房内で不規則に作業音を奏でながら、テテンは段々と作業に没頭していった。その口元から自然と鼻歌が零れ始めた。そのとき、
「……あの。よろしいでしょうか」
間近から聞こえた声に、テテンはぞわりと背中の産毛を逆立たせて、声無く驚いた。振り返ることなく、視線を少し後ろに向けると、直ぐ傍に背中越しから手元を覗き込むようにして彼女の顔があった。
テテンは彼女を意識するあまりに必要以上に作業に没頭し、その結果、すっかり彼女の存在を忘れてしまっていた。
再度、意識してしまうともう駄目だった。ガチガチに緊張して、頬を脂汗がつたう。弛緩した手元から滑り落ちた工具が、派手な音を上げた。
目を丸くしている彼女の姿に、胸の奥を締め付ける気恥ずかしさの中に、新たに加わったのは罪悪感か。心なしか息苦しくさえある。
そんなテテンの様子に苦笑を浮かべながら、彼女は深々と頭を下げた。
「もう帰ります。勝手にお邪魔してしまって、申し訳ありませんでした」
踵を返した彼女は、テテンが通ったのと同じ工作台から一直線の最短距離で入り口へ向っていく。
あと十数秒としない内に、彼女はあの建付けの悪い扉を開けて工房から出て行く。ギリシギリシと音を立て扉が閉まれば、隙間風の差し込む、古臭いけど、何物よりも愛着のあるこの場所には自分だけ。それで元通り。さっきのように鼻歌と工作音をBGMに今日が終わるまで作業に勤しむ。そんな、この工房に入る直前まで胸躍らせ想い描いていた日常が返って来る。
それなのに。なぜだろう。テテンはそれが、とても物足りないことと感じていた。
それよりも、今、この瞬間。もっと他にするべきことがあるのではと、彼女の背中を追いながら感じていた。胸を締め付けるような奇妙な感覚の中に、気恥ずかしさや罪悪感に混じって、後悔が浮かんでいることに、果たしてテテンは気付いているのか。
自然に話をしていたのに、彼女を避けるような態度をとってしまった。そんな自分を彼女はどう思ったのだろう。彼女のことを無視して、一人黙々と作業をする姿を見て、彼女はどう思ったのだろう。解らない。とても不愉快だったかもしれないし、なんとも思っていないかもしれない。いずれにせよ今日のできごとは彼女の中では、迂闊にも不法侵入してしまった工房で変な人に会った、程度のエピソードとして済まされることになるだろう。少なくとも、このまま彼女がここを出て行けばそうなる。その時のテテンは、なぜだかそれがたまらなく嫌だった。
もう一度、彼女と出会う前、工房に入る直前に時間を戻してやり直したいと。自然と、そんな非現実的なことを真剣に思い浮かべ、後悔を募らせている自分自身に驚きながら、テテンは必死に考えた。どうあがいたって時間は戻らない。なら、できることを。今からでも、この自分の後悔を払拭するためにできることを。けれどもこういった経験に疎いテテンが思いつくことなど露ほどもなく。ただ無為に過ぎていく数秒の間が歯がゆくて、
「あの!」
気がつけば何も考えが纏まる間もなく、テテンは彼女に呼びかけていた。
振り向いた彼女の不思議そうな表情を目にし、途端にテテンの中で勢いが死んでいく。焦りに飲まれて、思考が空白になっていく。「なんでもない」という言葉が口から出て行こうとするのを必死で飲み込んで。
「邪魔、じゃ、ないから。迷惑でも……ない。だから、もしよかったら、いつでもここに来て、いいから」
カラカラの喉の奥から、テテンはやっとのことでそれだけ搾り出した。きっと今、自分は目も当てられないくらい顔を赤くしているだろう。
小首を傾げてそんなテテンの様子を見ていた彼女はやがて、
「ありがとう」
そう言って、小さな微笑を残して工房から出て行った。
彼女の姿が見えなくなって数秒の後、テテンは脱力して工作台に倒れこんだ。
極度の緊張状態から開放され、全身からどっと汗が噴出した。鼓動が早鐘を打ち、息が上がっている。精神的にも肉体的にも、もの凄い疲労感だ。こんな状態ではもはや作業どころではないだろう。
結局、自分が彼女に何を伝えたかったのか、よくわからない。余計に変な人と印象付けてしまっただけかもしれない。
それでも、妙に晴れ晴れとした達成感に包まれながら、テテンは静かに瞳を閉じた。