エピローグ
丘の上。
“空”からテテンが帰還したその場所に、三人分の人影があった。
一人は白黒対象の翼を背に持つ金髪の美少年。清廉潔白な容姿に抗うような悪戯っぽい顔には、今ではいくつかの傷跡があるが、それがまた妙に似合っている。
一人は黒い装束を身に纏い、左手に淡く揺らめく光を宿す腕輪を身につけた少女。曖昧な微笑を浮かべながら、ちらちらともう一人の少年の様子を気にしている。
最後の一人はくたびれた作業着を着た小柄な少年。彼は晴々とした表情で二人と言葉を交わしていた。
「あの…テテン、私……、私ね……」
「くくくっ……なぁに今更キャラ作ってんだよ。本性バレバレだっつーのに」
「ちょ…、うるさいわね。黙っててよ」
「だって、なぁ、テテン?」
「はははっ、ホントに、そうだね」
「そんな…テテンまで…」
「でも、僕。嬉しいんだ。君ともう一度こうやって話ができることが」
「……テテン。私も……凄く、嬉しい」
「たくよぉ。すぅぐそうやって二人の世界を作って俺を除け者にしようとする。おーれーもーなーかーまーにーいーれーろー」
「……!! あんたって、本当に最低ね。浮遊人の癖に空気の一つも読めないなんて」
「はははっ」
そんな感じで、初めこそぎこちなかった三人は、いつしか自然と打ち溶けていた。まるで古くからの友人のように、長らく離れていた恋人達のように、長くを共にする家族のように言葉を交わした。いつ終えるともなく、語らい続け、まるで言葉が途切れることを恐れているかのように、語らい尽くした。
長い、本当に長い時間を三人はそうして過ごして。
やがて、どれだけの時間そうしていたかわからなくなった頃、
「俺はさ。こう見えて波乱万丈とか好きじゃねぇんだよ。悠々自適にのんびりと暮らしたいんだよ。んでもって、いろんな世界を自分の足で旅したいんだ。けどま、そうも言ってらんねぇんだろうな」
愚痴っぽく言って、アザナミは見えない境界線を望むように空を仰ぎ見る。
これから、今まで以上に多くの人々が空を目指し、境界に到るだろう。アザナミは彼らを導く案内人として、今まで以上に空を忙しく飛び回ることになる。
悪態を吐きながらも、根は正直なアザナミが忙しく飛び回っている図がテテンには容易に想像ができた。
いつの間にか言葉を無くし、頭を下げているアイシャもまた、自らの世界に帰り、今回の出来事の顛末を報告しなければならない。そしておそらくは、報告が終わり次第、新たな任務を受けて別の世界に旅立っていく。
彼女がこの世界に来ることは、もうないだろう。
本来、いまだ境界に到る資格のない世界への干渉は禁忌されているのだ。それを不問とする越境者の証は、アイシャの左腕で今にも消え入りそうに虚ろに揺らめいている。
問題が解決された以上、彼女たちがこの世界に関わることはない。
それでなくとも、今後世界中で混乱が巻き起こるのは必死であろう。彼女もまた、その処理で忙殺されることだろう。
誰しも交わす言葉を見つけられない雰囲気の中、テテンだけは、笑顔を崩さなかった。
彼には、これが今生の別れになるとはどうしても思えなかった。
なぜなら空は、何処までも高くて、果てが無くて、でもその先で、全ての世界は繋がっているのだから。立つ場所こそ違えども、見上げる空のその先で、彼らは同じ世界を生きているのだから。そして、その場所へ向かうための翼を、人は持つことが出来るのだから。
「今はまだ、生まれたての雛鳥かもしれないけど。僕は諦めない。頑張って、努力して、一日でも早く翼を完成させて、きっと“空”に行って見せる。会いに行くよ。ガラクタの翼を背負って。そうしたら一緒に空を見よう。どこまでも高くて、遠くて、澄んでて、水玉模様のような雲が浮かぶ、君の世界の空を…」
「そうだね、テテン。約束したもんね。私、待ってるから…」
そっと手を繋ぐテテンとアイシャ。その上にアザナミの手が重ねられる。
「その前に、俺との再会が先になるって、忘れないでくれよ」
三人はひとしきり笑い。
そして、一人を残して。二人は境界を越えた。
エピローグ
壊れた境界が修復され、すべては元通り、世界は再び平穏を取り戻した。
世界は破滅の危機を脱したのだ。
本当にそうだろうか。
境界は、確かに壊れた。
空は世界の中心で、それを取り巻く全ての世界が無防備な姿を晒した。
すでに境界を越え、“空”を知っている世界も。未だ“空”に達していない世界も。
全ての世界の人々が、それを目撃した。
胸に刻み込んだ。
等しく異なる世界の存在を。世界の中心にある“空”の存在を。
もう戻れない。知らなかったころには戻れない。
今はまだ、明確な変化は見えないけれど、静かに“世界”は加速していく。
本来の流れから外れて、誰にも予想のできない場所へと向けて。
あの日。空が壊れたあの時。
機知の世界は、確かな終焉を迎えたのだ。
そして、新たなる時が刻まれ始めた。
キディ王国の中央にそびえる山脈の、南端に位置する工業都市、ホークシティ。
その片隅、町外れの丘の上に、一軒の古びた建屋がある。
工房を兼ねたその建屋は、長いキディ王国の歴史の中で大きな意味を持つ場所として広く知られている。
時の国王がお忍びで足を運んだとさえ噂される、とある頑固者の職人が営んでいたその工房は、後の世で光石学の祖と呼ばれる人物とその伴侶の住居であり、ホークシティ初の人材派遣事業を立上げ、王国の黎明期に数奇な運命を辿ることとなる青年実業家の実家であり、世界のあり方を一変させる航空技術を生み出した、とある技術者の生家であった。
そしてその、名も無き丘の上に立ち、彼はガラクタの翼を背に大地を蹴った。
何事にも縛られることなく、“空”を“世界”さえも越えて、自由に飛翔するために。