第七話 世界の境界②
「……んっ」
ほんの数瞬、意識を失っていたのだろうテテンは、全身に伝播する言いようの無い不快感に、身震いするように目を覚ました。体を起こし、目にした光景は、壮絶なものだった。天井や壁は全て吹き飛び、床は割れて不自然に隆起し、もはや船舶としての原型をとどめてはいなかった。
一体何がどうなったのかと、身を起こしたその時、視界の隅にアイシャの姿を捉えた。
瓦礫の中、佇むアイシャ。その正面に白装束の魔女がうつ伏せで倒れていた。そこだけ時間が静止しているかのように、魔女達はまったく動かない。目で見たままに、魔女達の勝負に決着はついた。
テテンが立ち上がった時、船体が大きく揺れた。次いで襲ってきた全身を飲み込むような感覚には馴染みがあった。
それは“翼”の試運転中に幾度と鳴く味わった浮遊感と同じだった。
もはや瓦礫の塊となった飛行船が、その機能を完全に失い、墜落を始めたのだ。
まるでスローモーションを見ているようだった。
バランスを崩し倒れこんだアイシャが、傾いた床面の上を数回大きく弾むように転がって、船体の外、空の中に投げ出された。
瞬間が次に移ろうより先に、テテンは駆け出していた。
「ちょっと待て!!」
駆け出すテテンのいく先を察したアザナミの、しかしその制止も大気に飲まれ、遠のいていく背中には届かない。
数多の空が混在したこの状況で逸れてしまえば、再び巡り合うことは困難だろう。
だからテテンの判断は正しい。
迷いの無い、一瞬の決断の早さ。
それはテテンの美点には違いない。
けれど、冷静じゃない。
今は一瞬でも迷って、アザナミを探すべきだった。
「お前は、その翼で飛べるのかよ!!」
後を追おうと、すっかり馴染んだ借り物の身体に力を込める。下半身、太ももからふくらはぎにかけて、血液の流れに呼応して形を変える筋肉の動きがむず痒くて、小さく身動ぎ一つして、アザナミはじっとテテンの行く先へと目標を定めた。
憧れていた。昔から、全身を使って、地面を蹴って駆け出す行為に。前へ前へと、ひたすらに突き進む命の躍動に。期せずして手に入れたこの身で、それを随分と堪能させてもらった。自分の我侭が全ての始まりなら。終えるために全てを賭して報いなければならない。背中の鉄の翼が、いっそうの存在感を持ってずしりと圧し掛かる。
(今の俺なら大丈夫だ。よちよち歩きのあの頃とは違う。絶対に間に合ってみせるさ)
相応の覚悟をもって踏み出した一歩は、しかし二歩目を待たずして遮られてしまった。
「待っておくれよ坊や。お願いがあるんだ」
彼の足を止めたのは、視界の隅に横たわる魔女の囁きだった。
「本当は浮遊人に言うのが筋なんだろうけどね。まったく場をわきまえない男だね。姫を助けるのは何時だって王子の役回しだってのにね…。……もう坊やしか頼れないんだよ。お願いだよ。私をあそこに連れて行っておくれ……」
いつの間にか仰向けになっていた魔女は、空の一点を指差し言った。幾多の世界が群を成す空の中空に、煌々と輝く歪な五芒の魔法陣。境界を破壊した、元凶たるその下を、
「あそこに行って、どうするつもりだ」
「悪いようにはしないさね。敗者として、後始末をしておきたい。ただそれだけさね」
「……ひとつ聞きたい。最後の戦い。あんた、なんで手を抜いたんだ」
「何を言っているのか解らないね。私は全力だったさ。そして敗れたんだ。敗者を弄るだなんて、いい趣味とは言えないね」
「確かにそうだな。聞き方が悪かった。なぜ全力を出したのかって聞きたいんだ。どうして手を抜かなかったんだ」
二人の実力差は火を見るが如く明らかだった。例え半分の力でも、魔女の勝利は揺るがなかったはずだ。けれど魔女は全力での勝負を望み、文字通り、最大の魔法で臨んだ。魔女の故郷であるインステリアの魔法と、この世界で編み出した光石魔術を組み合わせた、超特大の儀式魔法を。
「破られない自信があったのさ。生意気な小娘に、絶対的な力を見せ付けてやりたかった。全て、私の驕りが招いた結果さね……。さあ、もういいだろう。時間が惜しいんだ」
じっと、白装束の魔女の目を、眼差しの奥を注視して、アザナミは、
「はぁ…。本当なら、何を馬鹿なことをって、無視したいんだけどな。職業柄、目を見りゃ、虚実や善悪の意を見抜けちゃうんだよな…」
(悪いなテテン。もうしばらく、この身体を借りるぜ)
アザナミは、魔女を抱きかかえるようにして互いの胴部をベルトで固定すると、背中で折り重なっていた翼を開放し、腰に下げた工具袋から親指大の光石を取り出して、胸元に揺れる反応炉心に投入した。次の瞬間、炉の中で光石が泡立ち、溶解液が淡く輝きだす。青いそれは炉に据え付けられた管を巡り、翼全体に伝播した。
最後にちらりと目を向けると、テテンは沈下していく飛行船の甲板から、中空へその身を投じたところだった。アザナミは背を向けて、青鉄色の光を纏った翼を、大きく一つはためかせ、上空へ向けて跳躍した。
投身したテテンは、中空で身を躍らせるアイシャを追った。
何度か挑戦して、それでもテテンの世界では一度も叶わなかった自力での飛行。
かつて一度の“空”でのそれを全身で再現すべく、背中の羽を必死になって動かした。
全ての世界が、“空”が雑じり合った今なら、きっと飛ぶことが出来るはずだと、頑なに信じて。
徐々に徐々に身を寄せて、ようやくアイシャに手が掛かった時、背中に激痛が走った。
振り向き見ると、自身が通過した空中に、赤い飛沫が舞っていた。それが自身の血だとはすぐには理解できなかった。
血飛沫の向こうに、鳥がいた。全身が鈍色に輝く、鋼の怪鳥だ。大きく開いたその口から、円筒状の細長い舌を除かせている。その舌先から、灰色の煙とともに、鉛の鉄塊が吐き出され、アイシャを抱き寄せたテテンの身を容赦なく抉っていく。
一つ一つは大きな傷ではなかったが、痛みでバランスを崩したテテンは、羽を操ることができず下界へと落下していった。
その様を見て、怪鳥は反転し、飛び去っていった。
もはや身動きできない空の中で、それでも精一杯もがきながら、せめて、せめてアイシャだけでも守って見せると、彼女を強く、強く抱きしめた。
中空でガラクタ造りの翼を駆るアザナミは、しかし一向に魔法陣へ近づけないでいた。
(全ての世界が繋がったんなら、逆に、どうやったって飛べないはずがないんだ)
けれど腰の袋から光石を取り出して、次々投入してもまるで出力が上がらない。
(くそっ、俺のせいか、俺は異世界の飛行技術を知っている。その知識が邪魔をしている。だから、この翼も、本来以上の力は発揮されない…)
苦渋の顔を浮かべるアザナミの耳に、奇妙な破裂音が聞こえた。
次の瞬間、下方からの突き上げるような衝撃と鋭い痛みが脇腹を奔った。
体勢を立て直そうと焦るアザナミの眼下、破れた袋から次々と零れ落ちていく光石の礫の向こうに、口をあけ、迫って来る鋼の怪鳥の姿があった。
朦朧とする意識の中、アイシャは霞む視界の隅に自分の左手を確認した。執行者の証である赤い光環が、すっかり消えてしまったその腕を。それはつまり、自分の役割が終わったことを意味していた。成功したのか、失敗したのか、確認する術は無い。自分がいったいどれだけ失敗を重ねて、どれほどの成果を成したのか、知れない。
けれど一つだけ、確信できることがあった。
たった一つだけ、守りたいと思っていた人を助けることができた、と。
身体の芯を震え上がらせる強烈な降下の不快感と、それから守ろうと全身を包み込む力強い感覚に身を委ねながら、アイシャはそう確信していた。
(前にも、こんなこと…あったっけ…)
落ちていく身体を抱きしめてくれる力強さを、肌を通して感じる熱さを、鼓動と一緒に伝わってくる優しさを、アイシャは知っている。たとえ見ることができなくても、その人が誰だか確かに信じることができる。
その人は、文字通り住む世界の違う異邦の住民。出会いは本当に唐突で、気が付いた時には心の寄る辺になっていたその人は…。
茫漠とした時の中で、彼女は、いつしか大切な存在となった、その少年の名を呼んだ。
瞬間、世界が反転した。
身体中の感覚が一点に凝縮されていくような喪失感を経て、テテンが目を開けると、世界の有様は一変していた。
「おや、何か、変わったみたいだね」
腕の中にいたはずのアイシャが、白装束の魔女に変わっていた。
いつの間にか身に纏っていた感覚が、落下ではなく浮遊のそれに変わり。脇腹がジクジクと疼き、眼下には迫り来る鋼の怪鳥の姿があった。怪鳥の背後に、沈み行く飛行船が見える、そのさらに下方に落下していく小さな陰が見えた。その陰が僅かに動いた。豆粒のような陰、アイシャを抱きしめ、二巴の翼を広げたアザナミが、空の一点を指差していた。
『行けーー!!!』
指し示した先、天空に煌々と編み上げられた魔法陣、それを確認したテテンは聞こえるはずの無い友の声に背中を押され、大空へと向けてガラクタ造りの翼をはためかせた。
魔法陣を目指すテテン達の前を影が過ぎった。
全身を鈍色に彩った、鋼の怪鳥が、テテンの前に立ちはだかった
『くくくっ。どこへいこうというんだ、小僧』
眼前で静止する鋼の怪鳥の口から聞こえた、くだびれた伝声管を通したような声は、紛れもなくユヅカのものだった。
『哀れな姿だな。まるで落ちないように、必死にもがく羽虫のようじゃないか』
製図から、資材調達から、製造まで、すべてが手探りで、自分の力で作り上げてきたテテンの翼。それに対し、ユヅカが搭乗しているだろうそれは、異世界の技術を併せて造り上げられた代物。機体の形状や強度、すべてにおいて圧倒的な性能差があった。
テテンの周りを右へ左へ上下へと旋回しながら、鋼の怪鳥はあざ笑う。
『それに比べて、見ろ! 自在の空を飛び回ることができるこの機体を!! これが私の力だ。貴様が必死になって図面を睨んでいる間に、私はすでに空にいた! 貴様より先に空を目指し、貴様より長い年月を研究に費やしてきた。家名を売って、魔女の甘言を甘んじて受け入れ、幾多の世界の理を学んだ。確かに貴様は境界を越える翼を作り上げた。その功績は認めよう。だが! 貴様とでは“空”に対する深さが違うんだよ!! 私が、貴様のような小僧の作ったガラクタに頼らねばならなかった屈辱、それがわかるか!!』
鋼の怪鳥の口から、次々と弾丸が吐き出される。
テテンは怪鳥の直線上から逃れるように、フラフラと翼を操った。右へ左へ飛ぶ度に、背中の翼がギシギシと軋み鳴く。はためく度に翼が纏う青白い光が飛散して、目に見えてその出力が落ちてく。
もはやテテンの翼は、飛翔どころか、ユヅカの言葉通り空中にとどまる事すら成し難く、徐々に降下を始めていた。
『随分と手間を掛けさせられた。その報いを受けてもらうぞ小僧! そして魔女よ!!』
上空で一度大きく旋回した鋼の怪鳥は、嘴を閉じ、翼を折って、テテンに向かって高速で突進してきた。いまのテテンの翼では、回避不可能な速度だ。
その時、テテンは視界の隅に、キラリと小さな光を捕らえた。
「確かに、僕の空に対する知識は乏しいと思う。貴方には敵わないかもしれない。けれど、それでも、飛びたいと、その想いの強さだけ負けない! いくら性能が違っても、貴方のように、他人の力を利用して造ったような、借り物の翼に絶対に負けない!!」
テテンは風に煽られて胸元から零れ出たアイシャから貰ったネックレスを掴んだ。
魔術式の彫られた光石の御守りを引きちぎり、反応炉へと投入した。
次の瞬間、光が奔った。
反応炉の青、光石に刻まれた文様に沿って輝き浮かぶ赤。二色は交じり合って、伝播して、テテンの翼を濃く、深い、紫黒に染め上げた。
風が吹いた。テテンを包み込むような上昇気流。
一際大きく広げた紫黒の翼を動かして、気流を捕まえたテテンは、一気に上昇し、迫って来ていたユヅカの脇を通り抜け、遥かな上空へと飛び上がった。
目の前を、遥か高みに向かってゆくテテンの姿を見送りながら、ユヅカは夢の終わりを悟っていた。
少年には夢があった。
子どもの頃から見上げてきた、あの空が少年の目標だった。
いつの日か自作の翼を背に、あの場所に行きたいと。
けれど、それは違ったのだと、今ならわかる。
ガラクタの翼を背に、空を飛行する今ならわかる。
少年の夢。目指したモノ。
眼前に広がる空。空と自分を隔てるように雲が浮かんでいて。
空を飛行することは。多分あの雲と同じになるということ。風に乗り、いつまでも空にいるということ。
でも、違う。
少年が憧れたのは、眼前に広がる空を漂う雲ではなくて、その中を、自由に飛び回る鳥の姿に魅入られたのだと。
何よりも自由に。空を。そのための翼。
その翼に、世界の運命を背負い、空の彼方を目指し、少年は今、飛翔する。
「実のところ、境界はまだ消滅してはいないのさ」
魔女の編み上げた魔法陣と、境界の復元力が拮抗しており、一見境界が消滅したよう見えるだけだ、とテテンの腕の中で白装束の魔女は呟いた。
完全に境界を破壊する為には、テテン達の乗っていた飛行船を最後の楔として、魔法陣を完成させる必要があった。けれど、当の飛行船はすでに崩落している。
「魔力を取り戻すまでの保険のつもりだったのだけれどね…。なんにせよ、いまならまだ、魔法陣を破壊すれば、元通りってわけさ」
魔女が落とした視線の先で、歪な五芒星を模った魔法陣が、煌々と輝いていた。
紅く輝く魔法陣。
境界の壁を破壊し続ける力の具現。
「ふふふっ、それにしても、さっきの坊やの啖呵、なかなかのものだったね。古い友人のことを思い出したよ。何で忘れていたんだろうねぇ…。いくら体裁よく取り繕ったところで、どれだけ完璧に見えたところで、所詮は贋物。本物には決して敵わない。自ら高みを目指すことを止めた私達が、境界を越えようだなんて、ね。それでも足掻いて、その挙句がこの低落さ。本当に無様なものだよ。でもいいさ。もう、私には叶えるべき望みは無い。だから、せめて後始末くらいはしないとね。誇り高き、魔女の一人として、さ」
「聞いてもいいですか? あなたは一体…」
「聞いてどうするんだい。私は追放者さ。世界の禁を破り、己の欲望に負けた、ただの…魔女。それだけだよ」
そうして悲しそうに笑う魔女の姿は、まるで老婆のようだった。
テテンの手の中、小さく呪文唱えた彼女の体に青い幾何学的な紋様が浮かび上がる。
「さぁ、ここからは私の仕事さ。つき合わせて悪かったね。坊やはもうお戻り」
魔女の手がそっと触れると、彼女とテテンを繋いでいたベルトが溶けるようにして千切れた。止める間もなく、魔女の身体はその腕をすり抜け、魔法陣に向かって落ちていく。
魔女に向かって伸ばされたテテンの手。それを見て、魔女は優しく瞳を細めた。
「その手で、あのお嬢ちゃんのことを支えておあげ。あの娘に、済まなかったと。それだけ、伝えてくれるかい……」
それが彼女の、最後の言葉だった。
自らの世界から追放された魔女。
己の望みのため、境界を破壊した魔女。
そして、今、世界を在るべき姿に返すため、その命を投げ打とうとしている魔女。
名前も知らない、一人の魔女。
彼女は一体何者だったのか、テテンには計り知る術はない。
けれど、どこかで、彼女のことを知っているような、そんな気がしていた。
アザナミとアイシャは、小高い丘の上から、空を見上げていた。
ぼろぼろに傷ついた翼では空を飛ぶことができない。悔しそうに睨みつけるアザナミの横で、魔力を使い果たしたアイシャが生気の希薄な蒼白の表情で空を仰ぎ見ていた。
ただ一人の少年の無事を願って、二人にできるのはただ祈ることだけだった。
そんな二人の眼前で、空が光った。
紅い環が弾けて、青い爆発が、光の波になって空中に伝播した。
彼方に顔を突き合わせていた数多の世界の像が波の中に掻き消えていく。
境界の壁が甦り。
空は元の姿を取り戻した。
………
………
………
「で、おい。テテンはどうなった!?」
紅い環が爆ぜた時、テテンは近くにいたのだ。魔力の暴発の奔流に身を投じて、無事だったとは限らない。仮に無事だったとしても、“空”に取り残されたのかもしれないし、最悪別の世界に飛ばされた可能性さえある。
顔を覆うアイシャ。
その頭上で、どこまでも高いその只中を、鳥が飛んでいた。
鳥はゆっくりと大地に近づき、そうして降り立った少年は、駆け寄るアザナミとアイシャに抱かれ、擽ったそうに翼を畳むと、嬉しそうに肩を揺らした。