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第四話 夢の地にて⑤

 キディ王国は大陸屈指の国土を保有する大国である。が、その国土の開拓はいまだ十分にはなされていない。首都近郊や大都市の市外、天然資源の豊富な一部の地方を除けば、いまだに人の手の着いてない地方も少なく無い。それらの土地は基本的には国有地とされているが、時に恩給の一環として諸侯に分譲されることがある。元々が人の手が入っていない上、今後加えていくことが困難なために遊ばせている土地だけに、少々目減りしたところで、王国側としては大した痛手ではない。どころか、厄介な土地の開発を丸投げすることができる上、将来的に滞りなく進んだなら、それもまた国益に繋がる。いずれにせよ王国に損は無い。そういった事情もあり、国土分譲の恩給に関しては、確かな財産の獲得、自らの権威の象徴とする一方で、開墾の責務を半ば押し付けられると苦い顔をする諸侯も少なくない有様だった。

 ホークシティの西側に広がる鬱蒼とした森林帯も、そうした未開拓の地であり、数年前にさる大物貴族に分譲された元国有地という経歴を持つ土地である。

 森林の外れには大きな湖が二つある。大展覧博の折には飛行機械コンテストの会場として使用された湖から、さらに上流に遡った先にある湖畔に、それはあった。

 湖の岸壁に沿って、まるで隠れるようにひっそりと造られたその施設の内部は、控え目な外観に反して地下に広大な工場が建造されており、大勢の技能者が行き来している。彼らの目に覇気は無いが、その動きは迅速かつ的確で、誰が率いているでもないが、異常なまでに統率がとれていた。

 その光景を、工場高層にある薄暗い部屋から、この施設の主にしてこの土地の現所有者であり、さる大物貴族であるところのユヅカ・オリハリゲーテが、苛立ちを隠さない苦い表情で見下ろしていた。その傍らにはグレンが、そして白装束の女が控えている。

「何故だ!! 何処よりも充実した設備、各地から寄せ集めた労働力、そして鍵たる機構を組み込んだ技術、その全てを駆使して、なぜ空への道は拓けない! 何が足りない! 何がだ!!」

 鬱積していく憤懣をそのまま言葉に乗せて、ユヅカは誰にというでもなく吐き捨てた。

「しかも、捕獲したあのガキからはなんの情報も引き出せない! まったくどこまで使えないんだ」

「あれは本当に知らないのですよ。事故による記憶の喪失か、はたまた別の要因か。少年の記憶から飛行装置に関する一切の記憶が欠落しておりますゆえ…」

 ユヅカが漏らした言葉に答えたのは一歩を引いて控える白装束の女だった。

「くそ本当に飛んだのだろうな。これでは貴様の言葉すら怪しく思えてくるぞ」

「少年の言質から空に至ったことは確実。前提を疑い、本願を見誤ることはなりませぬ」

 アザナミから飛行装置について聞き出そうとしたユヅカだったが、いくら尋問を重ねても、彼の口からは何の情報も得られなかった。痺れを切らし自白剤の投与や、催眠暗示を試みても結果は同じ、だというのに空に関する記憶は鮮明に残っている。

 仕方なく回収した翼からその構造を読み解こうとしてみたものの、ユヅカの言葉どおり、未だに飛行装置の完成には至っていなかった。

「ふん。ここに来て貴様を疑うようでは、何のために膨大な時間を費やしてきたか判らない。だがな、大願の成就を目前に、いつまでもそれを預けておけるほど、私はできた人間ではないんだよ」

 忌々しげに一瞥したユヅカの視線の先。下階の工房の片隅に見える、遥か天井に至るまで積み上がった屑鉄の山。それらは彼らの研究の成れの果ての関の山だった。

 長い時間を費やして、ようやく空への道が拓けたというのに、一歩を踏み出そうと意気込んでいるのに、それをあざ笑うかのように失敗が山となり道を遮る。

「鉱石のエネルギーを原動機の動力源とするのではなく、エネルギーそのものを機体全体に張り巡らせ。複数の導線上で干渉させ、溢れた余剰エネルギーを放出して強引に機体を押し上げる。確かに面白い発想ですが、何度も言っております通り、これでは効率が悪すぎます。この方法で戦艦クラスの機体を浮遊させるのに一体どれだけの鉱石が必要になることか。ましてや飛行など、船体と同質量の鉱石をもってしても叶うかどうか…。例の飛行装置にしても、あの程度の反応炉で飛行に耐えうるだけのエネルギーを生み出すなど、本来不可能なはずなのです……」

 力なく唸るのは、研究施設で技術主任を務める壮年の男性だった。それを聴くたびに、ユヅカは厳しい叱咤を飛ばしたが、いくら試行を重ねても一向に結果は伴わない。それどころか現状のままでは絶対に飛行は不可能という事実ばかりが立証されていく。

 けれど現実にテテンは大衆の前で、ユヅカの目の前で大空への飛行を果たしている。名前も知らない、地位も権威も持ち合わせていない田舎の少年にできて、なぜ宮廷技師にして、この世界の技術の最先端以上を知る自分がその真似事すら叶わないのか。

 果たして今日だけで何度目となるのか、鬱積していく苛立ちを吐き出すべく口を開きかけたユヅカの元に、二つの知らせが舞い込んだ。

 まず一つ目。場の雰囲気を乱さぬようそっと、けれどどこか興奮した面持ちで管理室に入ってきた伝令兵が、「朗報があります」と、片膝を着いて頭を垂れた。主の許しを得て、伝令兵が口を開きかけたその瞬間、二つ目の知らせが届いた。それは研究施設中に緊急事態を知らせる警報の音だった。

 何事か、と困惑するユヅカ達の前で、さきほど伝令兵が入ってきた鉄扉が、大きく音を立てて開け放たれた。

「もうちょい静かに行動できねーのか!」

「どうせもう警報が鳴っているのだもの。お行儀よくしていてどうするのよ」

「あんな派手に壊さなけりゃ何も問題無かっただろうが!」

「過ぎたことをいつまでも…。鍵が見つからなかったんだからしょうがないじゃない」

「だからって壁ごと破壊する奴があるかよ。危うく死ぬところだったぞ(ヴォルフが)」

「勢いよ!」

 扉の向こうから、廊下に並んだ光石燈の輝きを後光に現れたのは、監禁しているはずの少年と、その少年と一緒に空に消えたはずの黒マントの女、そしてその二人を憔悴しきった顔で先行しているのは、服装から見てこの施設の作業員の少年だった。

「あの…ふたりとも、お願いだからこれ以上騒がないで、本当に見つかっちゃうから。っていうか、逃げるなら早く逃げようよ~」

「それは駄目よ。翼を回収するまで、ここを離れるわけにはいかないの。いいからさっさと案内なさい」

 そう言って黒マントの少女アイシャは、作業服の少年フォルフの首にナイフを押し当てた。フォルフは益々顔を青白くしながら、しぶしぶと先行し室内に一歩を踏み入れた。

「そろそろ放してやれよ。ヴォルフだってもう共犯同然なんだ、いまさら裏切ったりしねぇよ。ひでぇ女だな」

「ひで……。何よ、さっきから。あなたこそ随分と調子が違うじゃない。それとも、いままでが猫を被っていたってことなのかしら…。」

 アイシャはどこか投げやりな風にフォルフの首筋に当てていたナイフを、もう一人の少年アザナミの鼻先に突きつけて凄んだ。

「いい。勘違いしないで。私は別にあなたを助けに来たわけじゃないの。今は少し事態がややこしくなっているみたいだから、状況を見極めるために、とりあえず生かしておいてあげているだけよ。あまり煩いと、有無を言わずに始末するわよ」

「……ああ、わかってるって、だからそんなおっかない物は引っ込めろって。俺たちは翼を取り戻して、ここから逃げ出したい。お前さんは俺と翼をワンセットでどうにかしたい。現状、目的は一致してんだ、呉越同舟で行こうって提案してきたのはそっちだろ」

「だからと言って、対等だと思われるのは不愉快だわ、あなた達の生殺与奪の権利は私が握っていることを自覚しなさい」

 好き勝手に騒ぎ立てる闖入者達は、しかし先行するフォルフが立ち止まった(正確には恐怖に竦んで動けなくなった)ことに気付いて、ようやく室内の様子に注意を向けて息を呑んだ。

「しまった、見つかった!」

「少しでも忍ぼうとする気があったのかお前らは!!」

 うんざりした風に思わず漏らしたのは、ユヅカの従者のグレンだ。

「やれやれ。テテン君。一体どうやって牢屋から出てきたんだい。少年、君の悪戯か? それともそちらのお嬢さんの仕業かな?」

 その隣で、あくまで貴族然とした優雅な雰囲気を崩すことなく、しかしその瞳にはっきりと怒りを滲ませてユヅカが問いかけた。

 室内を見渡せば、ユヅカとグレンの他に白装束の女性と白衣が馴染んだ研究員らしき面々、さらにユヅカの私兵らしき黒服達の姿もちらほら見える。流石に分が悪いと感じたアザナミはすぐさま引き返そうと踵を返すが、誰も後には続かない。

 見るとフォルフはユヅカを前に完全に萎縮してしまっているし、アイシャは愕然とした表情で固まっている。その視線を辿ると、ユヅカ達の背後、ガラス張りの壁面の向こう側に、先の見えないほどに広大な工場が広がっていた。そしてそこには、

「な、んだ。これは……」

 工場内で大勢の作業員に取り囲まれて製造されているそれを、一言で言い表すなら船だった。それも湖に出るための小船ではない。それは大海を渡るためのとてつもなく巨大な鉄の船。船体の各部から黒光りする砲身を覗かせる、戦うための船。戦艦だ。

 けれども、正確に言い表すならそれもまた間違いだった。なぜなら眼下に鎮座するその戦艦の船尾は、本来船底で水中をかき回し推進力を生み出すはずのスクリュープロペラが無く、代わりに巨大な円筒状の機械が取り付けられ、船体の側面には巨大な羽根が生えていた。もちろん本物ではない。船体と同じ、鋼鉄製の翼が数枚、据え付けられている。

「航空戦艦…」

 ぼそりと漏らしたアイシャの言葉を耳にするまでもなく、アザナミはその正体を知っていた。まさしく眼前にあるそれこそが、空を飛ぶための船であると、はっきりと確信をもって言える。なぜならそれが空を行き交う様を、アザナミは実際に目にしたことがあるからだ。過日目にしたそれには、眼前の戦艦のように鋼鉄の翼を携えてはいなかったが、しかしその形状は酷似している。

 しかもそれが一つではない。視線を移せば、少なくとも6隻、同型の戦艦が建造されている様子が見て取れる。

 けれど、本当に驚愕するのはそれだけではなかった。

 例えば、巨大な航空戦艦の手前には、まるで鳥の形を模したような鉄の塊がある。丁度鳥の頭の部分がガラス張りになっていて、人一人が乗り込める空間が見て取れる。

 例えば、右手に目をやると、平らな海洋生物を彷彿とさせる細長い尾が伸びる扁平な菱形の鉄板が、横の壁には何やら怪しげな装飾品をぶら下げた竹箒が、さらに奥を見やると巨大な円盤が並んでいる。他にもどこにでもあるような人力二輪車だったり、常人の身の丈の三倍はありそうな巨大な甲冑だったり、動物を模した真鍮のオブジェだったり、と、さまざまな形状の物体がひしめいていた。それらに共通していることは、先の航空戦艦と同じく、不恰好な鋼鉄の翼が取り付けられていることだ。

 それらを前に、アザナミは眩暈と共に喉奥が焼付くように一気に渇いていくのがわかった。工場内に並ぶそれらがなにか、アザナミには理解できた。

「どうだい。中々に圧巻だろ? あれらが何なのか、君達にわかるかな?」

 アザナミ達の視線に気づいたユヅカは、愉快そうに喉をならし、

「いま君達の目の前にあるあれらは全て、空を飛行するための乗物なのだよ」

 航空戦艦と同様に、眼前のそれらもアザナミは見たことがあった。流石に全部が全部というわけではない、中には初見のものも混じってはいるが、周りの様子からその用途も察せられるというものだ。

「信じられないという表情だ。あんな機械見たことも無い、と」

 実際は見たことがあるがための表情なのだが、ユヅカにはそうは写らなかったようで、自慢の玩具を見せびらかすように、満面の笑みで眼前に並ぶ飛行装置を披露した。

「それはそうさ。あれらはこの世界のいかなる専門書を紐解いても片鱗すらお目にかかれやしない一品だからね。あれはね、テテン君。この国、いや、この世界の技術力を超越した技法で造られているんだよ。そう、この世界とは違う。異世界の技術で、ね」

 異世界。そう、それはまさに、“空”を介した先に存在する、この世界とは異なる世界の産物に違いなかった。それも全てが同郷のものではない。少なくともアザナミが知る限り、眼前のそれらは全て、完全に異なる世界の理で生み出された代物ばかりだった。

「けれど素晴らしき技術で生み出されたあれらも、今のままでは飛ぶことができない」

 “空”を介し、全ての“世界”は繋がっている。けれど全ての“世界”が同じ理で成り立っているわけではない。それぞれの“世界”にそれぞれの理が存在する。ある“世界”の常識が、他の“世界”でも常識であるとは限らない。それもまた世界の理。

 “空”を介して隣り合っている兄弟世界は、しかしその全てが混じり合わないように線引きされているのだ。それが“空”が“世界”の中心と呼ばれる所以、境界と呼ばれる所以だった。

 けれど、己の世界の理を他の世界で行使する術が全く無いわけではない。“空”に至る理を得た世界が、さらにその境界を越えて、他の世界に至る例もある。要はいかにその術を得るか、その理に至るか、それだけのことだ。それを得るに値する者には相応の対価を…。世界はそのようにして成り立っている。

(だからこそ。あれが本当に異世界の技術で造られていたとしても、理の異なるこの世界で、その能力を発揮することなんてできるはずが無い…)

「惜しいとは思わないか、例えばあれは、この田舎と王都を小一時間で行き来できる。例えばあれは空の彼方、暗き星の海を渡ることができる。例えばあれなら、数百の兵士を共に空を行き、あれは姿を消し飛ぶことができる、そして眼前のあの船には、小国一つを一夜にして火の海にできるだけの火力を積み込むことができる…」

 鳥を思わせる機械を指して、または円盤状の機械を指して、さらには海洋生物を思わせる機械を指して、そして眼前の航空戦艦を指して、ユヅカは興奮気味に声を荒げる。

「口惜しいと思わないかい。これだけの技術が、この世界では鉄屑として日の目を見ることもないだなんて。この力を持ってすれば、何でもかなう。この国だけではない、この世界すら思うがままにできる。それだけの力がいま目の前にはあるのだよ。一技術者として、国の行く末を憂う者として、無視するなどできるはずないだろう? そして、そのためには必要なのだよ。この空を越える理を得た君の生み出した航空装置が!」

 狂気の染み入ったユヅカの告白に、アザナミは戦慄した。その凄みに、ではない。その言葉の意味。“空”について、“世界”について、確かな理解をもってその言葉の発信している、という事実にだ。

 それはなにも“空”の住人だけが知る秘密ではない。いやむしろ“空”の住人であっても、全てを知っているわけではない。“世界”の真理は万人に開かれている、そして求め、辿り着いた者だけが真実を得ることができる。“世界”の秘密の一端を知る世界は、それこそ星の数ほど存在する。

(けどここは違うだろ。この世界はついこの間まで、空を知らない殻の中の雛鳥と同じだったはずだ。テテンがあの翼でようやく小さな穴をひとつ穿った、そんな世界のはずだ。なのになんで。なんでこいつらはさも当然のように理の一端を口走る)

 ユヅカだけではない、取り囲むようにいる室内にいる全員が、得体の知れない存在感をもって攻め立ててくる。そんな雰囲気に呑まれて、アザナミは思わずよろめき倒れそうになる。その腕を後ろから掴んで抱きとめたのはアイシャだった。

「事情が変わったわ。私は用事ができたから、あなた達は先に逃げなさい」

 そう言って、強引に腕を引いて、放り出すようにして身体を入れ替える。同じように、呆然としていたフォルフの肩を掴んで今度は投げ捨てるようにアザナミによこして、アイシャはユヅカ達の前に立ち塞がった。

「逃げる? 君達は私の話を聞いていなかったのかい? この期に及んでまだ逃げるなんて! 許すわけがないだろう!」

 ユヅカの激昂が合図だった。傍らに控えていたグレンが腰元のサーベルを引き抜いたかと思うと、瞬く間に詰め寄ってアザナミ達へ一閃した。その一撃を手にしていたナイフで、アイシャは受け止めた。

「ここは私に任せて、早く逃げなさいって言ってんのよ!!」

「ふん、あれほど執拗に狙っていた小僧の命を、今度は助けるか。まったく気まぐれなものだ。これだから女は信用できない」

「くっ、いい加減しつこい!」

「それはこちらの話だ。剣に忠義を乗せた者として、本業でもない女の小手技にいつまでの手を焼いているようでは、示しがつかねんだよ!」

 言葉を交わしながら剣戟を繰り広げるアイシャとグレン。その間に逃げ出そうとしたアザナミ達は、しかしグレンと同じくすでに動き出していた黒服達に唯一の出入り口を押さえられ、すっかり取り囲まれてしまっていた。

「あーもう! 大きいのいくから、その隙に逃げなさい」

 アザナミ達だけでは逃げるのは不可能と判断したアイシャは、グレンから距離をとり、黒服達に向けて左手を突き出した。その手にはめられた腕輪が朱い光を放ち、その周りに幾重かの光の糸を束ねた朱い環が生まれる。そのうちの一本が環を離れて、突き出した左手の前で複雑な紋様を描き出した。

「な、お前、それは!!」

 その様子を見て、思わずアザナミが声を挙げ、黒服達が慄き、グレンが身構え、誰もが目を見張る中。

「あははははっ、あははっ、ははハははハははハハハッ!」

 場違いに明るい笑い声が反響した。

「失礼。なるほど、グレン殿から話は聞いていたが、まさか本当に魔法とはね。しかもその術式。なるほどなるほど。なるほどわかったよ」

 室内全員の注目を受けながら、ただ一人「合点がいった」と歓喜しているのはユヅカの傍らに立つ白装束の女だった。

「何がおかしいの!」

「まったく、そんな物騒な物を向けるでないよ」

 白装束の女は、自身に差し向けられた朱い紋様を、しかしなんでもない風に眺め、フードから覗く口元に細い笑みを作り応えた。

 次の瞬間、薄暗い室内に光が生まれた。天井で仄かな揺らぎを演出している光石燈の光でも、アイシャの左手で輝く朱い光とも違う、反応炉の中の鉱石を彷彿とさせる青い光。気がつくと、白装束の女が持つのと同じ水晶玉が六つ、アイシャを取り囲むように床に転がっていた。その水晶玉からまるで湯気のように青い光が立上っている。

 その青い光が、海中を漂う海草のように揺らめきながら、まるで生き物のようにアイシャの足元に絡みついてくる。その光に呑まれて、アイシャの左手の先に浮かんでいた朱い紋様が掻き消された。さらに青い光はアイシャの左手首で輝く朱い環に伸びていく。

 危険を察したアイシャは、慌てて光の環を消した。

 するとそれを待ち構えていたかのように青い光は勢いを増して、アイシャの身体を這い上がり、彼女を拘束した。青い光に囚われた身体はまるで堅牢な鎖で束縛されたかのようにまったく自由が利かない。

「これ…は!」

「なにも驚くことはないでしょう? あなたと同じ、魔法よ。ただし、あなたのような制約付きの代物とは違う。光石魔法といってね。私が編み出した。混じり気無しの純粋なこの世界の魔法さね」

「くはははっ、まったくいい気味だな、エイシア」

「!?」

「何を驚いている。半年程前、ホークシティにふらりと現れ、パン屋で住み込みの仕事を始めた異邦人。年齢、出身、経歴等一切不明。まじめで人当たりの良い性格で、周囲の評判はよいものの、他人と一線を引いており、親しい知人はいない。好奇心が旺盛で、町の散策を趣味とし、度々部屋を空けることがあった。そして大展覧博の日を境に行方をくらませている。まったく、調べるのには苦労したが、一度辿り着いてしまえば、これほどわかりやすい事例もそうはない」

「お待ちよ。その娘には用がある。手荒な真似はよしとくれよ。どうせならそこの坊やにしておきな、ショックで記憶が戻るかもしれないからね」

 アイシャの首元にサーベルの先を押し当てて舌なめずりをするグレイを制したのは、他ならぬ白装束の女だった。言われて、主の意向を伺うべく視線を向けるグレンに対して、ユヅカは嗜虐的な笑みを持って応えた。

「そうだね。また逃げようなどと考えない程度に教育しておいてやろう」

 主の言葉に従いグレンが迫ってくる。黒服達に囲まれているアザナミにはどこにも逃げ場は無かった。けれどもようやく訪れた脱出の好機、また牢獄に戻されるのはごめんだと、アザナミが一か八かの特攻を仕掛ける覚悟を完了したとき。

「させない!!」

 青い光に束縛されたアイシャが、苦痛に表情を歪めながら、強引に左手をアザナミ達に向けた。その腕に、再び朱い光の環が生まれる。その瞬間、アイシャの身体に絡み付いていた青い光の一端が、獰猛な肉食獣の顎を模して光の環に喰らいついた。その顎は環を成す光の糸を噛み千切っていく。それでも怯むことなく、アイシャは左手を掲げ続ける。その掌の前で環から分離した二本の光の糸が複雑な紋様を編み上げていく。やがて完成した朱い紋様は、アイシャの手から離れ、身を反らしたグレンの横を通過して、アザナミとフォルフの体に触れた。その瞬間、紋様は輝きを増して、アザナミ達の姿を隠した。

「こいつは…!!」

「いいテテン! さっきも言ったけど、あなたの生殺与奪の権利は私が握っている。まだあなたを認めたわけじゃない。けれどあなたをどうするのか、それを決めるのは私なの! 結論がでるまで、他の誰にもあなたを殺させない。それは私の役目。あなたが傷つき、倒れることを、私は許さない。だから逃げて! 次に会うとき、私が判決を下すまで、逃げて、逃げて、逃げ切りなさい!!!」

 アイシャのその言葉は果たして全てアザナミに届いたのか。言葉の中、二人を包む光は一層強く輝いて、次に朱い光が消滅した時には、その姿はどこにもなかった。

「馬鹿な! どうなってる? くそ、逃がすものか。なんとしても探し出せ!」

 ユヅカの号令に、黒服達は一斉に部屋から飛び出していった。

「無駄よ。彼らはもう、ここには居ないわ。私の魔法で遠くへ飛ばしたのだもの」

「おやおや、そんなにあの坊やが大事かね」

「だとしてもだ! たとえそこが地の果てだろうが追いかけて、必ず小僧を捕まえてやる。設計図が無い以上、あの小僧の記憶のみが鍵なのだからな」

 ユヅカが鼻息荒く宣誓した時、「そのことですが……」と、控えめな耳打ちをしてきたのは、初めにやってきた伝令兵だった。

 伝令兵の言葉を聴くうちに、ユヅカの顔に嬉々とした笑みが浮かんだ。

「く、はははははっ。なるほどどうして、やはり私は空の神に愛されているらしい」

 忙しなく動き出した室内の喧騒に乗じて、なんとか逃げ出そうと画策するアイシャだったが、その体を容赦なく青い光が縛り上げる。

「せっかくいい人質だと思っていたのに……。悪いけど、あんたを逃がすわけにはいかないのでね、少々手荒に扱わせてもらうよ」

 その言葉通りにどんどんと強くなる青い光の束縛に耐え切れず、アイシャの意識は途切れてしまった。力なく倒れたアイシャが完全に意識を失っていることを見て取ると、白装束の女は、恍惚の表情で工場に並ぶ飛行装置に目を向けるユヅカに、視線を向けた。

「さて、その様子ですと、御所望の物が手に入ったようですな」

「ふん。判るか魔女よ」

「ふふふ、今の貴方様の様子を見て、察せぬ方がどうかしておりましょうよ。つまりは、全ての鍵が揃った、ということございましょう」

 フードから覗く唇を一層細く引き伸ばし、白装束の女はこの部屋に居る何者よりも酷薄な笑みを浮かべた。



 朱い光に視界を奪われたアザナミが次に目を開くと、その視界に飛び込んできたのは、自分のことを覗き込む、この世の者とは思えない絶世の美少年の姿だった。

 腰まで伸びる金色の長髪、スラリと伸びた長い足に無駄な肉のついていない均整の取れた体躯。透き通るような白い肌の少年がアザナミを見ている、その切れ長な目に不安げな憂いを滲ませる様子には、そこはかとない色気すら覚える。少年は身の丈よりやや大きめな浅黄色の作業着を身に纏っていた。どこかくたびれた風の、油の滲んだ作業着が、少年が身に着けていると一等の品に見えてしまうから不思議だ。

 これであとは背中の翼が衣服の中に隠されてなければ完璧なんだけどな、とアザナミはぼそぼそと口の中で言葉を紡いだ。

「え? 何か言っっっっっっっっ!!!」

 そしてアザナミは、その言葉を聞き取ろうと近づいた少年の頭をいきなり掴むと、強引に引き寄せて、その口元に自分の唇を押し当てた。

 突然の出来事に、少年は何が起きたのか判然とせず両目を見開いて固まってしまった。無理矢理な体勢から来る息苦しさと、強引に頭を引かれる痛み、そして唇に感じる柔らかく温かな感触が不快感と、ほんの少しだけ、抗い切れない心地よさを少年に伝える。襲い来る様々な情報がぐるぐると少年の頭の中をかき回している。

 そうこうするうちに、ぼやりと身を任せていた少年の口内に、ぬるりと生暖かく弾力のあるものが忍び込んできて、それが何かと理解する前に彼はアザナミを突き飛ばした。

「っっっ、痛ってーな。何すんだよ」

「何するんだ、はこっちだよ! 一体どうゆうつもりで、そのキ…キスとか、しかも…」

「何をそんなに怒っているんだ? 別に対した問題じゃないだろう。こんな美少年と口付けを交わせるんだ。むしろ喜んで然るべきだと思うけどな」

「どこの世界に男と、よりにもよって自分とキスして嬉しい人間がいるんだよ!」

「あーなるほど、うん。そうか、そっちの視点まで考慮して無かった。ごめんな」

「なんでそんなに残念そうなんだよ」

「まぁ、なんだ。何はともあれ、元気そうでなによりだよ。随分久しぶりだな、テテン」

 こうして、“空”で出会い、別れた二人の少年は再会を果たした。

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