第四話 夢の地にて②
アザナミが連行されたのは、町の中心街の広場で、そこは散々なありさまだった。
広場いっぱいを、顔を赤らめた大勢の人々が埋め尽くし、乱雑に置かれた無数のテーブルの上には、漏れなく湯気の上がる豪華な料理と芳醇な香りの溢れる果実酒や黄金色の麦酒が並んでいる。その一方で、広場を取り囲む光石燈の明かり照らされた足元には、空の酒樽やら、食い散らかされた料理の成れの果てやらが、そこら中に散乱していた。むせ返る様な熱気と香ばしい香り、饐えた臭いが渾然一体となって広場中に充満している。
そんな広場の中央に一段高く据え置かれた舞台に強引に担ぎ上げられたアザナミが目を白黒させていると、紅白のストライプ柄の服を着た男が一人近寄ってきて「何か一言」と、仰々しく頭を垂れた。ざわめいていた人々が一斉にアザナミに注目して、騒がしかった広場の中心からまるで波紋が広がるかのように静まり返っていく。
傍らの紅白服の男に視線で促されて、アザナミが口開きかけた瞬間、
「この大馬鹿者が!! 今までどこをほっつき歩いとったんだ!!!」
先ほどまでの喧騒が可愛く思える位の大音声が轟いた。
見ると、眉を吊り上げ、口をへの字に捻じ曲げた、不機嫌を絵に描いたような仏頂面の老人と、落ち着き無くテーブルの上に視線を送りながら老人の後に続く苦々しい表情の無精髭の中年の男が、無遠慮に人々を押しのけながら、づかづかと舞台に迫って来ていた。
「まぁったくよぉテテン。てめぇを尋ねて軍人やら、どこぞの学者様やら、やたらご立派な名前のお偉いさんやら、宗教臭ぇ皆々様やら、まぁまぁ千客万来ってな具合に押しかけてぇ来やがるし。仕事はちっとも片付かねぇしよぉ。ジィさんはずっとこんなぁだし。しかも当の本人はあれから連絡一つよこしやならねぇときたぁもんだ。どんだけ迷惑かけてんだってぇ、話だよ」
「ご…ごめん」
仁王立ちする二人の迫力に、アザナミは思わず謝罪の言葉を口にしていた。なぜだか、この二人には絶対に逆らえない気がする。
「おやっさん~。こうして無事帰ってきたわけだし、お堅い話は無しにしましょうや」
「うるさいわ! 人様の家の事情に口出しすな!!」
「いやいやおやっさん。折角の祝いの席だぜ、それこそ他人ごとじゃねぇでしょ。お前もよ、折角ただ酒がたらふく飲めるんだ。ここは穏便に済ませよぉや。な。」
「そいつぁ、確かに魅力的だぁな…」
父親は少し考える振りをしてから、険悪な雰囲気で食って掛かる祖父の肩を掴んだ。
「何をする。お主、裏切るつもりか! 止めんか! 離せ!!」
「まぁジィさん。確かにめでてぇことにゃあ違ぇねぇや。こかぁ一つ、御相伴に預かることにしましょうや」
父親に連れられて退場する祖父をスカーフ片手に見届けてから、紅白服の男は「それでは改めて」とアザナミに視線を送った。無視しようかとも思ったが、心身ともに疲れきっているアザナミに、紅白服の男からの無言の圧力に敵う術は無く、仕方無しに
「ども、…ありがと、です」
などと、一体何が「ありがとう」なのかもわからぬままに、実に適当なコメントを言った次の瞬間、歓声の爆発が炸裂した。その音の波、大気を震わせる衝撃はすさまじく、地震でもあったかのように壇上が揺れていた。
「ホークシティの英雄に乾杯!!」
「いや! 本当、俺は、お前はいつかやる奴だって、わかってたぞ!」
「おらテテン! こっち向けよコラ!」
「なんかさ。テテン君みたく、自分の道を生きる男ってカッコいいよね」
「きゃーー! こっち向いてーーーー!!」
人々がテテンの名を称え、好き勝手に騒いでいる。大勢の人が入れ替わり立ち代りやって来ては、一言二言言葉を交わして去っていく。
アザナミとしては一刻も早く、目の前に並べられた御馳走にかぶり付きたかったが、テテンの身体を借りている身の上としては、彼の立場が悪くなるような真似をするわけにもいかず。空腹に目を回しながらも、尋ね来る人々に全力で愛想笑いを振りまき続けた。
けれどもそうして疲労と空腹で限界の身体を犠牲にしたお陰で、現在アザナミが(正確にはテテンだが)置かれている現状を僅かながら窺い知ることができた。
「テテンが“境界” を越えてから10日あまりが経過している」「テテンの発明が何かの催しで最優秀賞を受賞した」「受賞の栄誉と催しの成功に町中が沸き立って、幕引き直後から飲めや騒げやの大宴会が連日繰り広げられている」「テテンは一躍時の人となり、ホークシティの英雄とまで呼ばれている」
ようやく人の列も途切れ、広場に目を向けると、先ほどの祖父と父親も、それぞれ数人に囲まれて楽しげに談笑していた。
本来ならテテンが受けるはずの施しや賛美の声を奪ってしまったことを、片隅で謝罪しながら、アザナミは机上の料理へと手を伸ばした。
ひとくち口に入れた瞬間、体中が凶悪なまでの安堵感に満たされていく。広場の喧騒を背景に、我武者羅に眼前に並ぶ料理にむしゃぶりついた。
それがアザナミにとって地上での、それどころか生まれて初めてかもしれないまともな食事であったことに気がついて「あの時もっとじっくりと味わっておけばよかったぁ…」などと後悔したのは、完全に酒に呑まれた父親を一人を残して、何時終わるとも知れない宴に湧く町を背に、祖父に連れられてテテンの家に帰ってしばらく後のことだった。
「まったく、調子に乗って酒なぞ呷りおって」
家路の中、アルコールにやられた頭を抑えながら、相変わらず一歩を踏み出すのも覚束ないアザナミを横目に、祖父は終始愛想の無い仏頂面でぶちぶちと漏らしていた。老齢の細身からは考えられない強引さで牽引して、二階に上る階段口まで来たところで、「後は一人で行け」とアザナミを放り出した祖父は、
「お主は馬鹿者だ。そいつぁ、間違いない。そんなお主が、どんな、何を作ろうが興味はない。じゃがな。お主がずっと挑戦を続けていたことを知っておる。その努力が実を結んだんじゃ。ようやったな。今夜はゆっくりと休め」
そう残して、自室へと入っていった。
一人にされたアザナミが、朦朧とする意識のまま、文字通り階段を這い上がると、二階はすぐ廊下になっていて、扉が三つ並んであった。さてどれがテテンの部屋なのかと、しばらくぼんやりと迷った末に、とりあえず手前の扉に手をかけた時、ぶっきら棒な横槍が入ってきた。
「何か用かよ」
見れば少年が一人、いつの間にか一番奥の扉に寄りかかるように佇んでいた。
着ている服はよれよれで、気だるげな風体からはまるで覇気が窺えない陰気な少年は、手入れをしていないぼさぼさで黒色交じりの斑の金髪の影から、隈の濃い不健康そうな目を恨めしげに覗かせている。
「え?」
「だから、俺に用なのかって聞いてんだよ」
「ああ。ここはお前さんの部屋かい?」
「ふざけんてんのかよ。…ん? おかしいと思ったら、てめぇ、酔っ払ってんのか?」
「酔ってる? 俺が? ああっ、そうか。話には聞いたことがあるぞ。これが酔っ払うって奴か。あはははっはははっっ。これが、ね。これかぁ、あはははははっ」
どういうわけだか抑える気にもなれず、こみ上げてくる感情にアザナミは身を委ねて笑った。
「っっ!! 久しぶりに帰ってきたかと思えば、まさか兄貴が飲酒とはね。いいご身分だな。一躍ホークシティ中の人気者ってわけだ。どうだよ。さぞ気分がいいだろう!」
「身分がどうだかなんざ、知らないけどさ。そりゃあいい気分だよ。今日は俺史上最高の一日だね。なんてったって、長年の夢が実現したんだ。これほどすばらしいことは無い。断言しよう。俺は今! この世界でもっとも幸せな男だと!! なんつってな。あははは、なぁ、お前さんもそう思うだろ…?」
「えらく饒舌じゃねーかよ、クソ兄貴! 鬱陶しいんだよ! さっさと寝ちまえ!!」
真ん中の部屋の扉をドンッ、と一発横手に殴りつけて、アザナミがかけた手を乱暴に押しのけると、イレイはそのまま扉を開けて部屋の中へと入って行った。
再び一人残されたアザナミは「弟…ね。まったく兄貴と違って暗い奴だな」などと愚痴りながら、先ほどイレイが殴りつけた、真ん中の部屋の扉を開けた。
雑然とした部屋だった。四角い間取りの部屋の両の壁際には棚が並んでいて、書物やら、工具やら、木彫りの鳥やら、訳のわからない模型なんかがぎゅうぎゅうに押し込まれている。そればかりか棚に収まりきらなかったそれらが、床面にまで溢れ出している。
そんな有様の中にあって、入り口から対面の窓際のベッドへ向けて、まるで干潮時の浅瀬のように、まっすぐと細い道ができていた。人間一人がようやく歩けそうなその道の真ん中に倒れこんで、アザナミは大きく一つ、息をつく。仰向けになると、天井にはめ込まれた天窓越しに、暗い色に染まった靄に覆われた空の様子が窺えた。
「黒い、空。これが夜空…か。…まったく、何から何まで…最高すぎて、言葉も無いな」
念願の世界に降り立って、あんな大勢の同胞に囲まれて食事をして、酔っ払って、こんな風に、“空”では望むことの叶わない空を仰ぎ見る。
どれもこれも、浮遊人であるアザナミにはけして叶わないはずだった出来事。
大きな課題は残っているが、どう見積もったって、やっぱりその日はアザナミにとって、最高の一日と言わざるをえない。それ以外のことには、今は頭が回らない。判らないことは明日にすればいい。
(とにかく今は…、)
万感の思いを胸いっぱいに、アザナミは瞳を閉じた。
こうしてアザナミの地上での一日は終わった。
そこまではよかった。
事態が急変したのは翌日だった。
翌朝、天窓から降り注ぐ光に目を細めながら、すこぶる健やかな気分で目覚めたアザナミを襲ったのは、体中を駆け巡る猛烈な痛みだった。初めは昨日散々転げまわったツケがきたのかと思ったが、どうにもこの痛みは外傷のものとは具合が違った。表面を走る痛みではなく、もっと身体の内側から湧き上がるような熱気と倦怠感を併せ持ったその痛みには、アザナミも身に覚えがあった。あれはそう、生まれて初めて巣から飛び立ったあの日、もしくは初めて風の奔流に逆らいながら境界に臨んだあの日、または無作法な越境者を相手取って敢然と立ち回ったあの日、身体の奥底から響く悲鳴にも似たこの痛みは、いわゆる筋肉痛というやつだ。
(っていうか、昨日一日だけでこんなにひどいなんて…)
はたして昨日はしゃぎ過ぎたのが原因か、それとも昨夜の果実酒が原因なのか、深い眠りの最中には気づけなかったが、寝返りひとつ打つのにも相当以上の覚悟が必要だった。
このままずっと眠っていたい誘惑に駆られるが、そういうわけにもいかない。
なんとかして、“空”に帰る手段を講じなければならない。
(流石にずっとこのままってのは、忍びないしね~)
正直このままでも構わない気もするけれど、と心の奥底で悪態づきながら、どうすれば“空”へ帰れるかと思考を巡らせる。
(“空”からの救援はまず望めない。大翼主あたりは気づいているだろうけど……。やっぱりあの飛行装置を直すしかないか……)
幸いにもテテンの身内に巡り会う事ができた。ここでなら翼の修理も可能なはずだ。昨日“空”に到れなかった理由も解るかもしれない。
そうなると休んでばかりもいられない、凪いでいる筋肉痛への怯えを断ち切るように、勢いよく身を起こすと、直後に襲ってきたのは抑えようの無い鈍い疼き。それに加えて、身体の表面のいたるところを鋭い痛みが奔った。当然というべきか身体の傷も癒えてはいなかった。想定外の痛みの共演に、思わず目尻が濡れる。
(こいつは、大変な一日になりそうだな・・・)
夜が明けて改めて見回すと部屋には物が溢れかえっていたが、いかんせんこの世界の普通を知らないアザナミは、まぁこんなものなのだろうと一歩を踏み出した。二日目にして、よたよたと一歩づつ、昨日中に培った感覚を復習しながらなんとか部屋から脱出し、階段を下りると、どこからかトンテンカンテンと小気味の良い音が聞こえてきた。何事かと音源を辿ると、ひときわ広い一室の隅で工具を振るうテテンの祖父と、何時の間に帰ってきたのか、いまだ酒の抜けきっていないのだろう赤ら顔の父親の姿があった。
部屋に入ってきても、僅かに視線を向けるだけで、一向に手を休めない二人に対して、目覚めの挨拶もそこそこに、アザナミはさっそく翼の修理を持ちかけた。
すると二人は、片手に工具を構えたそのままに、驚愕の表情をアザナミに向けた。
「え…と。どうしたの?」
「どうしたってぇ? そいつぁこっちの台詞だぁぜ。いってぇどういうつもりだぁ? あんだけてめぇの仕事にゃあ、手ぇだすなってぇ言ってぇたぁのによぉ」
「ええ…と、て、手、そう! 手を、怪我して、それで…」
「怪我だぁってぇ? そんな風にゃあ見えねぇけどなぁ」
「そ…の、手が、痺れてて、思うように力が入らないって言うか…、」
怪訝そうな父親の視線にうろたえたアザナミは、とにかくその場を取り繕おうと、その場しのぎの由無し言を並び立てた。その結果、実のところは打ち身、擦り傷と筋肉痛であるアザナミの腕の症状は、飛行装置の操作のミスで墜落した際の鞭打ちが原因と思われる謎の痺れと、見た目に判らない無数の肉離れの為、指一つ動かすことが叶わない重症の様相を呈するまでになっていた。
「おいおい、そいつぁ、大事じゃねぇかい。修理だぁ、なんだぁとか言う前によぉ。医者に行くほぉが先じゃあ、ねぇかよ」
「や、まぁ、大変なんだけど、実はそれほどでも無いって言うか。今は飛行装置のほうが先決で…ね?」
「なぁに言ってぇいやがる。そんなぁもん、手ぇ治ってからで十分だろぅがよ。今はしっかり休んでぇだな…」
「でも…!」
「落ち着かんか鬱陶しい!!」
その一喝で半ば条件反射的に口を噤む二人を相変わらずの不機嫌面で睨めつけながら、
「まったく、さっきからなにをごちゃごちゃ言っとる。ようするに、お前はワシに修理の依頼をしたいわけじゃな」
「え…ああ、うん」
「じゃったら、ワシが断る理由は別段ないわい。なにせ我家は修理工じゃからな。幸い、今は大展覧博の後でろくな仕事が来ておらん。特別に見てやるわい!」
あくまで不機嫌そうな相貌を崩そうとしないが、そう言った祖父の様子はどこか怱忙としていて、その双眸はギラギラと熱を帯びている。そんな祖父の姿に、父親は深々と酒気交じりの息を吐き出した。
「よおぅするにジィさん、テテンのガラクタぁ弄ってみてぇってぇこった…。ついのこないだまでやぁ、一切興味なかったぁくせしてよぉ」
「うるさい! 産声を上げたばかりの、この世で一点限りの怪作じゃぞ。食指を動かされんほうがどうかしておる!!」
「ったぁくよぉ~お。結局こないだの連中とおんなじじゃあねぇかい。……まぁ、ジィさんがそう決めたんなら、しかたねぇやぁな。つーわけだ、テテンよぉ。今回はぁ特別だ。てめぇのぉ、なんだぁ、“翼”つったか? さっさと持ってぇ来いよ」
どうやら二人の協力は得られるようで、アザナミは胸を撫で下ろした。正直テテンの身内の協力なく翼を直すことは不可能だろうから。
そうと決まれば、二人の気が変わらないうちに翼を回収すべく、工房から出ようとするアザナミに、
「とりえぇず、翼を取ってくる前に、図面だきゃ先に置いてっけよな」
「ズメン?」
「翼の設計図に決まってんだぁろぅが」
さも当然のように父親は言うが、アザナミは何のことかわからず首を傾げた。
「設計図って、ここには無いの?」
なんの疑いも無く尋ねるアザナミの様子に、またも二人は顔を合わせた。
「そんなぁもん知るかぁいよ。てめぇの部屋か、工房じゃねぇのかぁ?」
「ああ、なるほど、俺の部屋か、工房……ね。わかったありがとう」
とりあえずテテンの部屋へ向かうべく工房のドアに手をかけて、
「……ところで、工房って何処だっけ?」
さり気なく聞いたつもりだったが、その一言で祖父と父親はまるでこの世の終わりを見たような顔でアザナミを見ていた。
しまった、と思ったアザナミは「実は着陸のショックとか、昨日のお酒が原因っていうか、記憶が曖昧で」、とまたも適当な言葉の上塗りを始めたが、もはや二人はそんな言葉に耳を傾けることは無く、
「テテンよ。やっぱり今日はゆっくりと休め。な?」
そう言った祖父の顔は、今まで――テテン本人でさえも――見たことも無いような、優しげで慈愛に満ちた笑顔だった。
その後、なんと言って逃れたのかその片鱗すら思い出せないが、長い口論の末に工房の場所を聞き出したアザナミは逃げ出すように家を飛び出した。
設計図の在り処は自室か工房とのことだったか、どちらにしろ翼を取りに行く手間もある。何より今は二人と顔を合わせたくない。そんなわけで、自室は後回しにして、アザナミはとりあえず工房へ向かうことにした。
「さてと、そんじゃま、気を取り直して行くとします……かね」
まるでピクニックを前にした子どものような笑みを浮かべて、アザナミは工房があるという丘の上を見上げた。その笑みが若干引きつったのはきっと、いまだ止まない筋肉痛のせいに違いない。