第三話 “ 空 ”①
その日もアザナミは、空の只中で一人、物憂げな表情を崩すことなく、眼下へと意識を向けていた。
それが幸いした。
いつも、眼下を望む彼だからこそ、その異変に気付いた。
界面が波打ち、世界の像が微かに揺らぎ、感じたことのない臭いを、温度を、質感を、風味を孕んだ風が吹き込んでくる。凪いでいた“空”の片隅で微かに、けれど確実な指向性を持って大気が震えていた。
芽吹きの風だ。
だが、それにしては揺らぎが異質すぎる。
本来、芽吹きの風は“空”全体の大気を震わせ、“空”と大地が繋がった慶びを世界に伝える。けれどその風は弱々しくて、芽吹くどころか、今にも枯れ絶えてしまいそうだ。よほど熟練の浮遊人でなければ、とてもではないが気付かないだろう。それほどまでに微かな揺らぎに、アザナミが気づくことができたのは本当に偶然だった。
アザナミは翼を目一杯に広げると、揺らぎの下へと向けて降下を始めた。
迅速に、けれども誰にも気取られないよう密やかに。
そうして微かな揺らぎを肌に捕らえ、風の流れに逆らいながら辿り着いたその先、境界の果てから、それはやってきた。
初めは鳥かと思った。
極稀にだが“空”に帰属しない鳥が、偶然にも境界を越えてくることもある。けれど直ぐにそれが自然界の生物ではなく、人の手によって造られた翼であることに気付いた。
幾度となく行き交う者達を見送ってきた彼は、世界を渡る者達が使う、翼を持たない彼らが飛行するための翼だと気付いた。
その翼を背にするのは、どこかひ弱な印象を受ける青年、いや少年か?
少年は、その腕に女性を抱いていた。こちらは少女ではなく、女性、と呼称するに相応しい風貌だ。
幾百もの人々を見送ってきたアザナミも、これほどに美しい人を目にしたことがない。
(いや? どこかで会ったことがあるか? …まぁ、どうでもいいか)
とりあえずは、と陽の位置を確認しつつ、アザナミは少年の前でわざと音を立てるよう大仰に翼を広げてみせる。翼から抜け落ちた純白の羽が、はらりひらりと少年の周りを浮遊する。光を背負うアザナミの姿は、少年から見てさぞ幻想的に映っていることだろう。
「てん……し?」
「(う~ん。いいリアクションだ)ん、おほんッ。我が名はアザナミ。境界の管理者にして、行き交う者達の案内人。“空”を統べる浮遊人の一翼。境界を越えし、世界の先駆者よ。新たに芽吹いた風を背負う渡り鳥よ。我等は汝等の誕生を心から慶び、祝福とともに“空”への来訪を歓迎しよう。吹き込む風と、この“空”が交じり合い、二つの世界が共にあるべく、汝に世界の理と共にその教示を……」
つらつらとアザナミの口から紡がれる言葉は、新たな世界からの来訪者に対して述べる常套句だ。ちなみに舞い散らせた羽と、陽の光を背負うのは彼の勝手な演出だった。
アザナミの文句を聞く最中も、翼を携えた少年は、自分が今どのような状況にいるのか理解できずに、“空”とアザナミを交互に見比べ、双眸を見開いていた。
無理も無い、いきなり境界だの“空”だの言われて、理解しろという方が無茶な話だ。誰でもそうだ、“空”に到った者達はみんな同じ顔をする。それでいい。そんな彼らのために浮遊人は存在しているのだから。
(それでも腕の中の彼女をしっかりと抱いている辺り、できた奴なのかもしれないな)
アザナミはじっくりと観察を済ませると、未だ現実感の欠片も見せない少年の顔を覗き込み。
「とまぁ、あれこれ言ったところで、訳がわからないよな。とりあえず着いてきなよ」
そう言って、悪戯気に口元を吊り上げて、大きく背中の翼を広げた。
第三話 “ 空 ”
あきれたことに、テテンと名乗った少年は、は自分の翼を自由に扱うことができないらしい。
(と、いうよりまだ不慣れなだけか? よくもこんな様で境界を越えることができたものだ。もしかしなくても、イレギュラーってやつかな)
どうにも境界を越える資格があるようには見えないテテンを観察しながら、アザナミは思案を巡らせた。
アザナミがテテン達を連れてきたのは、この“空”の中にあって、唯一形あるもの。“ヨルベ”と呼ばれる巨大な構造体、その一画だった。“空”に浮かぶ“ヨルベ”はまるで巨大な雲の塊のような歪な形状をしている。白が基調となっていて、その構造は内部で幾つかの階層に分かれており、その中をさらに区画分けされている。誰の持ち物ということではなく、多くの浮遊人が代わる代わる利用している。“空”にはそういった“ヨルベ”が幾つも点在している。極めて共有性の高い宿舎のようなものだ。“ヨルベ”の下層部、そこがアザナミのような末端の浮遊人が翼を休める時に訪れる安息の場所となっている。
「まぁ、俺らは“巣”なんて呼んでるけどな」
空いていたスペースでエイシアを休ませ、 “空”を一望できる場所に腰を下ろし、改めてアザナミとテテンは向かい合った。
「(へへっ、都合よく誰もいねぇ)」
「え?」
「ああ、なんでもない。こっちのことさ。……さて、と。事情は大体分かった。今度はこちらが答える番かな? お前さんもいろいろと聞きたいことがあるだろう」
「ここはどこなんですか?」
「おっと、直球だな。まぁ当然か。ん、……ここは“空”さ。そして、“世界”の境界」
「キョウカイ?」
「ああ、この世に存在する数多の“世界”の中心。“世界”と“世界”を結ぶ狭間の“空”。全ての“世界”の住人は、須らく空を目指し、そして“空”へと到る。夢の終わりにして、始まりの場所。それがこの“世界”だよ」
得意気につらつらと語るアザナミだったが、テテンは言葉の意味に全く理解していない風だった。
変に世界の理を悟った魔術師や、この世のありとあらゆる事象を想定し尽くしている科学者だったり、直ぐに状況を飲み込める柔軟すぎる思考の持ち主だったりを相手にするのも物足りないが、こうも何もわかっていない者を相手取るのも、非常に疲れる。それでもまぁ、それがアザナミの仕事なのだから仕様が無いのだが…。
「あそこを見てみな」
アザナミが指差したのは眼前の“空”。その先にポツリポツリと雲塊が見える。それが“ヨルベ”なのか本物の雲なのかテテンには判別できないが、その雲塊の遥か先、景色が白く霞んでいる“空”の最果て、その更に先に、薄っすらと浮かび上がる景色があった。見慣れないその景色は、まるで教会学校で見た世界絵図のように見える。
「あれが、僕の住んでいる場所…」
「いいや違う。あれはお前さんがいた“世界”じゃあない。よく似ているかもしれないけど、全く別の“世界”さ。あそこに見えるのも、向こうもだ」
そう言って、次々とアザナミが指差す先には、同じような世界の景色がこれまた薄っすらと見えている。よくよく見れば、ひとつの景色はまるで世界中が雪に覆われたかのように白く、また別の景色はまるで灼熱の太陽のように赤い。
「一体、これは…?」
「お前さんの世界でも、天を仰げば星は見えるだろ。その一つ一つの傍らだったり、異なる理の境界線の先だったりに、お前さんが住んでいる場所と同様に文明を持つ“世界”が存在しているのさ。たやすく目視することは叶わない。果てなく遠くにある兄弟世界。しかして全ての世界は、この“空”で繋がっている。」
「“空”?」
「そう、“空”。つまりはこの場所。“世界”を紡ぐ境界。それがここだ。発達した文明は、やがて空を目指すようになる。自分たちの世界。その外側を目指す。手がかり足掛かりはそれぞれ違うけどな。ある世界では科学の力で。またある世界では魔法の力で。心の在り方一つで空を飛べる世界なんかもある。そうして人々は空を目指し、そして、境界の存在に気付く。気付き、そしてそこへ到る術を見つけ、世界の理を解明した者達だけが“世界”を渡る権利を得る。ここは“空”。境界の世界。“世界”と“世界”を繋ぐ世界。全ての“世界”は“空”に寄り添い、“空”によって繋がっている。わかるか?」
アザナミにすれば懇切丁寧に教示したつもりだったが、あまりに突拍子の無い情報の連鎖に、テテンはますます頭を抱えてしまっていた。
「わっかんねぇか? ま、そりゃそうだよな。聞いた話じゃ、お前さんとこの世界ではまだ空を目指すことすら始まったばかりのようだからな。だってのに、お前さんは境界を越えた。奇跡としか言いようが無い」
「…それで、僕らはこれからどうなるんでしょうか?」
「別にどうもしないさ。ずっとここにいたいと言うならそれもいい。帰りたいというなら帰ればいい。他の世界に渡りたいというなら、まぁ案内してやらないこともない。もっとも、そのためには更にもう一段階、境界を越える理が必要だけどな」
「帰れるんですか!」
「もちろん帰れるさ。俺を誰だと思っている? 俺はこの“空”の住人、浮遊人。この“空”の案内人だぜ」
「だったら!」
「まぁ待ちなよ。何も今すぐ帰ることもないだろう。お前さん言ってたよな。自由に空を飛ぶことが夢だったって。そしてここは“空”だ。どうせなら、思いのままに羽を伸ばしてみたくはないか?」
そう言って微笑かけてくるアザナミ。目の前に広がるのは、幾度となく夢に見ていた(モノとは若干異なるかもしれないけれど)、“空”。エイシアはいまだ気を失ったままで、“空”に来てどれだけの時間が過ぎたのかはっきりとは知れないが、特段急いでホークシティに戻らなければならない理由も無い。こうなればテテンが、その魅力的な誘惑を断れるはずもなかった。
結局、エイシア一人残して行くことに引け目を感じながらも、彼女が目を覚ますまでの間だけ、と言い訳一つ残して、テテンはアザナミと共に“空”へと飛び出した。
鉄製の自前の翼を背中に背負い、しっかりと身体に固定する。腰に下げた袋の中から掌大の鉱石をとりだして、胸の位置にある炉の中に投入する。しばらくして炉の中で変化が始まる。鉱石が溶け出して、炉に満たされた反応液が青白く発光する。光は体を固定しているベルトに沿って取り付けられている管を通って翼に伝播する。両脇下から伸びる制御棒を握り締めると、背中の翼が大きく開き、青白い光が翼の先端にまで行き届く。
「それじゃ、行くか」
先陣を切って飛び出したアザナミの後を追い、“ヨルベ”の先から飛び下りた。
強烈な落下感がテテンを襲う。失敗かと、冷や汗が吹き出た次の瞬間、あの時と同じ浮遊感がテテンの身体を支配した。三百六十度、自信を取り巻く全ての方向感覚が消失し、ただ中にあるという浮遊の感覚。それなのに不思議と“空”の流れが理解できた。理屈でなく、感覚で。まるで屑鉄製の翼が体の一部になったように、肌感覚で理解していた。大海を泳ぎ出すように、必死で動かしたその一挙手一投足が進路を決める、上下左右前方へと、思うがままに翼を操れる。
その瞬間、間違いなくテテンは空を飛んでいた。
「最初はどうなるかと思ったけど、どうやらその翼は本物みたいだな。よっし、それじゃついてきな、俺が空を案内してやる。つっても、どこまで行ったところで、ここと変わらない景色だけどな」
言って翼を羽ためかせるアザナミについて、テテンは“空”の只中へと飛んだ。
それは不思議な感覚だった。
どこまでも続く“空”。雲の波を横目に、その果てに見えるのは、テテンの知らない異世界の姿。偶然すれ違った、“空”を行く人と翼を携えた案内人である浮遊人。
どれもこれもが心を揺さぶり、テテンを魅了していく。念願の空の中で、万感の思いにこみ上げる涙をそのままに、テテンは空を感じていた。
瞬く間に時間は過ぎて、やがて二人は元の“ヨルベ”へと帰還した。上気した顔で、息を弾ませているテテンを横目に確認しながら、アザナミが口を開いた。
「どうだ? 満足したかい?」
「うん。最高だったよ」
「最高、か。それは良かった。じゃあ、これで思い残すことなく、元の世界に帰れるな」
「それは…」
たった今、散々飛行したにも関わらず、物足りなそうに口ごもるテテンの様子を見て、アザナミは小さく笑みを作る。
「帰ったら、もうここには来られないのかな?」
「さぁ、どうかな。お前さんの翼が本物で、境界を越える理へ至っているなら、また同じように“空”に来ることができるさ。けど今回の場合、その翼は本物だとしても、境界を越えたのは偶然の可能性もあるからな。正直、なんとも言えない」
「そう…」
「でも、手が無いわけでもない」
「え!」
「この境界と、お前さんの世界を繋ぐ、秘密の言葉がある…。まぁ、御呪いみたいなものけど、……教えてやろうか」
悪戯っぽく笑みを浮かべるアザナミに、テテンは瞳を輝かせ何度も肯く。
(こうも素直な反応を返されると、どうにも良心が疼いてしまうが、まぁ、それはそれだ)アザナミは小さく咳払いをして、テテンの額に手を当てた。
「お前も俺の額に手をあてろ。そして、“空”にいたい。“空”に来たいって、祈りながら俺と一緒にこの言葉を言うんだ」
テテンは素直にアザナミの額に手を置いて、そして二人は言葉を紡いだ。
「「転身乱慢」」
瞬間、立ちくらみにも似た感覚がテテンを襲った。身体中の感覚が、一点に凝縮されていくような喪失感。まるで連続で瞬きをしているように、意識がぶつ切りに途切れていく。視界が、意識が暗転した次の瞬間。まるで爆発のように急激に身体中に感覚が戻ってきて、強烈な吐き気と共に、意識が鮮明になっていく。
一体何が起こったのかと、顔を上げたテテンの視線の先に、“テテン”がいた。
「よぉ。気分はどうだい?」
「え? え?」
「俺だよ。浮遊人のアザナミだ」
若干見下ろした位置から、そう言って不敵な笑みを浮かべているのは鉄の翼を背負った小柄な少年で、その声は間違いなくテテンのものだった。もっとも、それを耳にしているテテンからすれば、聞きなれない他人の声のように聞こえていたが。
「まぁ、驚くのも無理ないわな。かく言う俺も、自分でやっといてなんだけど、若干ひいちゃってるもんな。まさか本当に成功するとは…。それにしても、うん、さすがは俺。スラリと長い足に、均整の取れた体、濁りの無い金色の長髪に、純白の翼、なんつーか完璧なんじゃないかな、もしかして?」
「アザナミさん? アザナミさんが、どうして僕の姿に……」
「あらま、これまた予想通りというか、ベタなリアクションだな。ちょいと背中を弄ってみ? 世にも美しい翼がほら、お前さんの背中に」
言われるがままに背中に手をするテテンは、自分の背中に何かがついていることに気がついた。言われてそれが翼であることに気がつく。普段より高い視界、背中に生えた翼、肩にかかっている金色の髪、その姿はつい先ほどまで一緒に空を飛んでいた、アザナミそのものだった。
「お前さん、思っただろ。心の中で、ここにいたい、と。ここに残りたい、と。俺はここを出たいと、思った。いかにも単純な図式だけどさ。これで契約成立だったりするんだよな。いつぞや案内した術者から教えて貰った、わりかし単純な術式だったんだけれど、こうまで上手くいくなんてね。俺ってば呪術の才能があるのかもな」
「どういうことなんですか?」
「つまりだな。お前さんの身体をいただいた、って話。お前さん、さんざん“空”を堪能しただろ? 俺はそれに協力したよな。世の中は持ちつ持たれつだって、どっかの世界の越境者も言っていた。いい言葉だよな本当。夢を叶えるのに協力してやったんだ。だから今度は俺の夢に協力しろ。それでこそ平等ってもんだろぅ? 俺の夢は、この足で大地を駆けること。だから、お前さんの身体をいただいた」
「そんな…」
「心配すんなって、ちょっと借りただけさ。やることやったら直ぐに返すさ。それまでその身体を貸しといてやるから、好きなだけ“空”を堪能してな。じゃあな!」
そう言って、テテンの姿をしたアザナミは“ヨルベ”から飛び降りた。何の抵抗もなく、“世界”に引かれ流れていく身体。なんとも心もとない奇妙な感覚だった。前にも一度翼を折りたたんで、“世界”の引力に身を任せて流されたことはあったが、その時とはまるで違う感覚。それが翼を持つ者と持たざる者の差なのか、アザナミの身体とテテンの身体との差なのか判断は微妙なところだったが。
(ともあれ、このままずっと流されたところで、境界は越えられないんだよな。さてと、じっくり観察させてもらったんだ。いうことを聞いてくれよ)
アザナミは、さきほどテテンがしたのと同じように、胸元の小型反応炉に鉱石をセットして制御棒を握った。大きく広がった鉄の翼が、青白い光を振りまきながら軌跡を描く。光の軌跡はアザナミの意志に従って右へ左へと自在に描かれる。
(よし、いける。“世界”に依るための身体もある。今度こそ絶対に越えられるはずだ)
「ちょっ、ちょっと待って!!」
覚悟を決め、“世界”を渡ろうと一際大きく翼を広げたアザナミの耳に、“アザナミ”の声が聞こえた。
振り返って見ると、テテンが後を追ってきていた。
けれど、それは間違っても背中の翼で飛んでいるのではない、“世界”に引かれて流されているだけだ。
「馬鹿野郎! ついてくるな! その身体じゃ境界は越えられない! このまま流されたら、迷っちまうぞ。今すぐ引き返せ! “ヨルベ”で、待ってろ!!」
しかし、もともと翼のない人間、当然のことながらテテンにアザナミの翼を扱えるはずもない。仕方なく反転して、テテンを中空で捕まえた。
「いいか、とにかく落ち着いて、ゆっくり深呼吸をしろ。それで、背中と肩の間にある筋肉を動かしてみな。そう肩甲骨あたりを動かす感じだ」
アザナミに言われるまま、テテンは背中に意識を集中する。ゆっくりと、時間をかけて、少しづつ背中の羽が動き始めた。
その時、アザナミの身体がまるで空気中に溶け出すように霞み始めた。
「! ……なるほど、案内人の導きもまた越境の条件の一つってことかい。皮肉な話だな。お前さんが追ってこなけりゃ、俺は諦めてたかもしれねぇのに。とにかくテテン。今すぐあそこに帰って待ってろ。でないと一生“空”を迷うことになるぞ」
「ちょっと、待っ……」
テテンの静止を聴く間もなく、アザナミの身体は“空”に溶け込むように消えてしまった。
残されたテテンは一人、“空”の只中で途方に暮れるのだった。