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第一話 ホークシティの“空っぽ頭”①

 魔女がいた。

 世界の片隅で、その境界を夢見てひとり涙する魔女がいた。

 彼女には望みがあった。

 たった一つの望みが。

 それを叶える為ならば、彼女は全てを犠牲にする覚悟があった。

 親しき者を、罪無き他人を、無垢なる世界を、あらゆる全てを、自分自身を、

 それは狂気だろうか?

 それは病的だろうか?

 それは最悪だろうか?

 それは災厄だろうか?

 答えは無い。

 誰も知らない。

 誰にもわからない。

 ただ彼女は知っている。

 自分の覚悟のその果てを。

 自分の望みの成れの果てを。

 それでも彼女は怯まない。

 それでも彼女は止まらない。

 全てを犠牲にして、たった一つの望みを叶えるそのために。

 夢と現世が重なるその日まで。

 彼女は決して振り返らない。





 風に乗って届く淡い旋律。言の葉の連なりに、そっと耳を傾ける。

 聞こえてくるのは風の唸り。生命の息吹、大地の軋み、うねり廻る世界の音色。

 そよぐ風はその内に全てを乗せて、“世界”の有様を耳元に届ける。

 そこは“空”だった。見渡す限りに広がる、染められ易くて繊細な、どこまでも澄んだ無色透明の世界。遠くには大きな雲塊が幾つか点在し、その周りを無数の羽影が飛び回る、それ以上何も無い“空”の、遥かその先には、蜃気楼のように薄っすらと“世界”の像が浮かび上がって見える。

 その中心で――中心というのはあくまで主観の問題になるのだが――彼は退屈そうに耳の穴に小指を捻り入れた。

 どんなに綺麗な旋律も、どれほど優美な音声も、喜怒哀楽の咆哮も。ここに生を受けて早幾年。そんなものはもはや聞き飽きた騒音としか思えない。

 彼はその場所から、溜息混じりに眼下の、遥かその先の“世界”を眺めていた。

 瞳に宿る色は比率にして羨望四に絶望六、足して表れるは物憂げなそれ。

「あ~ぁ、俺もあの場所に行きてぇな……」

(はぁ、退屈だ。あの場所でなら、きっと…)

 言葉も思考も、彼の全ては、眼下のその場所に魅せられていた。

 そんなことだから、彼は近づくその気配に気づかなかった。

「ちょっとあなた。なにをぼんやりしてんのさ」

 背後からかけられた声は、澄んだ空気を鋭く震わす凛とした女性のものだった。

 振り向き見れば、中空から見下ろす影が一つ。

 スラリとした丈長の身体をすっぽりと覆い隠すマント姿の黒尽くめ。黒い外套の切れ目から覗く上着やパンツはもちろんのこと、皮手袋に踵の薄い皮の長靴、口元をマスクで覆い、頭に巻いているバンダナまで、その全てが黒一色に統一されている。一見しただけではどこの誰かもわからない、声を聞いていなければ性別の判断も難しかっただろう。もちろんそれが狙いの装いなのだろうが、その姿はどう贔屓目に見ても不審者でしかなかった。けれどバンダナの合間から零れる淡く透き通るような銀色の髪と意志の強そうな紅い瞳が映える彼女の風体は、どことなく、怪しげというよりミステリアスという言葉の方がしっくりとくる。

「あぁ…? 誰? なんか用?」

 気だるげに瞳を細める彼の様子に、彼女は目元をヒクつかせながら嘆息した。

「あのね……。私! お客! わざわざ、あなたに声をかけてる時点で気付きなさい」

 そう言って突き出された彼女の左手首にはアッシュシルバーの腕輪がはめられていた。腕輪には幾つかの朱色の宝石と、それを取り囲むように幾何学模様が刻まれている。

 唐突に腕輪の宝石がキラリと光った。かと思うと次の瞬間、何もなかった空間に宝石と同じ朱色に輝く光の輪が現れた。よく見ると輪は、極細の光の糸が幾重にも折り重なってできていて、幾何学模様を描きながら、腕輪を守るようにその周りを回転している。

「あ~。はいはい」

 彼はそれを見止めると、冗談だよと、溜息混じりに緩慢な動作で手を差し出た。

「で? どちらまで?」

 あからさまにやる気の欠如したその態度に、彼女は目元をヒクヒクと震わせながら、それでも喉まで出掛かった言葉を飲み込んで彼の手を取り、とある一点を指差した。

「あそこに行きたいの」

 そう言って示した先は、今の今まで彼が眺めていた“世界”だった。

「へー……」

「……なによ?」

「いや……、んじゃ、さっさと行きますか」

 彼は背中の翼をのんびりと広げると彼女の手を引いて、その場所、遥か彼方に広がる“世界”に向かって移動を始めた。

 翼。

 そう、彼の背中には純白の大きな翼があった。

 それはこの“空”で生きるための翼。世界を渡るための翼だ。

 端から見ている者がいたなら、どこまでも同じ景色の広がるこの場所を移動する彼らの姿は、同じ場所でただ姿勢を変えただけのようにしか映らないだろう。手を取る彼女ですら、本当に移動しているのか確信が持てないでいた。ただ、はためく黒い装束とその隙間を縫って肌を撫でる外気の感触が、彼女のそんな考えが妄想に過ぎないことを主張している。

「ねぇ、まだなの? 私急いでるんだけど」

「は~い、よ」

 急かす彼女に、生返事を返して翼を広げ、と、途中彼は急に動きを止めた。

 慣性の働きそのままに宙に放り出されそうになった彼女は、慌てて彼の手を両手で握りこんだ。抗議しようと顔を向けると、そこでは子どものように瞳を輝かせ、満面の笑みを浮かべている上気した顔が覗きこんでいた。ただし、子どものようなその笑みは、天真爛漫なそれではなく、悪戯を思いついた無邪気な悪意を孕んだそれだったが。今までのだらしの無い表情とのギャップに、訝しげに眉を顰める彼女を楽しげに見ながら、彼は満を持してという風に言葉を溢した。

「なぁ! あんたさ。俺を一緒に連れてってくれないか?」

「……はぁ?」

「だから! 俺も一緒に! あんたと一緒に、行きたいって言ってんの」

 初め、何を言っているのかと、キョトンとしていた彼女の赤い瞳に、彼の言葉の意味を理解していくに連れ険悪な色が宿っていく。

「あ…あなたね。案内人でしょ? そんなことできるわけ無いじゃない」

「できるさ。あんたとなら、その越境の印を持つあんたとならね」

「本気で言ってんの? そんな話聞いたことないわよ。そんなこと許されるわけが無いじゃない。全く信じられない。さっきからの態度といい、ただの越境者である私が言うのもなんだけど、あなたは少し、浮遊人としての自覚が足りないんじゃないの」

「あぁぁ……ったく、ごちゃごちゃうるせぇな。別にあんたに迷惑かけるつもりはねぇよ。ただ一緒に連れてってくれるだけでいいんだ」

「それが既に迷惑なのよ!」

「あ、そ。だったら、俺はここから動かねぇ」

「そんな……」

「いいのか? 俺が動かなかったら、あんたは “世界”を渡れないぜ。もう巣からは随分離れちまったし、今から他の浮遊人を探してたら、一体どれだけ時間がかかることやら。未開の“世界”へ降り立つ禁。その免罪符をチラつかせるあんただ。相当急いでるんだろう?」

 そう言って、厭らしい笑みを浮かべる彼に、険しい視線が突き刺さる。けれど彼は、その双眸の奥に、明らかな感情の揺らぎを見取っていた。

(これならもう少し粘れば、なんとかなりそうだな)

 その考えを裏打ちするかのように、初め険しかった彼女の瞳は、次第にキョロキョロと落ち着き無く泳ぎだし、不安の色を帯びていった。

 意図的に性別や感情を秘匿するような装いをしているわりに、彼女の情緒の変遷は尽く筒抜けだった。目は口ほどに物を言う。というよりは、彼女の場合は根本的に感情を隠すのが下手なのだろう。それ故に、過剰なまでに怪しい身装をしているのかもしれない。

 そうした自身の動揺が筒抜けなのを知ってか知らずか、しばらくの間あれこれと迷いに迷っていた彼女は、しかし終にはあきらめたように嘆息を漏らした。

「いいわ。わかった。あなたの言う通りにするよ」

「よっしゃ! 契約成立ってことで」

「で、私は何をすればいいわけ? 時間が惜しいんだけれど」

「そうだな、そいつを使ってくれたら手っ取り早いんだが」

「嫌よ! なんでこんなことに貴重な力を使わなくちゃいけないのよ」

 慌てて左腕を後ろに回す彼女に、さすがにそこまで高望みできないか、と思案する。

「ま、仕方ないか。……さっきも言ったけど。あんたはただ、俺と一緒に境界を越える。そう頭で考えてくれるだけでいい。俺を同行者と認めるんだ。他のことは一切考えるな。ただそれだけを考えておけばいい」

「……わかった」

 彼女はいかにも嫌々といった風に瞳を閉じると、唸るように頷いた。

「よし。んじゃ、今度こそ行っくぜ!」

 彼は彼女の手の甲に気障ったらしくそっと口付けると、再び中空を、眼下の“世界”に向けて降下し始めた。

 先ほどまでとは段違いのスピード。

 風を切り、髪を逆巻かせ、翼を背面にピンと伸ばし、彼等は“世界”へ向けて飛ぶ。

 撫でるようだった風が、いまは荒々しく彼女を攻め立ててくる。熱くも冷たくも無い空気の層を突き破る衝撃の、想定外の激しさに彼女は思わず瞳を閉じていた。

 そうしてどれだけの時間降下したのか。けれどもやはり、先ほどまでと同じく一向に“世界”との距離が狭まる気配はない。

 ただ中空を下方に向けて、飛行しているだけ。けれどその方向も本当に下方なのか? “空”の中にいては、その実感さえもが疑わしく思えてくる。

 “空”はどこまでも代わり映え無く、そこにあるのだから。

 しかし変化は訪れた。

 唐突に、彼女の身体が滲み始めた。まるで染料が水に溶けていくように、彼女の姿が無色透明な“空”の中に溶けていく。

「な! おい待てよ!! 俺も一緒に連れて行けって!!」

 彼は掴んだ手に力を込める。が、彼女の手は何の引っ掛かりも無く彼の手をすり抜けてしまい、掴むことはかなわなかった。

「やっぱり無理だったみたいね。とりあえず、ありがとうって言っておくわ。あなたもくだらないこと考えてないで、もう少し真面目に仕事しなさい」

 そう言ってウインク一つ残して、次の瞬間には、彼女の身体は完全に“空”の中に溶け込み消えてしまった。

 “空”の只中には一人、彼だけが残された。

 初めから、この結末は予想できていた。

 どうせこうなると思っていた。

 なぜならこれが普通なのだから。

 所詮はこんなもんだ。

 抗おうなんて、ばかげた発想だったのかもしれない。

 それでも。

 それでも、

 それでも、だ。

 例えそれが奇跡的なことだとしても、四っつばかりの羨望が、彼を突き動かすのだ。

 例えそれが叶わなかったとしても、己を締める六っつばかりの絶望が、彼を動じさせないのだ。

 最後の抵抗のように、彼女が辿り着くであろう“世界”の姿を瞳に焼き付けて、彼は上昇を始めた。

 何も、特別なことではない。

 これが彼の、浮遊人である彼らの生き方であり、その日常の風景の一コマなのだから。

「くだらなくなんか、ねぇよ……」

 それでも、やっぱり悔しくて、

「っざ、けんなコンチクショーー!!」

 力いっぱい張上げた彼のその咆哮は、どこまでも広がる“空”の中に沁みこんでいく。

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