コミックス①巻発売記念SS『重陽』
2026年10月2日(金)、コミックスが発売となります!
中国には『重陽節』という行事があり、その日に菊花茶を飲む風習があるそうです。
ちょうどコミックスの発売時期が秋ということもあり、「これはぴったりだ!」と思って今回のSSを書いてみました。
菊花茶と菊花、そして少しだけ甘い夫婦のひとときを楽しんでいただけたらうれしいです。
その日の政務を終えた頃には、すっかり日が傾いていた。
香樹は筆を置き、ふうっと息を吐く。
今日だけでも決裁書は山のように積まれ、地方からの報告が相次いだ。
執務室を出ると、廊下を行き交う臣下たちが足を止める。
「陛下」
頭を下げる姿には、敬意と同時にいつもの緊張感がしっかり混じっていた。
なにせ、「冷酷無比な白蛇陛下」なんて呼ばれている男だ。仕方ない。
香樹は慣れた様子でその横を通り過ぎる。
(菊花とは大違いだな)
菊花は、出会った頃から今に至るまでずっと変わらない。
皇帝としてではなく、ただの香樹として向き合ってくれる。
その事実を思い出すだけで、香樹の口元は自然と緩んでしまうのだった。
向かう先は、後宮の奥にある菊香殿。
最愛の妻が待つ場所だ。
戸を開けた瞬間、ふわりと上品な花の香りが鼻をくすぐる。
「おかえりなさい」
振り返った菊花が、やわらかく笑った。
その声を聞いただけで、一日の疲れが薄れていく気がする。
菊花は窓辺で茶器を並べているところだった。
「菊花茶を用意したの。ちょうどいい頃合いよ」
そう言って差し出された茶碗を見て、香樹は珍しく動きを止めた。
「……どうかした?」
「いや」
答えながらも、茶碗を見つめたまま動かない。
菊花は首をかしげた。
「飲まないの?」
「飲む」
そう答えたものの、香樹はしばらく茶碗を見つめていた。
そして諦めたように小さく息を吐く。
「お前の名を飲むようで、落ち着かない」
香樹の視線を追った菊花が、ふっと吹き出した。
どうやら意味に気づいたらしい。
「お茶はお茶だよ?」
「そうだな」
「私じゃないのに」
「わかっている」
自分でも理不尽だとは思う。
だが、気になるものは気になる。
菊花はくすくす笑いながら急須を手に取った。
「秋の菊って、香りがすごくいいんだから」
お湯を注ぐ手つきは丁寧で無駄がない。
「火が強すぎると苦くなるし、蒸らしすぎてもダメ。少し待つくらいがちょうどいいの」
「おまえらしいな」
「そう?」
「手間を惜しまないところが」
香樹は目を細めて、差し出された茶碗を受け取った。
口をつけると、ほのかな甘みと花の香りが口いっぱいに広がる。
「おいしい」
「よかったぁ」
その笑顔を見ていると、肩の力がふっと抜けていく。
皇帝としての顔を求められる時間は長い。
だからこそ、この静かでやさしい時間がたまらなく愛おしかった。
窓の外では秋風に揺れる菊が夕陽を受けてきらきらと輝いている。
「そういえば」
香樹は茶碗を眺めながら言った。
「菊は、高潔や長寿の象徴だと聞いた」
「うん、そうみたいね」
「お前の名にぴったりだ」
菊花は少し照れくさそうに目を伏せた。
「そんな立派なものじゃないよ……」
「いや」
香樹は即座に否定する。
「お前以上に相応しい者なんて、私は他に知らない」
菊花の耳たぶが、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
こういう言葉には弱いらしい。
慌てて話を逸らすように、菊花は香樹の茶碗をちょんとつついた。
「冷めちゃうから……!」
「そうだな」
香樹はくすっと小さく笑って、再び茶を口に運ぶ。
「菊花茶は好き?」
香樹は迷いなく答えた。
「ああ、好きだ」
「っ……お茶の話、よね?」
「さぁ、どっちだと思う?」
問い返した途端、菊花がぴたりと固まった。
視線が泳ぎ、手にした茶碗へ逃げるように落ちていく。
耳だけでなく頬まで真っ赤だ。
そんな妻の様子を見て、香樹は満足そうに目を細めた。
そこには冷酷無比な白蛇陛下の面影など欠片もなく、ただ愛おしい妻を見つめる男がいるだけ。
やがて菊花も観念したように、小さく息をついて茶碗を持ち上げる。
「じゃあ」
「ああ」
二人は静かに杯を掲げた。
「無事に一年を越えられますように」
重陽の節句の願いを込めて。
あたたかい茶の湯気が、秋の空へ溶けていく。
その隣で笑う菊花を見ながら、香樹は思う。
菊が長寿の象徴なのだとしたら。
来年も、その次の年も、今日と同じようにこうして菊花と茶を飲めればいい。
もっとも――。
(やはりお前の名を飲むのは、少し落ち着かないが)




