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第三十八話 桜桃

   飛び込むようにして厨房へやって来た菊花(きっか)を待っていたのは、腕輪ほどに小さくなった香樹(こうじゅ)の兄だった。


 父である蛇晶(じゃしょう)帝は蛇であるにもかかわらず一部の人間と会話できるが、香樹の兄はサイズを自在に変えられるらしい。

 鎌首をもたげて警戒するように出入り口を見つめる蛇に促されるように、菊花は扉と窓をしっかりと施錠した。


 いつどこで、何をされるか分かったものではない。必要過多なくらい用心せよと、香樹(こうじゅ)から言い渡されている。

 しっかりと厨房を密室にしてから、菊花はリリーベルから贈られた白いエプロンをつけた。

 ()の国では、フリルがついたエプロンは新婚夫婦のお嫁さんの定番らしい。


「まだ、嫁じゃないけどね」


 照れ隠しに蛇の頭をチョンと突くと、抗議するように舌をピルピルされる。

 笑って謝りながら、菊花は作業に取り掛かった。


 アフタヌーンティーのメニューは、戌の国ではわりとよくある内容になっている。

 きゅうりをパンに挟んだサンドイッチにクッキーやケーキ。スコーンにはジャムとクリームを添えて。


 もともと食べることが好きな菊花だ。美味しいものを作ることも、大好きである。

 嬉しそうに鼻歌を歌いながら、菊花は手早く準備を進めていった。


 今回作るものは、リリーベルが王妃である義母から教わったという王家伝統のレシピだ。

 義母から嫁へと伝えられてきた、王族に嫁いできた者にしか教えてもらえない特別なもの。

 それをなんと、菊花は教えてもらうことができたのである。


 こんなこと、通常ではあり得ない。

 本来は王家に嫁いできた者にだけ教えてもらえるものなのだが、菊花は香樹が選んだ娘ということで、やすやすと公開してくれたのだ。


 リリーベル曰く、王妃は天涯孤独の身の上である菊花をすごく心配していて、「リリーベルが姉ならば、わたくしは母……はおこがましいので、おばと思って頼ってほしい」と言ってくれたのだとか。

 その隣で国王が涙を流して王妃を「女神のようだ」褒め称え、飛びつかんばかりに褒め称える夫に、王妃は「ステイ」と叫んでいた──とリリーベルの夫からの手紙には書いてあったらしい。


 その話を聞いて、菊花はなるほどと頷いた。

 もっとも、さすがに隣国の王妃様をおば扱いするのは気が引けて、丁重に断ったのだけれど。


 リリーベルが言っていたように、獣人やその伴侶たちは、菊花に優しい。

 いつか恩返しせねばと意気込んでいたら、リリーベルは「いらないよ」と笑って答えた。


「獣人に番が見つかることは、喜ばしいことだ。中には、一生見つからない場合もあるからね。だから、協力するのも当たり前。そう難しく考えないで。そうだな……いつか、菊花の力が必要になる時がくるかもしれない。その時は、私や義母がそうしたように、菊花も協力してほしい。それが、恩返しになるのだから」


 私の時もね、いろいろな人が助けてくれたのだよ。

 言いながら、リリーベルは菊花の隣でクツクツとジャムを煮ていた。


 赤い林檎は皮と一緒に煮ると、黄色の実が淡い赤色に染まってとても綺麗だ。

 それに、林檎の赤は香樹の目を思い出させる。

 菊花は迷いなく、たくさんあった果物の中から林檎を選んだのだった。


「思い出し笑いしている暇があったら、どんどんやっていかないとね!」


 やることはいっぱいである。

 なにしろ、パンを焼いたりジャムを煮たりするところから始めなくてはいけないのだ。


 正妃になるのは菊花だと、香樹の中で決まっているのだとしても。

 やはり菊花としては、全力で試験に臨みたい。


(正々堂々戦って、(こう)珠瑛(しゅえい)に勝つ!)


 菊花の気持ちは、きっと香樹に伝わるはずだ。

 自分ができる精一杯で、香樹を喜ばせよう。

 冷たい横顔が解ける瞬間を想像して、菊花はむん! と気合いを入れた。


 窯からパンの香ばしい匂いが漂う。

 焼き立てのそれを窯から取り出し、代わりにスコーンを入れる。そうかと思えば、鍋の中身をかき混ぜてーーと、時間はあっという間に過ぎていった。


 サンドイッチに、クッキーやケーキ。スコーンにはジャムとクリーム。

 ようやっと完成した料理を前にして、菊花は仁王立ちして得意げにうなずいた。


「これは……満身の出来だわ!」


 あとはこれを会場へ持って行って、三段重ねの皿に並べ、紅茶を準備したら完成である。

 満足げに息を吐いたのとほぼ同時に、銅羅(どら)の音が遠くで響いた。

 準備時間終了まであと半刻(いちじかん)、という合図である。


「いけない! そろそろ着替えをしないと間に合わないかも」


 でき上がった料理を、持ち運びできるように箱に入れる。

 毒なんて入れられたらたまったものではないから、着替えの時も手放したくない。

 倒れないように気をつけながら、菊花は箱を持ち上げようとした。と、その時である。


 コンコンコン。


 施錠していた厨房の戸が、叩かれた。


「菊花様? そこにいらっしゃるのでしょう?」


 聞こえてきた声は、桜桃(おうとう)のものだった。


(どうして、桜桃がここへ……?)


 身構える菊花の気配を察したのか、少しの間を空けて、桜桃が再び声をかけてくる。


「あの、私、謝りたくてここへ来たの。あなたには、随分と嫌なことをしてしまったでしょう? きっと私は、最終選考で落とされるから……だからせめて、悔いだけは残さないように、謝る機会をくれないかしら?」


 桜桃は、涙声だった。

 彼女が心から後悔しているように思えて、菊花は扉へ近づく。


「本当に、そう思っているの?」


「私のわがままだって、分かっているわ。でも、お願い。そうしないと私……。私ね、妃に選ばれなかったら、別の人と結婚することが決まっているの。相手は、すごく年上で、私は後妻。お金には苦労しないだろうけれど、幸せとは言い難いと思うわ。だからせめて、あなたのことだけはちゃんと終わりにして、気持ちよく嫁ぎたいの。お願い、菊花様。私に、機会をちょうだい」


 桜桃はしゃくり上げながら、そう言った。

 聞いている菊花の胸が締め付けられるような切ない声。

 だから菊花はつい絆されて──扉を、開けてしまった。


 開いた扉の先に居た桜桃は、目に涙なんて浮かべていなかった。

 菊花を見るなり、「やっと出てきた」と無機質な硝子玉のような目でにらみつけてくる。


「遅いのよ、あなた。さっさと出てきてくださる? 私だって、暇じゃないの」


 菊花は反射的に、くるりと(きびす)を返した。

 後ろは厨房で、外へ逃げる道は窓しかない。

 調理台の上に置きっぱなしになっていた鍋を掴んで、なんとか武器を確保する。


 だけれど、それも無駄だった。

 桜桃の後ろから出てきた男にあっという間に捕まって、菊花は床へ引き倒された。


「うぅっ!」


 逃げようともがく菊花の前に、桜桃はしゃがみ込んだ。

 桜桃の手には香炉があって、彼女は煙が立ちのぼるそれを菊花の目の前に置く。

 気持ち悪いくらい甘ったるい匂いが、菊花の鼻に届いた。


 嫌な予感しかしなくて、菊花は匂いを嗅がないように顔を背ける。

 だが、男が背を押さえつけてくるせいで胸が苦しく、耐えきれずに吸ってしまう。


 甘い匂いが、意識を奪い去っていく。

 朦朧とする菊花に、桜桃は楽しげにささやいた。


「あなたを捕まえて引き渡しさえすれば、蘭瑛(らんえい)様が私を後宮に残してくださるのですって。後宮に残れれば、こっちのもの。珠瑛様が正妃だとしても、陛下の子を身籠もれば……私にだって好機(チャンス)はある


 桜桃の声が、ぐわんぐわんと頭に響く。

 足首に感じたヒヤリとした温度を最後に、菊花の意識は底へ底へと沈んでいった。


読んでくださり、ありがとうございます。

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