第二十七話 交流
しばらく歩いて、香樹は菊花の部屋の前で止まった。
両手がふさがっている香樹の代わりに、菊花が扉を開ける。
私物なんてほとんどない、飾り気のない部屋。
机の上に置かれた小さな置物に気付いた香樹は、あいさつするようにペコリと頭を下げた。
なんでもないことのように。それが当たり前のことだというように、自然と。
「あ……」
誰がどう見ても、価値なんてない小さな置物。
珠瑛たちでさえ、気にも留めなかったそれに、香樹は気付いてくれた。
そのことがどうしようもなく、菊花は嬉しかった。
だってその置物は、菊花の父であり、母だったから。
「ありがとう、香樹」
「礼を言うようなことではないだろう」
「でも、嬉しかったから」
「そうか」
寝台の上に、恭しく下ろされる。
菊花の目の前で、香樹はひざまずくように座った。
部屋の中に蝋燭はあるけれど、ついていなかった。
今夜は満月のはずだけれど、雨雲が隠してしまっている。
薄暗い中、香樹の深紅の目が菊花を見据えた。
「菊花」
名前を呼ばれる。
たったそれだけなのに、菊花の胸はドキリと脈打った。
(言われ慣れていないせい?)
胸を押さえて息を潜める菊花の手を取った香樹は、無表情だった。
その顔からは何も読み取れなくて、菊花は不安そうに彼の名前を呼ぶ。
「香樹?」
「……どうして逃げなかった?」
怒っているような、何かを我慢しているような、静かで低い声だった。
幼子を叱る母親のように、香樹の両手は菊花の手を掴んでいる。
赤い目が、責めるように菊花をにらんだ。
「逃げたく、なかった、から」
香樹が責めるのも、分からなくはない。
しかし菊花だって、彼女なりの理由があってそうしたのだ。
悪いことなんてしていないと、菊花は対抗するように香樹をにらみ返す。
「赤先生は、逃げろと教えなかったか?」
「教わったけど……でも私は、そんな事できない」
「なぜ?」
(なぜ、なんて。そんなの、決まってる)
「だって私は、香樹のお母さんだもの」
菊花は掴まれていた手で、香樹の手を握り返した。
いつもなら冷たいはずの手が、今日は菊花よりもあたたかい。
「お母さんって、そういうものなのよ。子どものためなら、身の危険も顧みないの」
「そうか、母か」
香樹は、笑った。
美しい人が笑うとこんなにも綺麗なのかと、菊花は感動を覚えた。
どんなに風光明媚な風景も、彼の笑顔には敵わない。
それくらい、香樹の笑顔はとんでもない破壊力があった。
「そう、母よ」
わかってくれたか、と菊花も笑い返す。
ニコニコ。ニコニコ。
笑い合う二人ーーだが、それも少しのこと。
なぜだか香樹は菊花の手を持ち上げて万歳をさせて、そのまま体重をかけてきた。
菊花に覆い被さるように、香樹が寝台に上がる。
二人分の体重を受けて、寝台がギシリと音を立てた。
「あれ?」
「なんだ」
「どうして、私は押し倒されているの?」
両手を一括りにされて、頭上で縫い止められる。
そんなことをしなくても逃げたりしないのに、と菊花は不思議に思った。
「さぁて、どうしてだと思う?」
「眠たいの?」
「そうだな、それもある」
「えっと、じゃあ、寝る?」
「そうさせてもらおう」
香樹の顔が、菊花の顔に近づいてくる。
いつもなら、後ろから抱きついて首筋に顔を寄せて眠るのに、どうして今夜に限って違うのだろう。
不思議に思って見つめていると、香樹の顔がどんどん近づいてくる。
香樹は、それまで菊花が見たこともないような顔をしていた。
抜けるように白い肌をうっすらと上気させ、熱っぽく目を潤ませている。
彼の紅玉のような瞳には、仄暗い炎のようなものが揺らいでいた。
「香樹」
「なんだ」
「顔が近い」
「こういう時は目を閉じるものだと習わなかったか?」
「房中術では、そうだけど。でも、私はお母さんだから、関係ないでしょう?」
香樹の目の揺らぎが大きくなる。
だがそれも一瞬のことで、すぐに仄暗い炎に取って変わった。
そうだ。菊花は母のような気持ちで香樹を想っている。
だから、房中術なんて関係がないはずである。
ケロリと答える菊花に、香樹は呆れたようにため息を吐いた。
それから「まだそんなことを言っているのか」と口の中でボソボソつぶやく。
「なぁ、菊花。私とおまえは、本当の親子ではない。だから、本当の親子のようになるためには、普通の親子以上に密な接触が必要だと私は考えるが……どうだろうか?」
香樹の提案に、菊花はなるほどとうなずいた。
だって、本当にその通りだと思ったからだ。
(香樹と私は幼馴染みで親友であたため係だけれど、本当の親子じゃない。さっきのため息も、きっとなにか不足があって呆れてのことなんだわ。それなら私は、香樹が望むように、普通の親子のようになるために要求を飲むべきなんじゃ……?)
それに、香樹と菊花には離れていた期間もある。
埋めるためには、より一層仲良くする必要があるだろう。
香樹の本心も知らず、うぶで無知な菊花は「それもそうね」と答えた。
「その言葉、忘れるなよ?」
言質はとったからな。
そう言った香樹の目は、まるで獲物を前にした蛇のように、意地悪で、楽しそうな色をしていた。
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