第十八話 嫉妬
ザァァァァ!
「わっぷ!」
ザァァァァ!
「んぶぅ!」
湯殿に張られたお湯に桶を突っ込み、掬った湯を容赦なくぶっかけられる。
その一連の動きに、容赦など微塵もない。
一刻も早く、済ませなければ。
そんな焦りが、見えるような見えないような。
香樹に抱えられて一度は寝所へ行った菊花だったが、今は湯殿にいた。
なぜなのか。
菊花にはよく分かっていないが、香樹の方には立派な理由がある。
それは、寝所で起こった。
菊花のことを抱き枕よろしく抱きかかえた香樹は、彼女の首筋に顔を寄せたところで顔をしかめた。
その表情は、猫が臭いものを嗅いでしまった時のような、間抜けなものだったと後に菊花は言う。
「おい、に……菊花」
「今、肉って言いかけましたよね? いい加減、名前で呼んでくださいよ」
(何回言っても、肉って言うんだから。いつになったら菊花って素直に言ってくれるのかしらね?)
菊花がむくれていると、背後から不穏な空気が漂ってきた。
皇帝陛下を相手に口が過ぎたかと焦る菊花に、香樹の低い声が「そんなことより」とささやく。
「私は今、非常に不愉快だ。どうしようもない衝動が、身の内に渦巻いている」
物騒な言葉に、菊花は震え上がった。
(や、ややややややっぱり、調子に乗り過ぎていた!?)
親友とはいえ、相手は皇帝陛下である。
さすがに礼を失する態度だったかと、菊花は慌てた。
怖いもの見たさで少しだけ背後を振り返ると、爛々と光る赤い目と目が合う。
人間離れした獰猛さを宿すその目は、菊花をじっと見ていた。
(目が、離せない)
見るんじゃなかったと後悔しても遅い。
一度目が合ってしまえば、もう逃げることなどできなかった。
「早急に、その匂いを消させろ」
言うなり、香樹は起き上がり、菊花を抱え上げた。
香樹は細い体をしているのに、通常の女性よりも少しばかり重い彼女を、軽々と持ち上げる。
「え? 匂い?」
てっきり、自分の言動のせいで香樹が怒ったと思っていた菊花は、彼の言葉にきょとんとした。
それからボッと火がつくように、ほおが赤らむ。
「私……臭かった?」
菊花だって女の子である。
美人の、それも男に臭いと言われたら気になるし、恥ずかしい。
あたため係として粗相がないよう、きちんと体は清潔にしているつもりだった。
毎日湯につかるなんて、後宮に来るまでなかった習慣である。
だから以前よりも随分と身綺麗になっているはずなのだが、何がいけなかったのだろう。
しょんぼりと顔をうつむける菊花に、香樹は「そうではない」と怒ったように言った。
「おまえが臭いわけではない。おまえからあの男の匂いがする。私はそれが、我慢ならないのだ。だから早急に、その匂いを洗い流したい」
どうやら菊花に紫詠明の匂いが移っているらしい。
香樹はそれが、気に入らないようだった。
(ああ、もしかして……)
菊花の匂いだけではないから、怒っているのだろうか。
(よく聞くわよね、赤ちゃんはお母さんの匂いに安心するって)
幼い頃から、菊花の服の中で越冬していた香樹である。
慣れ親しんだ菊花の匂いに別の匂いが混じっていたら、気になって眠れないのだろう。
菊花は勝手に、そう解釈した。
まさか香樹が、自分の番である菊花に他の男の匂いがついていることに腹を立てているとは、思いもしない。
そうこうしているうちに湯殿へ到着し、菊花は寝間着のまま床に下ろされた。
香樹が出ていくのを座って待っていた菊花の前で、彼は桶で湯を汲むと、迷うことなく彼女の頭の上でひっくり返す。
ザァァァァ!
容赦なくかけられる湯に、菊花は文句を言う暇もない。
髪やほおを伝って、湯が寝間着を濡らす。
目に入った湯が気持ち悪く、菊花は何度も目を擦った。
「も、やめ……!」
湯に濡れた寝間着が、ぺったりと肌に張り付く。
薄いそれは少し透けて、菊花の体をぼんやりと浮かび上がらせていた。
それがとんでもなく恥ずかしくて。
菊花は必死になって腕で隠そうとしたが、隠したいところが多すぎて困り果てた。
散々湯をかけたあとは、庶民には手の届かないせっけんをぜいたくに泡立てて体を洗われる。
ゴシゴシと容赦なく洗ってくる手は、力任せでぎこちない。
当然だろう。彼は洗ってもらうことはあっても、洗うことなんて初めてなのだから。
菊花は、生まれて初めて、焦げた鍋の気分を味わった。
ザァァァァ!
泡まみれの体に再び湯をかけられる。
泡を全て流して、濡れ鼠ならぬ濡れ子豚のようになった菊花を見下ろした香樹は、ようやく満足したらしい。彼は達成感に満ちた顔で「ふぅ」と息を吐いた。
(やっと終わった)
ホッと安堵したのもつかの間、しゃがみこんだ香樹が菊花の首筋に鼻を寄せてくる。
クンクンと匂いを嗅がれて、菊花はピシッと硬直した。
もう何度もされていることなのに、今更恥ずかしくなるのはなぜなのか。
今までと違うのはなんだと考えて、ふと目に入ったものに「ぴゃっ」と声を上げた。
雨も滴るいい男……ならぬ、湯も滴る美貌の男がそこにいる。
ほんのりと上気した肌から、彼の匂い立つような色香がにじみ出ているようだ。
「うっっ!」
菊花はもう、限界だった。
暴力的なまでに美しい男を正面から見てしまい、菊花は目を回す。
グラリと傾ぐ菊花を片手で受け止めた香樹は、ついでとばかりにやわらかなわき腹を揉んだ。
「ふむ。この程度で目を回すか。先が思いやられるな」
独り言ちると、香樹は悩ましくも楽しげなため息をついたのだった。
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