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第十六話 誘拐

「んん……?」


 真夜中のことである。

 登月(とうげつ)柚安(ゆあん)を見送った菊花(きっか)は、明日の予習をしてから宿舎の寝台(ベッド)で眠りについたはずだった。


「あれ?」


 ふと目覚めると、香を焚き染められた柔らかな寝台(ベッド)ではなく、懐かしい藁の匂いが鼻についた。


(もしかして、今までのことは全て夢だったのかしら?)


 登月に宮女候補として推薦してもらったことも、珍しい都の風景も、後宮も女大学も、全て。

 それにしては随分長い夢だったなと思いつつ、菊花は伸びをしようと腕を上げた──つもりだったのだが。


「な、なんで?」


 手も足も、動かない。菊花は、少し動くだけでギチギチと音がするくらい、頑丈な紐で念入りに拘束されていた。

 芋虫のような動きしかできない状態で、菊花は粗末な寝台に転がされているらしい。


 どうにか抜け出せないかと、悪足掻きするみたいに頑張ってみたけれど、幾重にも巻かれた紐は、緩むどころかますます菊花の体に食い込んだ。


「いてて……一体、誰がこんなことを?」


 見回してみても、知らない室内がそこにあるだけだ。

 なんとか冷静になろうと頭を振って考えてみても、思い当たることなんて一つしかない。そう、珠瑛(しゅえい)である。


「これも、嫌がらせの一環かしら」


 だとすれば、もうじき彼女の取り巻きが現れるかもしれない。

 紅葉(こうよう)氷霧(ひょうむ)桜桃(おうとう)の三人は、珠瑛のためなら菊花を拘束するくらいのことは平気でしそうだ。


(きっと、高笑いしながら私を馬鹿にするのでしょうね)


 その情景がありありと浮かぶようだと、菊花は苦笑いを浮かべた──その時である。


 部屋の隅の、暗闇がより濃い所から音がする。

 目を凝らしたその先に、人影のようなものが見えた。

 凹凸が少ないすっきりとした輪郭は、女のものではない。


(じゃあ、一体、誰なの?)


 珠瑛でも、取り巻き三人娘でもない。

 印象的なでっぷりとした腹がないから、落陽(らくよう)でもない。


 もっとよく見ようと体を(よじ)る菊花に、影は笑った。


「嫌がらせじゃありませんよ」


 影が動く。

 月明かりに照らされて、影の足先が見えた。

 上等そうな革靴(ブーツ)だ。


「ふふ。私です」


 聞いた覚えのあるような、ないような声。

 菊花は見定めるように、息を潜めて影をにらみつけた。


 ゆっくりと月明かりの下に出てきたのは、一人の男だった。

 黒い髪に、黒い目。()の国ではありふれた色。


 ニタニタと笑う顔には、見覚えがある。

 もっとも、菊花が見た時は、恐怖で歪んでいたのだけれど。


「覚えていらっしゃいますよね? 私のこと」


 忘れるわけがない。名前は知らないが、菊花はその男を見知っている。


「あなたは……」


「俺の名は、()詠明(えいめい)。菊花様、先日はどうもありがとうございました」


 気障ったらしくあいさつをしてきた男は、菊花が以前、香樹(こうじゅ)から助けた男だった。

 皇帝陛下のあたため係のうわさの発端となった、あの件の男である。


「あの時の」


「覚えておいででしたか? 嬉しいですねぇ」


 忘れようにも忘れられない。

 最悪な出会いだったと思う。

 少なくとも菊花は、再会を喜ぶ気持ちは一切なかった。


(貴族様の考えることは、私には難しいわ)


 だが、今はそれについて聞いている場合ではない。

 菊花には、聞きたいことが山ほどあるのだから。


「ところで、その……ここはどこなのでしょうか? どうして、私は縛られているのですか?」


 菊花の問いかけに、男はニタァリと笑んだ。

 なぜだかそれが菊花には唇が裂けたように見えて、思わずヒュッと息を飲む。


「菊花様。あなたのおかげで、俺は無事に生き存えております」


 男は、菊花の問いを無視した。

 悦に入ったような恍惚(こうこつ)とした表情を浮かべ、菊花のそばへ一歩近づく。


「でもねぇ……それだけじゃあ、足りないのですよ。俺は、こんな地位におさまるべき男じゃない。もっともっと上へ行って、豪奢遊蕩(ごうしゃゆうとう)な暮らしをするべき男なのです。そう思いませんか? 菊花様」


「さぁ、どうでしょう? 私は、あなたのことをよく知らないので」


 菊花は、縛られてままならない体を捻って、ジリジリと後退した。

 簡素な寝台の上なんて、逃げ場などないに等しい。菊花の背中はあっという間に壁にくっついてしまった。


「おや、つれないことを言いますね。あなたは、皇帝陛下から俺を助けてくれたではないですか」


「誰だって、目の前で死なれるのは寝覚めが悪いでしょう?」


「そうですね。でも、あの場では誰も俺を助けようとはしてくれなかった。あなただけが、俺を助けてくれました」


(あぁ、そうね。感謝しているなら、今すぐこの縄を切って部屋に帰してもらいたいわ)


 男は寝台のそばでひざまずくと、芋虫のように転がされている菊花を見つめた。

 その目は黒色をしているはずなのに、菊花の目には、汚泥のような色をしているように感じられる。


「だから、ね?」


(なにが、だからね? よ)


 ちっとも意味が分からない。

 男は菊花が質問しても何一つ答えてくれないし、好き勝手に捲し立ててくるだけ。


(これだから、貴族様は……)


 これまで珠瑛たちにされてきた数々の嫌がらせも思い出し、菊花はだんだん腹が立ってきた。


(黙っていれば、なんなの? 好き勝手してくれちゃって。誘拐、監禁、その上、意味不明な演説……いくら私が庶民だといっても、やって良いことと悪いことがあるわ!)


 憤慨する菊花に、男は貴族らしいお綺麗な顔を奇妙に歪めながら、ささやいた。


「菊花様。どうか、あなたから皇帝陛下へお願いしてくれませんか? 紫詠明の地位をもっと上げるように、と」


 その瞬間、菊花の頭の中でブチリと音がした──のだと思う。


「うるさぁぁぁい!」


 男の言葉を遮るように、菊花は怒鳴った。

 至近距離から大声を聞かされて、男は耳を押さえて飛び退く。


「っ! 庶民風情が。こっちが優しくしてやっているからって調子に乗るなよ!」


 月明かりに照らされた男の目は、血走っていた。

 その手には、ギラギラと光る小刀が握られている。


(あ、やっちゃった)


 菊花は瞬時に青ざめたが、もう遅い。

 瞳孔が開いた目が菊花を捉え、刀の餌食にしようと迫ってくる。


(はく)!)


 脳裏に浮かぶのは、意地悪そうにクツクツと笑う香樹の顔。

 それから、菊花のおなかの肉をつまんでは、眠そうにとろけた顔をしているところ。

 白蛇の彼との方が長いのに、思い出すのはなぜだか人間になった白ーー香樹の方だった。


「菊花様は賢明でいらっしゃるから、お分かりでしょう? もし、ここで否と言えばどうなるかなんて、ねぇ?」


 男の手に握られたものが、月光を浴びて不穏な光を反射する。

 男の持つ小刀は短いが、それでも菊花の命を終わらせるには十分な道具だ。


(死ぬ、の? ここ、で?)


 ギラギラと光る刀から、目が離せない。

 いつ刺されてしまうのだろう。刺されたら、やっぱり痛いのだろうか。


(痛いとしたら、どれくらい? どのくらいの時間、痛みは続くの?)


 こうなったら即死しかないと、菊花は覚悟を決めた。


(白……いえ、香樹。私はここで終わりみたい。もうあたためてあげられないわ、ごめんなさい)


 菊花の中に、口添えするという選択肢は最初からなかった。

 部下に恵まれていないらしい香樹の、弱みを作るわけにはいかない。そうでなくとも、今このような事態になっているのは、菊花が余計な口出しをしたせいである。


(死ぬのは怖い。お父さんにもお母さんにも申し訳ないと思う。けど……!)


 香樹の足を引っ張るくらいなら、潔く散ってしまった方が良い。

 怯えた視線を凶器へ注ぐ菊花に、男は苛立たしげに舌打ちした。

 脅しでは屈しないと思ったのか、今度は猫撫で声で菊花にささやいてくる。


「菊花様。ちょっと言ってくれるだけで良いのですよ。それだけで、良いのです」


「……」


 少し脅せば屈すると思っていたのだろう。

 菊花が甘やかされて育った貴族令嬢だったならば、そうなっていたかもしれない。

 いつまで経っても承諾しない菊花に、男の怒りはますます募る。


(あぁ。なんて男なのかしら、この人は。自分の力でのし上がれないからって、こんなことをするなんて)


「難しいことなんて、何もないでしょう?」


 難しいことばかりだ。もう死ぬっていう時に、思い出すのが父でも母でもなく、ましてや白蛇の白でもない。

 たとえ中身が白だったとしても、思い出すのは最近会ったばかりの美しい男だなんて、一体どういうことなのか。


(綺麗なものに、憧れでもあったのかしら?)


 だんまりを決め込む菊花に、とうとう男が痺れを切らす。

 男の声が、空気を揺らした──その時である。


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