祈ることとは その②
祈ることとは その②
祈りは自分自身への誓い。以前にそう書いた。
これはまさに自身の願いを神様に申し上げる時のやり方として、自分の努力の誓いをたて、実行してほしいということだ。
そして祈りにはもうひとつある。愛する家族や友人、ご縁ある人のために祈るという行為である。
安産祈願にみえられた方には必ずお話するが、女性、特に母親は我が子の命がお腹に宿ったときから一心に祈る。無事に生まれてきますように。そして生まれた後も無事に大きくなりますようにと祈る。
目も手も心も離せない小さな我が子が、だんだんと成長して親の身長を抜くようになっても、母親は我が子のために祈る。そして老いた自分がたとえ死の床にあっても、子どもの幸せを祈るというのが、母親の姿だと思う。何も見返りを求めず、ただひたすら、愛するもののために純粋に祈る。
そんな祈りの波動は必ずや相手を守るものとなると私は信じている。
件のついたちまいりで、わざわざ一時間以上かけて通ってきてくれるご夫婦の奥さんの方が、闘病生活を余儀なくされている。彼女のために仲間たちでできるゆいいつのことは祈ることである。元気な笑顔を思いだしながら、みんなで祝詞を奏上する。そのかいあってか、一回目は順調に回復できたようだが、またしても二回目の抗がん剤治療となった。病気に負けず強気で突き進んでほしいとひたすら手を合わせている。
この手と手を合わせる祈りの行為というのは、宗教的な解釈だけでなく、脳科学的にも不思議な波動を呼び起こすという学説が、とある本にも書かれていた。
あまり知られていないことだが、天皇陛下は神職の頂点にたつ存在であり、常に日本国と民のために祈るという激務をされている。その足元にも及ばないが、私たち末端の神職も、毎朝毎夕、氏子地域、氏子のことを祈っている。最近では地震、水害などの天災をはじめ、きな臭い事件が後を絶たない不穏な世の中になり始めている。自身の本当の平和は、まず家庭の平和、地域の平和、そして国の平和、地球の平和なしにはありえないと思う。
微力ながらもずっと日々の祈りを捧げていきたい。




