ゆうれい草履
ゆうれい草履
「どなたがおられるはずなのに、草履だけしかないんです」
怪訝な口ぶりで、総代さんが電話をしてきた。実家のお宮の拝殿の前に草履が一足ちゃんとそろえてあるのに、誰もいないというのだ。
「ああ、あれはね、対策なんですよ」
夫が説明を始めた。
ここ数年、県外からの参拝客が増えたが、様子を見ていると、たまに土足のまま、ずかずかと上がってくる参拝客がいる。小さな子ども、ブーツをはいた女性客、一瞬ためらいながらも、いいよね?と入ってくるカップル等。もちろん現場を見つけたら即、注意をするが、神社というもの、たいていは、靴をはいたまま鈴を鳴らし、お賽銭を投げ入れ、手を合わせているので、きっとそんなものかと思っているのかもしれない。だが、せっかく座って拝礼できるように、きれいな七島藺の拝敷を敷いているのになあと残念でならなかった。靴を脱いでお入りくださいという立札を作るべきかと話していると、宮司である父親が、即、ノーとばかりに首を横にふった。
「そんな無粋なことはしたくないなあ」
たしかに。神聖な場所にはそぐわない立札である。それでは…と三人で知恵を絞って、ここで履物を脱ぐのですという無言のお知らせとして、草履を一足置いておこうということにした。幸いにも神職用の草履は何足か予備もある。早速草履を置くと意外に効果があり、参拝に来られた方々はためらわずに履物を脱いで上がってくれるようになった。一方では、電話をしてきた総代さんのように、幽霊草履かヒヤッとしたと話す方もいた。
立札を置いて伝えたいことはほかにもある。けれども、こと、お宮の境内の中では宮司はその方法を嫌う。一度文字にしてしまうと、せっかくお参りに来た人たちの純粋な気持ちに水をさすような気持ちになるのだそうだ。そのときは、そうなんだとしか感じなかった私が、よその神社のトイレでなるほど!と感じた貼り紙。【トイレットペーパーは持って帰らないでください】何だかとても残念な気持ちになった。
それよりは【きれいに使って下さりありがとうございます】の方がずっと気持ちがいい。言葉とは実に不思議なものであるとつくづく思う。
ところで、効果抜群だったそのゆうれい草履。
最近、ふっとなくなった。犬がくわえて持って行ったのか、誰かが使いたくなったのか……。
決して新しくなく、いい匂いでもなかっただろうに。
【草履をもって行かないでください】私の頭の中で、こんな立札が点滅してきた。




