彼女が逃げた、ホントの理由
「兄様ぁっ! 助けてっ!」
冬期休暇に帰ってきた、妹の第一声がそれだった。
十も離れたこの妹ももう16歳。次の夏には学園を卒業する。入学当初から、10歳を過ぎればレディの自覚を持てと説かれ、貴族の娘、もしくは妻として相応しい行儀と知識を身につけたはずの妹。
その妹は、馬車を門前で飛び降り、侍女達を振り切り、コートも脱がずに玄関ホールを突っ切って、領主代理の執務室に駆け込んできた。扉が弾けるように強い音を立てる。
アスールは、無作法をとがめようと口を開いたが、声になる前に妹が執務机に突進してきた。バンッとたたきつけられる両手から、とっさに書類を逃がす。
「兄様お願い! プリームを雇ってあげて!」
「は?」
一体何のことか分からず、アスールはぽかんとほうけた。ふっと視界に赤を捕らえ、そちらに目をやる。妹の背の向こうに、見慣れた赤毛の少女が立っていた。16歳にしては小さな体をさらに縮めるようにして、胸の前で組んだ両手をぎゅっと固く握っている。紅茶色の大きな瞳が、不安そうに揺れていた。
彼女はプリームといって、妹の学友だ。夏期休暇を毎年この家で過ごしている。しかし、年始を挟む冬期休暇にやって来たのは、これが初めてだった。今年は連れて来る、などとは聞いていない。先日届いた妹からの手紙も、いつも通りのものだったはずだ。
兄の驚きをまるっと無視して、妹は続けた。
「このままじゃ、プリーム結婚させられちゃうの!!」
「……は?」
妹よ、頼むから分かるように話してくれ。
***
アスールの父は、いくつもの農村を任されている領主だ。
四人兄弟の長男として生まれたアスールは、父の仕事を継ぐことを早くに決め、王都の学園を卒業してすぐ家に戻った。それから、父の補佐をしながら領主の仕事を本格的に学び始めた。
上の弟はまだ学生、下の弟は入れ替わりに入学したので、屋敷に兄弟はアスールと末の妹だけになった。
その頃、アスールは年に二回の長期休暇が待ち遠しかった。弟達が帰ってくれば、妹のお転婆の被害を分散出来るからだ。
妹のネクロは、熱しやすく冷めやすい気質だった。
作曲家になる! と言い出して、朝から晩までピアノを弾き続け、自室の床を譜面で埋めたかと思うと、一、二ヶ月後には発明家になる! と言って、ボコボコと謎の液体が暴れているフラスコを片手に、兄を追いかけ回したりする。
一番性に合っているのは絵描きのようで、年に四回は筆と絵の具を持ち出してくる。安眠妨害にもならないし、誰かのほほが青緑に変色する心配もないので、このままずっと絵を描いていてくれたら、とその度に兄達は願う。しかし、その願いが叶ったためしはない。
10歳になったネクロが、兄達に倣って学園に入学すると、その気まぐれに供が出来た。学友の一人を日中ずっと連れ回し、三男の下に突撃する時も一緒だという。
初めての冬期休暇の間、ネクロはずっと絵を描いていた。困った気まぐれさえ起こさなければ、かわいい末っ子である。領主修行の合間に、アスールはアトリエと化している部屋に顔を出した。
まあるいほほ。胸の前で組まれた小さな手。
目が描き込まれた。クリクリとした、丸くて大きな目。お茶の時間に母が手ずから入れてくれる、甘い香りの紅茶に色がよく似ている。
パレットで絵の具を少しずつ混ぜていく。出来た赤は、夏に花壇で咲いている花と同じ色だった。その色で描き込まれた髪は、肩に掛かり風を含んだように広がっている。
小さな唇が、ゆるく口角を上げている。じっと優しい眼差しをこちらに注いでいる。
ほほに桃色を差すと、妹はその少女を友人だと紹介してくれた。三男がよく似ていると褒めた。
初めての夏期休暇に、ネクロはその友人、プリームを連れて帰ってきた。妹の話から想像していたよりずっと、彼女は小さかった。父に似て大柄なアスールに驚いたのか、あいさつの後、彼女はずっとネクロの後ろに隠れていた。
幼い頃は、プレゼントとごちそうにあふれる年末年始を何よりも楽しみにしていたのに、友人が出来たネクロは、冬より夏の方がはしゃぐようになった。埋もれてしまうほどの花をプリームに抱えさせ、屋敷中に生けて回ったり、プリームにも網を渡し、虫を追って庭を走り回ったりした。
***
ある年は、ネクロが屋敷の中を走り回っていた。客間のカーテンをはぎ取っては部屋に運び、次男がもらったプレゼントからリボンを強奪しては部屋に運んだ。小鳥かリスでも乗り移ったのかと言ったのは、母だったか父だったか。
アスールが休息のために自室へ向かっていると、丁度通りがかったところで、ネクロの部屋の扉がバンッと勢いよく開いた。飛び出してきたネクロは、兄に目もくれず廊下を駆け抜けた。本当に巣でも作っているのかと、アスールは中をのぞいてみた。
部屋の中には、妹が集めただろう布やら花やら飾りやらが規則なく散らばっていた。いつもの気まぐれと大差ないようだ。窓際にイスが一つ寄せられていて、そこにちょこんと赤毛の少女が座っていた。
プリームの姿は妙だった。体にカーテンがグルグルと巻き付けられていて、やわらかい髪に白いリボンが絡んでいた。窓の外を眺めていたプリームは、アスールに気がつくとぴんっと背筋を伸ばした。前髪に引っかけていた黄色い花が、ぽとりと膝の上に落ちる。
「アスールさん……。」
「……今回は何だ。」
遠くから見ても、近くに寄ってもよく分からない。プリームがカーテン地を両手でぎゅっと握る。小首をかしげた。
「ドレスのデザイナーになるそうです。私は、マネキン役でしょうか。」
「ドレス……。」
このカーテンを切ったり縫い付けたりするつもりなのか。それはちょっと困る。
思わず眉間にしわが寄る。ちらっとそれを見上げて、プリームがつぶやいた。
「すみません……。」
「いや、こちらこそすまない。君も、いつもいつもあれに付き合うのはつらいだろう。私達はあれを甘やかし過ぎてしまったな。」
ふるふると小さな頭が揺れて、赤い髪がふわふわと広がった。
「追いかけるのは、大変だけど、つらいと思ったことはありません。私は、自分がどこにいたいのか、どっちに行きたいのか、すぐ分からなくなっちゃうから。ネクロちゃんが手を引いてくれると、安心します。」
膝の上、ゆるく握った自身の手へ視線を落として、プリームがほほ笑む。
優しい眼差しに、キャンバスの中の彼女を思い出した。夢中で絵筆を踊らせるネクロの横顔と、出来あがった絵を見せびらかす得意気な笑顔も。
書き散らかした譜面は、どこに行ってしまったのだろう。ちり紙回収に持たせてしまったのだろうか。謎の緑の液体は、流しに捨てようとしているのを料理番が必死に止めていた。
屋敷中を花まみれにした後、二階の角の一瓶が一番の力作だと、絵に残していた。花が枯れると、同じ場所に勝手に額を掛けた。
捕まえた虫の中で、水面のようにきらりきらりと光を弾くチョウを気に入って、標本にした。今は領主の執務室に飾られている。
妹のネクロは熱しやすく、冷めやすい。
何か標的を見つけては、ただただひた走り、ある日突然立ち止まる。拾ったものを全部足下に投げ出して、次の標的を見つけるまで考え込んでいる。
たが今は、成果を鼻高々で家族の下に持ち帰って来る。そして、上がったままのテンションで次へ駆けて行くのだ。以前よりさらに騒々しくなった。
アスールの唇からふっと笑みがもれる。
「ネクロはずっと楽しそうだ。あれも、君が手をつないでくれるから、安心してどこまでも走っていけるんだろう。」
赤毛が揺れて、そろりと顔が上げられる。紅茶色の瞳が、ぱちぱちと瞬く。カップを回したようにその色が揺れた。
言葉に出来ない気持ちを胸に納めるように、プリームはぎゅっと両手を重ねた。丸いほほに、じんわりと赤が広がる。ふくっと持ち上がる。上がる口角とは反対に、眉尻がへにゃりと下がった。
今年も庭に咲いたあの花は、何というのだったろう。いつか母が口にしたはずなのに、アスールは思い出せない。ただふわふわと風に揺れる情景が胸にひらめいた。
「プリーム!」
妹の声が背後で弾けた。プリームの目が扉へ向く。アスールもぎこちなく振り返った。
ネクロは白い布を腕に抱えていた。端の金刺繍に見覚えがある。食堂のテーブルクロスだ。ぱっちりしたつり目が、不思議そうにアスールを見上げた。
「兄様? どうしたの?」
「いや……。」
かぶりを振ったのは、否定のためではなく、幻を振り払うためだった。すれ違いに、黒い頭をぽんぽんとたたく。
「夕食までには区切りをつけなさい。あの格好のままじゃ、食事が出来ないだろう。」
「はぁーい。」
ネクロがぱたぱたとプリームに駆け寄る。クロスをぽいと机に放り、プリームへ両手を差し出す。彼女を立ち上がらせるとカーテンを解きにかかった。片付けに入ったのではなく、次を試すためだ。アスールは廊下へ出ると扉を閉めた。
執務室に戻ると、父が目を見開いた。
「休憩はもう良いのか?」
……忘れていた。
***
ある年は、ネクロもプリームもずっと部屋の中に引きこもっていた。せっかくの良い天気なのだから庭で遊べば良いのにと、様子を見に行くと、二人は一つの机を挟んで向かい合わせに座っていた。
ネクロがせっせっと羽ペンを走らせている。プリームが思案するように視線を斜めに上げて、ぽつりぽつりと何やらつぶやいていた。それを書き取っているようだ。
「それでね、家族想いの頑張り屋なんだよ。責任感が強くってね、みんなの幸せのために、出来ることからこつこつ頑張ってるの。」
「なるほど!」
がばりとネクロが顔を上げる。書き上がったものを見て、ふふんっと鼻を鳴らした。
「この人ってさ、体格以外はほぼ私じゃない!?」
プリームがぱちぱちと目を瞬かせた。しばらく置いてからうなずいた。
「そうかも。ネクロちゃんと似てるね。」
「でしょー! ふっふっふっ、私ってばプリームの理想のヒーローだったのねっ!」
きゃーきゃーとうれしそうに声を上げて、ネクロがバンバンと机をたたく。ふっと濃紺の目がこちらを捕らえた。ぱっと顔を輝かせる。
「兄様!」
「! アスールさん。」
プリームはぴょっと跳ね上がると顔を伏せた。驚かせるつもりのなかった小動物に、逃げられてしまったような切なさがある。
アスールはため息で感傷を逃がした。
「今度は何をしているんだ?」
「ふっふっふーっ。戯曲だよ戯曲! 私、舞台作家になるの!」
「はあ。」
そういえば、今年の春に母が王都に出掛けたのだった。二人を連れて観劇へ行ったとか。その影響か。
「キャラクターはね、プリームに考えてもらってるんだー。」
「そうか。出来あがったら母上に見せるといい。きっとお喜びになる。」
「本当!? よーし、頑張ろうね、プリーム!」
「……うん。」
プリームがこくりとうなずく。なぜかほほがうっすらと赤くなっていた。
つたない言葉がちりばめられた冒険活劇は、朗読という形でお茶の席で公演された。ネクロはヒーロー役を譲らず、プリームが恥ずかしがって辞退したので、ヒロインは三男が務めた。
***
冬のある日、父が病に倒れた。アスールが補佐について、9年目のことだった。幸い一命は取り留めたものの、本復は難しいという。
アスールは25歳、結婚もしておらず、領主になるには少し早い。しばらくは領主代理として領地を守り、しかるべき時が来たら正式に家督を継ぐということで、話がまとまった。
ネクロは例年より一週間も早く帰ってきた。涙目で突撃してきた末娘に、大げさだと父は苦笑したが、やはりうれしそうだった。
年が明けてネクロは学園に帰り、少し前とは違う日常が重なり始める。父の助言はある。母と三男の協力もある。それでも、忙しさと気疲れに目を回しているうちに、春はあっという間に過ぎて行った。
庭に赤い花が咲くと、母の話は二人の少女のことばかりになった。侍女達は言われずとも、妹の部屋に二人分の寝具を準備した。父は手紙を読むと、今は焼き物に興味があるそうだ、と苦笑した。
帰ってきてすぐ、ネクロは玄関ホールでカバンを開け放った。プリームに手伝ってもらいながら、衣服の中から頭ほどの大きな瓶を発掘した。日の光を煮詰めたような、黄金色のアメ玉が瓶いっぱいに詰まっている。ネクロはえへんと反り返って、それを父に渡した。
これは蜂蜜のアメで、滋養がどうだ、疲労回復がどうだ、とおそらく品書きに書いてあったのだろうことをつらつらと並べた。
「プリームが見つけたの。それで、二人で一番大きいの買ったのよ。いっぱいあった方がみんなも食べられるし、みんなも元気になるでしょう?」
ねー? とネクロが顔を合わせると、プリームもへにゃりと笑ってうなずいた。
父も笑って、ネクロの黒い頭をわしわしとかきなぜた。それから、その大きな手をスライドさせて、隣の赤い頭も遠慮なくなぜた。
きょとんと、紅茶色が瞬く。自分もボサボサなのに、跳ねた赤毛をネクロがからかってまた笑った。
***
妹同然に思っていると言えば、彼女は驚くだろうか。
たとえ共に過ごすのが夏の間だけだったとしても、6年近くも見守ってきたことには違いない。そんな彼女の危機とあれば、アスールだけでなく、父も母も手を貸すことにやぶさかでないだろう。
だがしかし。
「お願い兄様! プリームを雇ってあげて! 今すぐ雇用契約書書いて! どうせ、プリームの家はうちに逆らえっこないもの、決まってしまえばこっちのものよ!」
ネクロの言葉は要求と願望ばかりで、何が起きているのかさっぱり分からない。雇えと言われているが、プリームは就職が決まっていたはずだ。その話はどこに行ったのだ。
全力疾走中の妹は、声をかけても止まるものではないので、アスールはじっと待った。入り口に立ったまま動かないプリームを、指先で呼ぶ。
彼女は恐る恐る部屋に入ってきて、ネクロの隣に並んだ。執務室に入るのは初めてなので、ミナモチョウとは数年ぶりの再会だが、そんなことに気がつく余裕はなさそうだ。
「もうね、ひどいでしょ! あんまりでしょ!」
最終的には文句ばかり詰め込まれていた叫びがようやく途切れる。ネクロは息が切れていた。プリームが心配そうに顔をうかがっている。アスールは、はぁ、と息をついた。
「何やら緊急事態であることは分かった。だが結果も原因もさっぱり分からん。順序立てて話してもらえないか。」
「……っ!」
ネクロが大きく息を吸ってむせた。まだ興奮状態にあるようなので正直助かった。プリームがネクロの背をさする。さすりながら、顔はアスールに向けた。眉が八の字に寄っている。
「その、ネクロちゃんに甘えてしまってすみません。ちゃんと自分で話します。アスールさんは、父の跡継ぎが従弟のサーレスであることは御存じでしょうか?」
「ああ。」
最近は実力主義で長女や次男に継がせる家も多いが、プリームの家は違った。彼女の家で受け継がれるものは名字の他は屋敷とわずかな財産だけだが、それら全ては一人娘のプリームではなく、2歳下の従弟が継ぐことになっている。年の近い子女がいればどこの家にも自然と耳に入る情報だ。
「ですので、私は卒業後は就職して家を出るつもりだったんです。」
「ああ。」
アスールはうなずいた。父や母に話しているのを聞いたことがある。教師の口利きで、街の学園に司書として雇ってもらえそうだと、そう報告していたのは今年の夏のことだった。
「それで、先生のおかげで無事決まるはずだったんですが、両親が断ってしまったんです。すぐ結婚するのだから必要ない、と。」
「ひどくない!? ひどいよね!?」
ネクロが割って入る。ガルルルっとうなるその背をプリームがさする。今度はなだめるためだ。自分自身の心も落ち着けようとしているようだった。
「それは、もう相手が決まっているのか? 婚約話が進んでいると?」
「……はい。」
相手が嫌なのか、描いていた道を断たれたからか、プリームの表情は暗い。
「就職出来なければ家に残るしかありません。そうなれば、両親や祖父母の望む方へ進むしかなくなります。私は……」
唇がきゅっと結ばれる。白くなるほど握りしめられた手が震えていた。その手を、横からネクロがすくう。両手で包むように握った。強張っていた細い肩から力が抜けた。指先が緩む。
「私は、そんなの嫌です。私が選んだ先に、私の望む結果がなくたって構いません。我がまま言ってるっていうのも、ちゃんと分かってます。でも、結婚するのだけは嫌なんです。」
紅茶色がゆらゆら揺れる。隣でうんうんとネクロがうなずいている。プリームは片手の甲でぐしぐしと目元を拭った。
「お願いします、アスールさん。私にどうかお仕事を。」
「ねぇ、良いでしょう? 兄様。プリーム、うちにいて良いよね?」
赤茶と濃紺。二対の瞳がすがりついてくる。
アスールの眉間にぐぐっとしわが寄る。
彼女の家の決定に逆らうということはつまり、彼女の今後を背負うということだ。長期休暇に預かるのとは訳が違う。
アスールは額を押さえて長く息を吐いた。
「分かった。ただ、私はまだ領主ではない。事後報告で納得させるなら、署名は私より父の方が効果があるだろう。私から頼んでおく。」
ネクロがぱぁっと顔を輝かせる。ぐるりと机を回って飛びついてきた。
「ありがとうっ兄様!」
赤い頭が深く下げられる。
「ありがとうございます。ありがとうございます。」
「良かったぁ、良かったねプリーム!」
ネクロは兄から離れると、旋回して今度はプリームに飛びついた。ぎゅうぎゅうと抱きしめられながら、プリームは両手でぎゅうっとネクロの腕にしがみついた。
***
アスールの父が手紙を送ると、すぐに返信が来た。
へりくだった文で、娘同士が懇意にしていること、今年は冬も世話になっていること、そして今後も娘を任せることなどの礼がつづられていた。
執務室に呼んで、アスールがこのことを告げると、プリームは何度も頭を下げた。それから、父にも礼を言うために領主夫妻の部屋に向かった。母は手紙を見て狂喜していたので、今頃もみくちゃにされているだろう。
プリームについてきたネクロと、別件で呼んでいた三男が部屋に残る。ネクロが読みたがったので手紙を渡してやると、横から三男ものぞき込んだ。ネクロが顔をしかめる。
「もぉーっと渋るかと思ったのにぃ、逆に喜んでる?」
「つーか、この文。もしかしてプリームちゃんが俺の嫁さんになると思ってる?」
三男が眉を寄せてうなった。ネクロがぱちりと目を瞬かせて三男を見上げた。
「え? それってヴァイス兄様的にどうなの?」
「んー。プリームちゃんなぁ。かわいいとは思ってるけど、女の子として見たことはねぇなぁ。」
「だよねぇ。びっくりしたー。」
ネクロがぺいっと手紙を机に放る。アスールがとがめたが、返されたのは気のない謝罪だった。ネクロはほほを染めて何やら興奮している。
「でも、うちにお嫁に来たら、プリームと姉妹になるのかぁ。それは良いかも!」
「えー。既にうちの子じゃね? もう良くね?」
ネクロがキラキラと目を輝かせる横で、三男が肩を落とす。
「そういえば、プリームのお部屋はどうしようか。私の隣が良いなぁ。」
「お前の隣は俺なんですが。」
「一個横ずれてよ。」
「そこロート兄の部屋。」
きゃいきゃいと部屋の内装に話を移すネクロは、誰よりもはしゃいでいる。これからも、彼女の手を引いてどこまでも暴走していくつもりだろう。
――私は、自分がどこにいたいのか、どっちに行きたいのか、すぐ分からなくなっちゃうから。
大きな瞳が伏せられる様も、静かな声も未だ鮮明だ。
ここが彼女の居場所になれば良い。夏と言わず、冬と言わず、ずっと。
アスールのまぶたの裏で、赤い花が揺れた。
***
客間の一つが、プリームの部屋になった。冬の間にネクロが勝手に模様替えを行った。卒業の式の後、プリームはネクロと母が直接連れて帰ってきた。数日後、彼女の家から小さな荷物が届いた。中身は数冊の本と、去年ネクロが作ったいびつな花瓶だった。
プリームの仕事は秘書見習いだ。書類を作成、整理し、必要に応じてアスールや三男に渡してくれる。
忙しい時期には、三男の報告書作りを手伝ったり、先輩秘書の使いで走り回ったりする。手が空く時期には、ネクロの相手をしたり、出掛ける母の供についたりした。
プリームが屋敷の一員になって、もうすぐ一年経つ。
執務室には応接用のローテーブルの他に机が二つある。一つは代々の領主が使っているどっしりとした古い机。もう一つは、ちょっとした書類の確認や直しにアスールや秘書が使っていた小さな机。
父の代から働いてくれている中年の秘書は、扉でつながった隣の仕事部屋にいることが多い。そのため、アスールが領主を継いでから、小さな机はすっかり書類置き場になっていた。今は、プリームが使っている。
アスールには少し窮屈だったイスにちょこんと腰掛けて、プリームは各農村からの作付け報告をまとめていた。
ペンが止まり、ペン立てに戻された。大きな目が紙面に落ちて、つらつらと文字を追う。数字や地名を念入りに確認しているのか、時折、ちらちらと原本との間を行き来した。顎を引くようにして一番下まで目を通す。ぱちりと瞬いて、彼女はふっと息をついた。肩からも力が抜けるのが分かる。
「プリーム。」
アスールが声をかけると、びくっと体が跳ねて、ぷわっとやわらかな赤毛が広がった。振り返る紅茶色の瞳が、まん丸に見開かれている。思わず、アスールの眉がくっと寄った。
「それが終わったなら、ネクロの所に顔を出してやってくれ。」
「でも……。」
「そのペースなら、明日には終わるのだろう? 根を詰め過ぎると、思わぬところでミスをするぞ。休んできなさい。」
紅茶色が揺れる。ためらうように視線が机を滑る。やがて顔を上げると、眉尻をへにゃりと下げてほほ笑んだ。
「分かりました。お先に失礼しますね。」
「うむ。」
プリームは書類をしまうと、筆記具は整頓するだけでイスから立ち上がった。秘書部屋の扉を開けて中へ声をかける。こくりとうなずくと、机の端に積んであった書類の束を相手に渡した。とことこと廊下へ向かい、扉の前でアスールへ向き直る。
「若旦那様も、無理をなさらないでくださいね。」
「ああ。」
ぺこりと頭を下げて、プリームは出て行った。
ぱたりと扉が閉じて数秒、アスールは深く息を吐き出す。机の上に肘をつくと、その手に額を押しつけた。
緊張した人間が傍にいることが、こんなにも疲れることだとは、知らなかった。刺激したら飛び上がって逃げて行ってしまうのではないかと思うと、一挙手一投足にも気を遣う。
淑女に使うにはあまりに失礼な表現だとは思うが、プリームはちっともアスールに馴れない。声をかければ跳ね上がり、目が合えば身を固くする。ネクロと遊んでいるのを見守っていた時とは違い、日中ずっと一緒にいるようになると少々堪えてくる。
嫌われている、ということはないと思う。プリームは時々、笑顔を見せてくれる。しかし、この巨体かしかめ面か、何らかの原因で自分のことが苦手ではあるようだ。
プリームが元々デスクワークの仕事を希望していたから、自分の補佐についてもらったが、失敗だったのかもしれない。いっそネクロの友添いとして雇うか。今でもネクロや母が茶会に呼ばれる時に供をしている。今更だ。
アスールのため息がさらに深くなる。
保護したつもりでいたが、果たして我が家は彼女にとって良い環境なのだろうか。
***
夕食に向かう途中で、ネクロと廊下で鉢合わせた。庭で何をしていたのか、黒い髪に木の葉が絡んでいる。アスールはそれを手ぐしで払ってやりながら、妹が入ってきたガラス戸の向こうを見た。庭の奥は廊下からの明かりが届かず、紺色に沈んでいる。
「プリームは母様に捕まっちゃったのよ。」
ネクロが悔しそうに唇をとがらせた。母に着せ替え人形にされるのを嫌って、植え込みにでも隠れていたのだろう。
アスールは、妹の子供っぽさを叱ることもからかうことも出来なかった。ネクロの言葉に、ドキリと手が止まる。庭に視線を投げたのは、正確に言えば、妹の背後に少女を探したのは無意識でのことだった。自分すら分からない行動の意味を見透かした妹に、動揺して思考が鈍る。
反射的に飛び出しそうになった否定の言葉を、慌てて飲み込む。ごまかすようにもう一度妹の頭をなでた。
「そうか。」
味気ない返事を、ネクロが気にする様子はない。ただじっと、濃紺の瞳で兄のそろいの瞳を見つめている。その視線から逃れるように、アスールは体の向きを進行方向に戻した。ツカツカと大股で歩き出すが、ネクロが小走りに追いついてきて、隣に並ぶ。
「兄様さー、最近、眉間のしわがすごいよね。」
体をかしぐようにして顔をのぞき込んでくる。立てた人差し指で、つるんとした己の額をちょんちょんと突いた。
「プリームも心配してたよ。」
「……もしかして、これのせいなのか。」
「? 何が?」
「いや。」
ネクロが最近と言うのなら、ここ数ヶ月のことなのだろう。その間にプリームの態度が変わった実感はない。しかし、自分がしかめっ面なのは今に始まったことではないし、やはり原因なのだろうか。
「あの、兄様、今まさにさらに深くなってますけど。」
……既に悪循環にはまっている気がする。
「兄様? 大丈夫? 具合悪い? おなか痛い?」
「……大丈夫だ。」
「そんなうめくような声で言われましても。」
ネクロの顔が曇る。アスールは気持ちを立て直そうと、胸にたまっていた息を吐き出した。鉛のように重くて、ゴトリと足下に転がり落ちたような感覚がする。
「……プリームは、私を怖がっているだろう。」
口に出すには勇気が要った。それでも向き合わなくてはいけないし、相談する相手は彼女と親しいネクロが適任だ。
ネクロが足を止めたのだろう、視界の端にふっと消える。アスールも立ち止まって妹を振り返った。
青い目が、見開かれている。ぽかんと唇が開いていた。この妹には珍しい表情だ。ネクロはどちらかというと人を驚かせたり困惑させたりする方が得意である。
ざわっという木々の揺れる音で、ネクロははっと我に返った。
「え!? 何それ、どこ情報!?」
「どこって、私から見たままだが。」
「何で? どの辺が?」
ひどく動揺しているネクロに、アスールも戸惑う。てっきり、ネクロは把握しているものだと思っていた。
「……私が声をかけると飛び跳ねる。」
「ああ。私が抱きつく時もよくビクーってなるよ。」
妹の抱きつきは体当たりと同義だ。背後からタックルをかまされれば誰だって驚くだろう。
「私といると、緊張するようだ。」
「それって仕事中でしょ。ヴァイス兄様みたいにだるーんってしてるより、良いと思うけど。」
「それはそうだが……。」
「要するにさ、」
ネクロがずいっと指先を突きつけた。つり目で下からアスールをにらむ。
「プリームの反応が気になって気になって、兄様の方が緊張しちゃってるってことでしょう?」
「ぐ……。」
どうしてこうも、気がついて欲しくないことは見透かされているのだろう。10歳上の兄としては、何だか情けない気持ちになる。
ネクロがわざとらしくため息をついた。
「確かに、プリームは緊張しいだよ。ダンスの授業とか、前でやれって言われた途端にガチガチのロボットみたいな動きになるし。ぼんやりさんだから、横から声かけただけでスゴクびっくりするし。でもね、あの子はリスでもネコでもないの。びっくりしたからって、すぐ逃げてっちゃったりしないの。びっくりさせといて大丈夫なの。」
「驚かせて良い訳はないだろう。」
「気にしまくってギクシャクするより断然マシ!」
ギクシャク、はしていないはずだ。
「眉間のしわをー、プリームも気にしてますー。」
続く言で反論を封じられる。つまるところ、アスールに変化があれば、それはプリームにも伝わるということだ。妹曰く緊張しいの少女が、上司の眉間にしわが増えていくのを平然と見守っていられるだろうか。
「私は……何も気にするなということか?」
「そうよ。緊張しっぱなしじゃ、兄様だって疲れちゃうでしょう?」
「むぅ……。」
とにかく、眉間のしわを解消するところから始めるべきか。
アスールは歩き出しながら、ぐっぐっと親指で自身の眉間を押してみた。横に並ぶネクロがまだこちらをのぞき込んでいる。
「何だ。」
「兄様、良いこと教えてあげようか。」
「……何だ。」
ふふんっとネクロが笑う。
「昔ね、プリームに褒められたの。」
くるりと身を翻してアスールの前に回り込む。向かい合ったまま、器用に後ろ歩きを始めた。妹に合わせて、アスールの歩行速度も下がる。
「ネクロちゃんが怖いもの知らずなのは、頼りになるお兄さんがいるからだねって。」
ネクロの笑みは得意気だ。プリームの肖像を見せびらかしていた時のように。
アスールはため息をついた。
「怖いもの知らずって……褒め言葉か?」
ネクロがほほを膨らませた。
「ちがーう! 私はいつも褒められてるから良いの。そうじゃなくて兄様、ちゃんと聞いてた? 頼りになるお兄さんって、兄様のことよ。」
「私?」
「そーよ! 忘れちゃったの? あの日、私もプリームも、兄様を頼って帰ってきたのよ。それで、まあ、いろいろ整えてくれたのは父様だけど、兄様は助けてくれたでしょ。」
と、ネクロの目がゆらりと潤んだ。その青がこぼれるのを耐えるように、ぐっと眉が寄る。
「私が最初、うちに行こうって言った時、プリームはうなずいてくれなかった。でもね、兄様がいるって、兄様が絶対助けてくれるって言ったら、ようやく手を取ってくれたの。」
ネクロがぷるぷるっと首を横に振った。何かを振り落としたように、濃紺の瞳はいつもの強さを取り戻している。
「兄様は、私の自慢の兄様よ。かっこよくて頼りになるの。それはプリームにとっても絶対同じ。だから、もっと自信持ってくれなきゃ。」
――ここが彼女の居場所になれば良い。夏と言わず、冬と言わず、ずっと。
プリームを屋敷に迎える時に降りた祈りがよみがえる。
5度訪れた夏の中、彼女と交わした言葉は多くない。妹に向けられる笑みだとか、その手元をのぞき込む瞳だとか、走り回ってぱたぱた揺れる赤毛だとか、いつも横顔ばかり見ていた。たまに正面に立つ時、ほとんどは間に妹がいて、彼女はうつむいていた。
それでも、彼女をここに導いたのが、自分の存在だというのなら。地に着きそうだった彼女の膝を支えたのが、自分だというのなら。
「……そうか。分かった。」
アスールの口から、またため息がこぼれた。それは、何かを吐き出すためのものではなかった。詰めていた呼吸が楽になる。すとんっと胸の内に何かが落ちた。そのままどこかのくぼみに収まったような、そんな心地。
ネクロがふふっと笑みをこぼす。
「兄様、元気になった? ね、良いこと教えたでしょ?」
「ああ。すまなかったな、情けないところを見せた。忘れろ。」
「えー? それはどうしよっかな。」
「おい。」
くるくるっとステップを踏んで、ネクロが背を向ける。
「みんなには内緒にしてあげる。」
そのまま踊るように駆けて行き、食堂に入った。あと少しの距離を、アスールも早足で詰める。妹を振り切ろうとしていた時よりずっと、足が軽くなっていた。
***
街で働いている次男が帰ってくると、兄弟が執務室にそろう。まず次男が兄に帰郷のあいさつをし、次に三男が土産の催促にやって来て、最後に末っ子が秘書見習いに休憩を促しに来るためだ。
今日も、街の様子を話す次男の向こうで、応接セットのソファに陣取った三男が、もりもりと飴がけのナッツをほお張り、分けてもらったそれを、向かいのソファでネクロとプリームがさらに分けている。
街で流行った風邪の話が一区切りし、次男がネクロを振り返った。
「ネクロ、この間借りた戯曲なんだけど、あれって続きあったよな?」
「あるよー。読む?」
「というか、全部持って行っても良いか? 友達が気に入ったみたいなんだ。」
「何と! 芸術の分かる人ね!」
ぱぁっと顔を輝かせたネクロが、菓子の鉢をプリームに押しつけて部屋を飛び出した。一度遠ざかった足音が戻ってきて、扉が閉まった。また駆けて行く。
「こないだ言ってた花屋の子?」
「ううん。お菓子屋の子。」
「ああ。どうりで。」
三男が飴がけの袋、それに貼られているシールに視線を落とす。いつも次男が買ってきてくれる菓子は、ウサギのシルエットが描かれたシールが貼られている。しかし、今回はハトが麦の穂をくわえているマークだ。店が違う。
「お前はいつまでフラフラしているつもりだ……。」
「いやぁ、兄さんより先に身を固めると、ほら、叔父様がうるさいし?」
次男はニコニコと笑みを貼り付けている。何を言われても聞き流すつもりのその態度に、アスールはため息をついた。叔父の言うことだってまともに聞いていないだろうに、言い訳には使うのだから、悪い甥っ子だ。
アスールがイスに背を預けると、たかたかと軽い足音が廊下を迫ってきた。立ち上がってプリームが扉を開ける。ぴょんっとネクロが飛び込んできた。両手で紙の束を抱いている。
「はい、ロート兄様。シリーズ全部持ってきたよ。」
「ありがとう。お前は仕事が速いね。」
受け取って、次男が三男の隣に腰掛ける。少女二人は向かいのソファに戻った。三男がテーブルに載った菓子鉢にざらっと飴がけを足してやる。
弟妹はここでくつろぐ気満々だが、兄にはまだ仕事が残っている。アスールが羽ペンを持つと、プリームがちらっと顔を上げた。机に戻ろうとする彼女を手で制す。困ったように眉を八の字にして、ネクロの隣に座り直した。
パラパラと紙をめくりながら、次男が口を開く。
「ネクロの書くヒーローって、何かいつも似たような感じだよな。」
他の作家ならギクリとしそうな発言に、ネクロがひるむ様子はない。むしろ、ふふんっと誇らしげに笑った。
「仕方ないでしょ。何せプリームの理想のヒーローは、この私なんだから!」
ねー? と横からプリームに抱きつく。受け止めながらプリームはへにゃりと笑みを浮かべた。
「あれ、そうなのか?」
次男がページを戻して、まじまじと文字を見つめる。
「へぇ、てっきり兄さんがモデルかと思ってた。」
「あー。前に書いてたやつの、ブラオだっけ、あいつもろ兄貴だったよな。」
ポリポリと菓子を砕く合間に三男がうなずく。ネクロが唇をとがらせた。
「えー? そうかなぁ。ねー、プリーム……、」
軽く身を離して、ネクロは友人の顔を見た。名を呼んだ形で唇が固まり、濃紺の目がぱちりと瞬く。
書類に視線を落としていたアスールは、長年培った長男の習性で”兄さん”という語に顔を上げた。弟へ向けようとした視線は、まず四人を捕らえてから赤毛の少女に吸い付いた。だから、全部見てしまった。その瞬間、次男は手元を、三男と末っ子は次男の方を見ていたから、ただ一人だけ。
紅茶色の大きな瞳が、驚きにまあるく見開くのを。小さな唇が、言葉を失って戦慄くのを。まるで染料を吸い上げるように、白い首筋からほほの丸みを伝って赤が登っていくのを。
震えた唇は、向かい合った友人に何を答えようとしたのか。発せられなかったそれは誰にも分からなかった。おそらく本人にも。
硬直した少女の緊張が伝わって、彼女を見つめたまま兄弟は動けずにいた。
古いカラクリ人形のようなぎこちない動きで、プリームがアスールを振り返った。目が合う。紅茶色が、今にもこぼれそうにゆらゆら波打っている。ほほが熱せられたように真っ赤になっている。
唇が引き結ばれて、きゅうっと眉根が寄った。
プリームは突如立ち上がった。ネクロの手を振り払い、顔を両手で覆って部屋を飛び出した。
「プリームっ? プリームっ!?」
慌ててネクロが追いかける。開け放たれた扉から、ドタバタと騒がしい足音が二人分遠ざかって行く。
「えー……。マジで……?」
ぼう然とつぶやいたのは三男坊だ。飴がけをかむ音が止まっている。ふいっと風が動いて、誰かが机越しに自分の前に立った。
「兄さん、大丈夫?」
次男の声が降ってきた。アスールは応えない。
片手で顔を覆ってうつむいたまま、動けない。
顔が上げられない。
誰にも顔を見せられない。特に弟妹には。今、自分がどんな顔をしているのか皆目見当もつかないが、自分史上最も情けない様をさらしているのは確かだ。
赤がまぶたの裏から離れない。
走り去るのに合わせて翻った、やわらかな髪が。その素直さに従って上気する、ふっくらしたほほが。水面のように透き通った、あの瞳が。
手のひらに熱がこもって、頭まで蒸されそうだ。
END