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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

性癖



 暑い夏のことだった。

 寝汗でシャツが肌にへばりつく、ひどく蒸し暑いある日の深夜。

 ベッドライトの薄明かりが照らす中空に、ぷうん、と耳障りな音を響かせる羽虫を、なんとなしに僕は潰した。

 掌に赤い血がべたりとこびりつく感触は、なんとも慣れないものだ。一寸の虫の人間に対する最後の抵抗としては、なかなか効果的と言えるかもしれない。

 そんな些末事を考えながら、枕元のティッシュペーパーで拭っていると、

「お上手ですねえ」と、隣で寝ていたみなのが月花のように薄い微笑みを浮かべながら、耳元で僕に囁いた。


「わたくしは、てんでなっておりませんで。どうにも、そういうことはできません」


 みなのは、例えるならば天上の神がうっかり居眠りをして、体を動かすためのありとあらゆる神経をつけ忘れてしまったような体捌きの持ち主だ。肌が汗ばむ時期になるとよく、えい、ええい、という声を上げながら虚空にゆっくりと腕を振るさまがしばしば見受けられる。思えば、今日の昼もそんなことをしていた。さながら神楽かなにかの儀式のように見えるが、当人はいたって本気だというのだから、なんとも可愛らしいものだと思ってしまう。


 運動ができないという代わりに、天上界の神々はそれ以外には全力を注いでくれたようで──惚れた欲目もあるのだろうが──彼女は基本的には聡明で、思いやり深く、それでいて美しい。

 なお、基本的と表現したのは、時折突拍子のないことを口にするからだ。


 先日の話になる。

 僕が彼女とショッピングに出掛けると、家電製品の売場の前、42型の電子モニターが動物の映像を流す最中で急に立ち止まり、じいと静かに目をつぶり出した。

 そして2分か3分、あるいは5分か10分か、しばらくの沈黙の後、それを破る最初の言葉は「ひとはなぜ、服を着るのでしょう」だった。

 体温調節を支える生物学的役割から始まり、歴史学的な被服文化風俗の再検討、ひいては明日の文明社会その趨勢についてまで──大暴投から始まり、その後も受け手のことを考えないキャッチボールが、モニターに映るチーターの映像を背景にして日が暮れるまで続いた。

 結果として壊れてしまったエアコンは結局買えておらず、この度こうして報いを受けることになった、ということである。


 諸事情で大変ひどく蒸し暑い夜であるというのに、僕らは密着して体を横たえている。理由は簡単だ。そうすることが呼吸をするように当たり前になっているからだ。

 彼女の夜空のように黒い瞳は、知識と好奇心を湛え、血色のいい唇から紡がれる声は──内容の是非はともかくとして──耳朶をくすぐり倒し、脳をしびれさせ、背筋の先まで溶かすように甘い。

 白いシーツにしどけなく垂れる黒髪を、僕は白樺の和櫛で梳くように優しく撫でた。


「刺されていたのですねえ」と、ティッシュペーパーに染みた血をしげしげと見やるみなの。「いやいや君の血だぞ」と呆れながら僕。

「どうでしたかねえ。そうかもしれませんねえ」などと、いつものように惚けたことを言った後、みなのはぽんと大きく手を叩き、満面の笑みを浮かべ、

「いいことを思いつきました」ときた。


 これは、彼女が突拍子もないことを言い出す合図だ。

 すわどうなるか、と動向を見守っていると、


「いっそ、舐めてみればわかりますよう。名案です」


 なるほど慧眼を感じさせる言葉が今晩も口から飛び出してきた。

 言葉だけでは平行線で、人間の記憶は曖昧だ。実証する手段があるならそれを利用するというのは、妥当な判断と言えるだろう。

 しかして、この提案にただひとつ問題があるとすれば──。


「だけど、君の血の味は知らない」


「あら? ……そうでした。わたくしも、あなたの血。飲んだことありませんでしたねぇ」


 僕らは、お互いの血の味なんて知らない。


「どうしましょうか」


「どうしようか」


 そうして、いくばくかの沈黙の後、「試してみよう」という言葉が、お互いの口をついてこぼれ落ちた。

 タイミングまでそっくり同じで、声を出して笑い合う。その笑いすら同じで、それすらも面白かった。今の僕たちは世界のすべてが面白く見えていて、ここで箸が転がりでもしたら、きっとそのまま死んでしまう。

 どうも、僕はみなのにあてられてしまっているらしい。

 今回の発言は、そんなにおかしくなかったな、なんて思ってしまっているのだから。


 みなのはベッドからのそりと起き出て、台所から包丁を持ち出した。

 僕は艶のある黒髪がさらりと流れる小さな背に、

「気をつけろよ」

 と声をかける。いつものように転ばれでもしたらたまらない。


「怪我。しないようにな」


「ええ。ええ。わたくしだって、ケガをするつもり、ありませんよぅ」


 今から血を流すというのに、なんとも間の抜けたやり取りだ。それがまた面白くて、僕は笑ってしまった。

 みなのもニコニコと柔らかい笑顔を浮かべながら、包丁を一切の迷いなく自分の手首に据え、大きく振りかぶり──。


「うん。包丁ちょっと貸してくれ」


「順番っこですよう」


「君はそれ、手首ごと切り落とすつもりだろう」


「血が出なきゃいけないですしぃ、そこはまぁー……ええと、結果的にはそうなるかもしれないですけど?」


「そうなっちゃ駄目だろう」


「だめですかねえ」


「だめだ。いいから、貸してくれ」


 爪先から頭のてっぺんまで、手放したくないという気持ちを噴出させながらも、みなのは包丁をそっとベッドの上に置いてくれた。野菜や肉を切ってきたくすんだ銀色の刃が、しょんぼりしたみなのの顔を写している。


 耳の奥からばくばくと心臓の音が聞こえてくる。まるで、心臓が後頭部に移動したかのような錯覚を覚えるくらいだ。自分から提案したというのに、恥ずかしながら僕は緊張していた。

 ──だって、そうだろう? 今までの人生で、誰かを刃物で刺すなんて恵まれた経験を持ってる人間が、いったい全国にどれくらいいるんだ。

 僕はじんわりと汗が滲む手で、木製の柄を握りしめる。手の震えが刃にも伝わってしまうのを、羽虫を握り潰すように力を込めて押し殺した。


「小指。出して」


「小指ですか? はあい、どうぞ?」


 そして、ほんの一瞬。

 みなのの柔らかな指を、空いている左手で優しく包みながら、ほんの数ミリの傷を残すように刃を突き立てた。

 ぽたぽたと、小指から垂れる鮮血がシーツを汚していく。


「んっ……っふ」


「ああ、ごめん。痛かったね」


「ええ……。痛かったです。すごぉく、痛くて。泣いちゃいそうなくらい。……でも、これが生きてるってことなのかなあって。こうして血が流れるのをじいっと眺めていると、生命のメカニスムに感動しちゃいますよねえ。あは。わたしも、ちゃあんと組み込まれてるんだなあ……」


「そうだね。じゃあ……」


 ナイトが姫の手にキスをするように。僕はやさしく、小指を口に含んだ。

 じわじわと流れる血には、巷で語られている錆びた鉄のような味などそうはしない。ほんの少しだけ塩辛い、生暖かい水滴だ。

 鉄錆の味だろうと体温と同じ温度の水だろうと、いずれにしたって常人にとってはそう変わらない。生理的な吐き気を催す、全世界の水をすべて蒸発させでもしない限り飲用水としては用いられないなにかだ。

 それなのに、僕は口を離せないままでいる。

 傷口から流れ出る血液に合わせて、唾液はバカになったようにだらだらと分泌されていくし、顎の筋肉は上手く動かない。


「流れ出た血液は、もう『わたくし』ではないのでしょうか。それとも『わたくし』の一部のままなのでしょうか。わたくしと、わたくし以外を分ける境界は……ああ喋らなくてもいいですよう。ちょっと気になっただけです」


 僕が急いで口を離そうとすると、みなのは一息に言葉を繋いだ。


「たぶん、流れ落ちた時点で、それはもう『わたくし』ではないですよね。ただの赤色の水に変わってしまうんです。生命のかけら、なんて表現は現実を映しません。ただのレトリックです。人間の根本的な構成要素のひとつなのに、そこから離れたらおしまいで──」


 ──だけど、きっととくべつな意味がある。

 そのままみなのの言葉の先を、僕は心の中で反芻した。


「んふ……」


 舌先が傷口に触れてしまった時、みなのは小さく声を上げた。

 傷口は血液よりも鉄っぽく、釘を舐めたような酸味がし──僕は慌てて小指から口を離した。


「ごめん。痛かっただろう」


「いいえ。謝る必要はありませんよう。くすぐったかっただけですからねえ。指先が、じーんじーんって、響いてます」


「そっか」


「そうですよう」


 くったりとした笑顔を浮かべるみなの。その指先は、ふやけた痕が残っている。

 きっとすぐさまに薄れるであろうその皺に、何となく名残惜しさを感じながら、僕はみなのに自分の小指を突きだした。


「あれえ。わたしがやるんですか?」


「順番って言ったろう。みなのの番だよ」


「ですけどぅ……」


 刃の先に血がついたままの包丁を、みなのはおずおずと受けとる。

 これで料理の手際は悪くないのだが、たどたどしさを感じさせる手つきである。


「それに、この形式にはメリットが二つある。ひとつは、みなのが手首ごと切り落とさないこと。もうひとつは、僕が薄皮一枚切らないで終わらせずにすむことだよ」


「あっ……ふふ。もうひとつ見つけましたよう? お互いがおたがいのことをしんじていることが、再確認できちゃえることです。痛いのは痛いですし苦しいです。ですけど、しんじていれば我慢できちゃえます。これって素敵な儀式じゃないですか?」


「なるほどなぁ」


 世間一般的な愛情のかたちを、僕も──多分みなのも、信じていない。

 口触りのいい愛の言葉は詩だとか小説だとかいう名前のカンニングペーパーでいくらだって予習ができる。キスはお互いの口内の雑菌を交換する行為に過ぎないし、そもそも、愛と性欲は本来可分の関係のはずだろうに。

 先生が僕に遺してくれたこの子に対して僕が抱いているのは、きっと、血を分けた子に対する類いの愛情だと思う。もっとも、僕は家族への愛情というのも実はあまりよくわからないのだけれども。

 愛情はどこにあるのか。髪を撫でて、目が覚めるまで隣で寝顔を見つめたいというのは、愛情でいいのだろうか。自分が持っているわずかなもの、そのすべてを彼女へと差し出したいと思うのは、愛情だろうか。

 ──であれば、ふと胸の奥に湧き上がる、大事なものに鍵をかけて独り占めにしたいという衝動もまた、愛情なのか。

 僕には、よくわからない。


「愛の証明か。なんとも難しいね」


「難しいからこそですよう」


 妥協と打算と性欲を混ぜ合わせ、人間はつがいを見つける。そのメカニズムは21世紀の今なおをもってしても動物的なままであり、きっと車が空を走るようになっても変わらない。

 その中に、小指の先ほどは混ざっているであろう愛情の含有量を計量する。なんとも不毛な行為だが、それには抗いがたい魅力がある。

 だって、僕の天秤は自分の抱えている愛情なんて曖昧なものを計れるようにはできちゃいない。愛情の含有量が米粒一つに満たないのか、それとも南アメリカ大陸くらいは埋め尽くせるのか、ちっとも判断が付かないのだ。


「それは、つまり、なんだい? 君の機嫌を損ねてたら、深くまで刺さっちゃうってことかな」


「ふふふ。いじわるさんなことを言うと、手元が狂っちゃうかもしれませんねえ。さ。いきますよぅ」


「ああ間違っていないってこと……っ!」


 僕がしゃべっている途中に、みなのは僕の手をすっと穏やかに取り、小指に刃を突き立てた。

 じんわりとした痛みが、指先に広がる。

 ──いつもどんくさいのに、こういう手際はいいんだなあ。熟練の看護婦さんが注射器を患者に突き刺すような淀みのない動きに、僕は感心している。

 予想していたより、ずっと痛くない。


「じゃあ、失礼しますねえ……ぁむっ」


 みなのは笑顔で、僕の指先を咥える。暖かい粘膜から、みなのの体温が僕の全身へと伝わってくる。そして、僕の熱も指先からみなのへと流れ込み、暗い部屋で、すっかり二人そろって熱に浮かされてしまった。


「んぅぇ……」


 舌先が、新しい傷口をくすぐった。

 もごもごとわずかに動く口とぎこちなく這い回る小さな舌が、どことなく居心地の悪さと──背筋に這い回る、何らかの不適切な感覚を含めたなにかを──感じさせる。

 みなのも、僕の番ではそうだったのかもしれない。


 時計の針の音と、お互いの息遣い。

 どうやらみなのは、僕と同じか、それ以上の時間、指を咥えて話さないつもりのようだ。


「ろひほうはまれふ」


 つぷ、と小さな音を立てて、僕の小指が解放される。

 僕の小指とみなのの赤い唇。その狭間に、てらりと光る銀色の橋が掛かった。


「なんだか、不思議なお味でした」


「そうだね」


「あなたの血だと思えば好きになれそうな気がしますけどう。自分の血を飲むのはちょっといいかなーって。思っちゃいましたねえ」


「そうだね」


「ですよねえ。このティッシュ、ぽいしちゃってもよろしいですか?」


「いいんじゃないかな。汚いしね」


 みなのは、羽虫の死体がこびりついたティッシュをゴミ箱にぽんと放った。

 僕たち二人にとって、それはもう、どうでもいいことだった。

 そしてみなのは、また小さく考え込み、さらりと黒髪を流しながら顔を上げて──。


「……ああっ! いいこと、思いついちゃいましたよう! ほらっ! いー・てぃー!」


 みなのは大きな声をあげると、ぴょんぴょんと跳ねながら、赤色の小球がぽろぽろとこぼれ落ちる小指を、僕の小指と重ね合わせた。

 この間ふたりで見た映画──僕たちが生まれるよりもずっとずっと前の、かなり古典的な映像作品だ──は、確か人差し指を重ね合わせていたはずだけど、僕とみなのにとってそれは重要じゃない。コミュニケーションとは、物事の正当性でなく当事者同士の関係性で成立するものだ。

 みなのにとってはこれが正しいのだから、僕にとってもこれが正しい。


 傷口とは雑菌のたまり場で、他人の血とは人体の免疫系で排除される異物に過ぎない。それを、僕も、もちろんみなのだって理解している。

 だけど、こうして傷口を重ね合わせる行為にも、きっととくべつな意味がある。


「ゆーびきーりげーんまんっ、うっそつーいたらはーりせんぼん、のーますっ」


「僕は一体、なにを守らなきゃいけないんだろうか?」


「あれ? ……うーん? 考えてませんでしたねえ」


「そうか。じゃあ、仕方ないから何かを守ろう」


「仕方ないですよねえ。なにかを守ってくださいねえ」


 細い小指が、糸を繰るように僕の指に絡まる。指先から伝わる彼女の体温は、僕よりもやや高い。

 みなのが思いつかないのなら仕方がないので、僕は、彼女に誠実であることを心の中で約束した。

 わざわざ口に出すのは、少し気恥ずかしい。


「あなたの血肉が、わたしの血肉になって。わたしの血肉が、あなたの血肉になる。ふふ。なんだか、ちょっとロマンチックですよねえ」


「そういうものかな」


「そういうものですよう。わたくしの世界の最大公約数はあなたとわたくしだけなんです。世界はそれがすべてです。それでいいんです。それだけでいいんです」


「……そうか。だが、明日は包丁を買いにいかないといけないよ。衛生的にも感情的にも、この包丁では食事は作れない」


「そうですねえ。大切にしましょうねえ」


 何十部屋とある大豪邸の、わずか一室を使って。

 僕とみなのは、みなののお母さま──先生の蓄えを食い潰すように生きている。


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― 新着の感想 ―
[良い点] これぞふぉーせぶん節!ってかんじですね。 イチャイチャ系は苦手で読めない人間なのですが、これはしっかり読めました。 素敵な作品をありがとうございました。
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