第六話 アンドロイド・ガール 後編
森林公園の片隅に設置された水道のところへとボロ子を連れて行くと、石山は手元にあったハンカチを蛇口から出る水で濡らし、それで汚れたボロ子の顔や腕を拭い、ついでに服に付着していた芝を出来る限りはたき落としてやった。
「本当にごめんな……俺らの誰か一人でもいいから、ちゃんと見張っとくべきだったんだよ。あ、ちょっと屈かがんで。髪にまだ草がくっついてる」
「過ぎ去ったことは仕方ないですよぅ。あばよ昨日、よろしく未来ですよぅ!」
最初に話した時からずっと気になっていたが、彼女の発言に挟はさまる妙にマニアックな知識は一体何処から仕入れているのだろうか。実に謎だった。
「それよりも、だんちょーサンはどうしてあんなに怒っていたですよぅ? だんちょーサンはボロ子のことが嫌いなんじゃないですよぅ?」
「……お前、そんな風に思ってたの?」
「ボロ子と話しているときのだんちょーサンは、何かイヤなことを思い出している顔ですよぅ。真琴サンが遠く離れたご家族と話をする時も、何度もそういう顔をしていたですよぅ。だからボロ子は、だんちょーサンはロボット嫌いだと思っていたですよぅ」
石山は素直にその観察眼に感心した。彼女は決して何も考えていないワケではないのだ。むしろ人一倍、他人の反応を見ている。それが、どうしてああいう言動に直結するのかは不明だったが、少なくとも見た目ほど彼女はバカではないのだろう。
「お前の持ち主だった栗原真琴さん、四年前に歩けなくなってから、大変だったんだってな」
「そうですよぅ。社長サンとして頑張ってきたのに、怪我した途端にポイされたと言っていたですよぅ。この広い世界中でたった一人だけですよぅ。ボロ子とは一人ぼっち仲間ですよぅ!」
そう話すボロ子は相変わらず笑顔のままだったが、さっきの会話をした後だと今のこの態度も素でやっているのか、それとも悲しい気持ちを隠すためにあえて演じているのか、どうにも判断がつきにくいところがある。
警察の調べでも、栗原真琴という人物がこの数年かなり不遇をかこっていたことは分かっていた。四年前、いわゆる『東神奈川超常生命体事変』に巻き込まれて怪獣に襲われたことによる怪我で歩行能力を失ってからというもの、彼の生活状況はそれまでとは一変した。今回事件現場となったあの家に半ば強引に隠居させられ、家族親類の訪問は殆どなく、また雇ったメイドなども殆どすぐに辞めさせてしまったという。
電動車イスやW24などを使って辛うじて暮らせてはいたものの、その生活は孤独そのもので、ハッキリ言ってしまえば「惨め」の一言だった。数年前までは、そのあまりの偏屈ぶりが近所で噂になるほどだったという。
だがしかし、石山はボロ子を見ていてひとつ確信したことがあった。
「……栗原さんはきっと、自分が一人ぼっちだなんて思ってなかったよ。だって、お前は栗原さんの家族みたいなものだろ?」
「家族! 家族ですよぅ!?」
ボロ子はその場にシュバッと立ち上がると、目をキラキラ輝かせた。
やっぱりな、と石山は思う。このディアーロイドは、とにかく全てが真っ直ぐなのだ。色々な物に反応しては、頻繁に素直に感動を表明する。ワクワクを隠さない。少なくとも、傍から見る分にはそのように感じる。けれども何も考えていないかというとそうではなくて、実際は人間の心の機微を敏感に察知しては、それを非常に気にかけているのだ。
そしておそらく栗原真琴にとっては、そういった彼女の平素の言動が大きな励ましとなっていたのだろう。実際、ボロ子と共に暮らし始めたと思われる時期からこの一年ほど、彼の近所の人間に対する態度は徐々に軟化してきていたそうだ。
家族を含んだ周囲の人間にことごとく見捨てられ手のひらを返される中で、ボロ子という存在は栗原真琴の内側で大きな位置を占めるようになっていたのだろう。そうでなければ最低でもこの一年間、散々失敗を重ねて自宅に被害をもたらした、『製品』という視点から言えば確実に欠陥品である彼女をずっと手元に置き続ける理由がなかった。
「ボロ子と真琴サンは家族! 家族~ですよぅ!」
留置場で会った時のように、嬉しそうにその場でピョコピョコと飛び跳ねるボロ子。彼女を見ていると、なんだか石山まで元気づけられるような気がして、微笑ましくなった。だから、彼女には真実を話しておこうと思う。こんな彼女に、小川に嫌われていると思わせ続けておくのは気の毒だったからだ。
「小川さんの話だけどさ……あの人は、お前のことを嫌ってなんかいないよ。ただちょっと、事情があってね」
「ですよぅ?」
ボロ子が小首を傾げて石山のほうを見てくる。何処からどの程度まで教えるべきか迷ったが、大まかに要点だけ抜き出して説明すれば事足りるだろう。
「お前たちディアーロイドが作られる少し前……今から三年前にね、この街で警察官が何人も殺される事件があったんだ。その捜査をしたのはこの街に来たばかりの俺と、ベテラン刑事の小川さんだった。俺たちは最初の頃はぶつかり合ってたけど、最後はなんとか協力して犯人を追いつめた。だけど……」
石山はそこから先を言いかけて、一瞬だけ言葉に詰まった。言うべきかどうか、今更迷っても仕方ないのは分かっているが、ボロ子を前にするとどうしても言い淀んでしまう。が、それを語らねば彼女は小川に嫌われていると思い続けてしまうだろう。
それはボロ子にとっても、そして小川にとっても悲しいことに違いなかった。
石山は、決意した。
「落ち着いて聞けよ? その犯人な………ロボットだったんだよ。ロボットが人間を殺して街中を回ってたんだ」
「ぎょぎょっ、ですよぅ!」
ボロ子が今度こそ驚きの声を上げた。その眼が悲しみに染まっているのが分かる。いつの間にか、彼女のそういった表情を見ると、同様に悲しく感じるようになってしまっている自分がいることに、石山は気が付いた。
「で、でもそれなら、どうしてボロ子が嫌われないですよぅ……? だんちょーサンたちは、ボロ子が人殺しだと思ってるんじゃないですよぅ?」
それは、ごく自然な疑問だった。
この街のロボットがかつて、殺人を犯した。それと同じような状況がまた目の前に起こっている。そして小川は、その事件を直接捜査した刑事。これだけの条件が揃っていれば、小川がロボット嫌いでないと考える方が奇妙とも言える。
だがしかし、石山はまだ肝心の部分を話していなかった。
「実を言うと、その事件には裏があってさ……。そのロボット、本当は自分じゃ人殺しなんてしたくなかったんだよ。だけどそうせざるを得なかった。イカれた反ロボット主義者が意図的にそのロボットの機能を狂わせて、無理やり命令に従わせてたんだ」
ボロ子は、一言では名状しがたい表情になっていた。ショックを受けているとも言えるし、不思議そうに考え込んでいるともいえる。こういうのを『困惑顔』と言うのかもしれないと、石山はボロ子を見つめながら一人思った。
そうしてしばらく黙りこくった後、やがて考えを整理し終えたらしいボロ子が、おずおずとその口を開いた。彼女にしては珍しく遠慮えんりょがちな様子である。
「ですよぅ……。でもボロ子、そんな事件聞いたこともないですよぅ……」
「……結局その後、DR技研が事実の殆どを隠ぺいしたからな。あちこちに圧力をかけてさ。理由はどうあれ、ロボットが殺人に関わったってこと自体、認めたくなかったんだろ。今回も多分同じだよ」
「ですよぅ……」
ボロ子は結局困った顔に逆戻りした。必死に今聞いた内容を反芻しているのだろう。しかし石山たちですら、未だに説明に窮することの多い複雑な事件である。正直、ここまで簡略化して教えられたのは自分でも驚きである。
第一、あの時のことは石山にとっても苦い思い出なので、出来ることならばあまり思い出したくはなかった。間違いなく、小川にとってもそうだろう。
「小川さんってさ、ああ見えて元々あんま気が強いタイプじゃないらしいんだよね。だからきっと、嫌がることを無理やりやらされるってのは、あの人にとっても他人事じゃないんだよ。……小川さんがその事件のとき、何て言ったか分かるか?」
「なんて言ったですよぅ……?」
「それはね――」
逆らうこともできないなら、何のための感情だバカヤロー!
「――ってさ」
ボロ子は今や完全に黙り込み、石山の話に聞き入っている様子だった。いや、石山の話にというよりかは、その話に出てくる小川という人物についてだろう。初めて聞く者にとっては、あまりにも意外過ぎる小川の一面だったと思う。
よく見れば、ボロ子の瞳の奥の色が目まぐるしく七色に変化していた。これは実際に目の中にライトが組み込まれていて、何か大きな情報を整理しているときやディアーロイドの感情が大きく動いたときなど、分かりやすく色が変化する仕組みになっているのである。石山はそれを眺めていると、何故か優しい気持ちになる気がした。
「だからさ……小川さんがお前を見て嫌な顔をするとしても、それは絶対にお前が嫌いだからじゃない。無理やり命令を聞かされた挙句に壊されちまった、可哀想なロボットのことを思い出すからなんだよ」
「ですよぅ……よく分かったですよぅ……」
「おぅ、どうしたお前ら」
その時丁度背後で声がして、振り返ると小川が戻ってきたところだった。ヤクザの如きがに股また歩きで、のっしのっしと芝生の上を歩いてくる。既にその手に拳銃はないから、とっくの昔に懐にしまったのだろう。どういう訳だか、苦虫を噛み潰したような表情をしているのが気になった。
「……ったく、逃げ足の速い連中だぜ。今度会ったらタダじゃおかねえ」
どうやら少年たちには逃げられたらしい。小川にしては珍しい結果だったが、昨日の今日だから案外それで良かったのかもしれない。あれ程の恐怖を味わえば、それだけで少しは彼らも懲りることと思う。多分。
「結局、引き金は引かなかったんですね」
「フン」
小川はつまらなそうにそっぽを向いた。
結局小川が走っていった方向から銃声らしい音は一切しなかったから、まあ小川なりに一線は守ったのだろう。本当は少年相手に銃を構えて街中を疾走するという時点で色々とアウトなのだが、小川の普段の行動から考えればむしろカワイイものである。少年らが下種な振る舞いをしたのは事実なのだから、血を見なかっただけ有難いと思ってもらおう。
「だんちょーサン!」
ボロ子が急に、小川の前に飛び出した。手錠をはめたままなのでやや前傾姿勢になっているが、そのまま彼女は小川の顔を下側から覗き込んだ。小川は少し怯んだ様子で立ち止まると、徐々に近づいてくるボロ子から離れようと後ずさりする。
「……なんだよ」
「色々とお話を伺ったですよぅ! だんちょーサン、見た目よりずーっと優しい方ですよぅ!」
「おい石山、お前まさかコイツに……」
「さ~て、何のことでしょうね」
「……ったくこの野郎、余計なことしやがって」
面倒くさそうにバリバリと頭をかきむしる小川だが、石山は敢えて素知らぬ顔を貫き通した。別にいいではないか。本人は照れくさがるだろうが、番長が雨の中に一匹放置されている子犬を助けていたら、大々的に宣伝はしないまでも事実として知られること自体は構わないハズだ。最終的にその番長を見直すかどうかは、情報を受け取った本人次第である。
まあ、この様子では見直すどころか惚れ込こんだと評するべきだろうが。
「だんちょーサン!」
「チッ、やりにくくて仕方ねえよ」
そう言うと小川は、何を思ったかポケットから鍵を取り出すとそのままそれをボロ子の手錠の鍵穴に差し込んだ。
「え、ちょ、小川さん!?」
「うるせえな、今更ゴチャゴチャ言うんじゃねえよ」
問答無用な様子だった。カチャリ、と音がしてボロ子の両手から手錠が外れる。
いきなり自由の身にされて、一番驚いたのはボロ子本人らしかった。目を丸くして小川のことを見つめている。小川は外した手錠をポケットに仕舞いながら、何とか言葉を探しては口に出そうとした。
「あー……なんというか俺は、お前は被害者、のほうだと思う。だから手錠をかけてると胸糞が悪くなるんで、こうしてやる。でも、その代わり逃げるんじゃねえぞ。お前にふざけた真似した連中を捕まえるためには、お前の記憶のデータが色々役に立つかもしれないんだからな。分かったか?」
「分かったですよぅ、だんちょーサン!」
解放されたばかりの手をシュバッと頭上に掲げ、ボロ子は元気の良い返事をした。しかしこのディアーロイド、ノリノリである。小川は困ったように俯いてから、彼女に向かってかなり強調するように言った。
「あのな、何度も言うが俺は団長じゃねえ。小川だ。お・が・わ! 分かるか?」
「アイ・アンダスターン! ですよぅ!」
小川はその日、初めて額に指をあてて力無くその場にへたり込んだ。顔を上げぬまま、ボロ子に向かって指をさす。
「ねぇ石山、こいつホントに分かってんの? 分かってんだよね? ねぇ?」
「あはは……」
石山もこれには苦笑いするほかなかった。小川をダウンさせるとは、ボロ子は本当にとんでもない存在である。ますます、栗原真琴という人物への尊敬の念が高まった。
しかし、こうしている場合ではない。
交差点の渋滞は既に到着した交通課によって解消され、性質の悪い小僧たちも追い払った。いい加減に本来の目的である、ロボット検査センターに向かわねばならない。到着予定時刻はとっくの昔に過ぎていたのだ。
「それじゃ、そろそろ……」
「あ……れ……?」
石山が小川と共にボロ子を連れてエイトマンに戻ろうとしたその時、突如として異変が訪れた。ボロ子の瞳の中の色が、急激に変化し始めたのだ。
それは最初、普通のデータの読み出しか何かだと思った、あるいは、小川と通じ合えた喜びが表面に現れたのかとも。だけどすぐにそれは、違うと分かった。ボロ子が瞬く間に不安そうな声を発して、頭を抱えるようになったからだ。
「おかし……い……ですよぅ……何かが……何かがくる……ですよぅ……」
石山が、続いて小川が、ボロ子に生じた異変に気が付いた。小川はすぐにボロ子に近寄って肩と背中に手を置くと、まるで気分のすぐれない人間相手にするかのように、優しくさすってやりはじめた。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
「む、虫が……っ」
そう呟くなり、ボロ子は奇声を放ってその場に飛び上った。仰天する石山たちの目の前で、その身体が地面に落下して音を立てると、たちまち叫び声を上げながらゴロゴロと、右に左に転がりまくった。今度はおどけているのではない――明らかに苦しんでいる。
「怖いですよぅ! 来るなですよぅ! 虫が! 虫が這いあがってくるですよぅ!」
「おい、どうした! 落ち着け、落ち着けボロ子!」
小川が初めて彼女の名を呼んだ気がした。ボロ子を取り押さえようとしたが、その動きが余りにも激しすぎるのか中々触れることが出来ない。
そうこうするうちに、ボロ子はバネでも使ったかのように立ち上がり、そのまま喚わめき続けながら狂ったような動きで公園の外へと向かい始めた。小川の顔色がここへきて完全に変化し、彼は前に飛び出すと同時に石山に告げた。
「押さえろ、石山!」
「はい!」
言われるまでもなく石山も動いていた。全速力で駆け出すと、二人で殆ど同時にボロ子に向かって飛び掛かる。彼女を信頼することにした矢先になんとも皮肉だが、石山たちは人間の犯人を捕まえる時の如く、ボロ子の身体を全力で地面の上に押さえつけていた。
しかし凄まじいパワーだった。一瞬でも気を抜けば、数メートル離れたところに立っている樹木の幹まで吹っ飛ばされそうな、そんな膂力である。石山も小川も全力全霊だった。石山は時々顔を上げ、自分たちの周囲に何者かが隠れていないか、必死になって探した。
芝生のスペースには、今は誰もいない。樹木の影にも、人の姿は一切見えない。どこだ、一体どこに隠れている。出てこい卑怯者め。
そうこうしている間にも、ボロ子は暴れようとし続けていた。そんな彼女に向かって小川は犯人を見つけることさえも忘れて、懸命に訴えかけ続けていた。
「大丈夫だ、大丈夫だから……大人しくしろボロ子……っ!」
その言葉が通じたということなのかは知らないが、徐々にボロ子の抵抗力は弱まっていった。そうしていつの間にか、全く身動きしなくなった。大人しくなってから初めて気が付いたが、ボロ子のボディは火傷するかと思うほど凄まじい熱を放っていた
* * *
同時刻。ボロ子たちのいる公園から、少し離れたところにあるC地区内のビル解体現場。
そこにあの、紅焔の姿があった。
剥き出しのコンクリートの柱や壁で四方を囲まれたそこは、まるで何かの儀式に用いる神殿のようにも見える。殆ど灰色一色の色あせた世界に、敷地の外側から冷え切った風が絶え間なく吹き込んできては乾いた音を立てる。周囲に殆ど生命の匂いがしなくて、気持ちが悪い場所だ、と紅焔は思った。
紅焔はゆっくりと解体現場の一階部分を歩き回っていたが、やがてある場所で立ち止まると、冷え切った真っ平らな床に手を置いて、静かに呟いた。
「……ここにいたか」
と、それと全く同じタイミングで何処からかサイレンが聞こえてくると、建物のすぐ外までやってきて停止した。回転する赤いランプが、建物の外側から差し込んではコンクリートの柱を何度も通過する。紅焔は、ハッと後ろを振り返った。誰かが乗ってきた車から降りてこちらにやってこようとしている。紅焔は咄嗟に破砕されたコンクリートの山の影に飛び込んで息を潜めた。
「Cー4地区にある廃ビルの前に到着しました。これより、住民より通報のあった不審人物の捜索に当たり…………駄目だこりゃ、全然通じないよ」
「センサー見てみろよ、物凄い電磁波が出てる。これじゃ通じるワケないって」
「畜生、こんなところにコソコソ隠れやがって」
そんな会話がしてから間もなく、薄暗い建物の内部へと制服姿の警察官が数名、周囲に警戒する素振りを見せながら入ってきた。各々、手には懐中電灯やら警棒やらを携えている。紅焔は彼らの様子を物陰からじっくりと観察した。
「出てきなさい、住民から通報があった。隠れているのは分かっているぞ!」
紅焔はその声に、どことなく不安か恐怖の色が混じっていることを感じ取った。まるで生まれて初めて山中に分け入った若い狩人のようだ、と思った。きっと彼は、こういった仕事についてまだ日が浅いに違いない。
そんなことを考えていると突然、紅焔の足元から微かに振動が漂ってくるのが分かった。それは瞬く間に大きくなり、やがて建物全体へと波及して薄明かりの中に大量のホコリを舞い散らせ始める。
まずい、と紅焔は思った。彼は即座に物陰から飛び出すと、離れたところに立っている警官たちに向かって全力で叫んだ。
「いけない、すぐにここから逃げるんだ!」
警官たちは急に現れた男の姿に僅かだけ驚いた様子を見せたが、すぐにそんな暇もなくなった。建物全体が、今度こそ危険と思われるレベルで揺れ始めたからだ。局所的に、震度五から六ぐらいの巨大な揺れが発生していた。
迷ってはいられない、と紅焔は瞬時に警官たちに向かって飛び掛かった。
「抵抗をやめろ、さもないと……」
そう言って腰のホルスターから拳銃を取り出そうとした警官たち数名を、紅焔はあっという間に抱え込むと建物の外に向かって転がり出た。直後、それまで紅焔たちのいた一階のフロアが音を立てて崩壊した。続いて、脆くなっていたと思われる廃ビル全体がメキメキと折れ曲がりながら縦方向に潰れていく。
唖然とする警官たちに比して、紅焔は落ち着いた表情をしていた。いや、落ち着いているというよりは努めて冷静にしていたといったほうが正しい。本当はその内側は、烈火の如き怒りで満ち溢れていたからだ。
廃ビルが崩れても、襲い来る揺れは止まなかった。
やがてその揺れが最高潮に達したとき、何かがガレキの山の中から顔を出した。それは一見すると白銀色の槍の先端のようにも見えた。しかし見る見るうちに巨大になっていくそれは、いつしか周囲の家屋よりも巨大なその全貌を表していた。巨大な円錐状のソレは甲高い作動音を響かせて高速で回転し続けていた。
それに続いてさらに巨大な何かが、大地を引き裂いて地上に出てこようとしていた。ガレキの山とその周辺の地面がメリメリとひび割れ、続いてどんどんと盛り上がっていく。とうとうその場にへたれていた警官たちは、耐え切れなくなって悲鳴を上げながら、泡を食ったように自らの足で逃げ出した。乗ってきたパトカーの一台は、とっくにガレキに潰されて使い物にならなくなっていた。唯一無事だったもう一台のパトカーも、地面を突き破って出現した巨大なクレーン車のアームのようなものでたちまちグシャリと押し潰される。
紅焔はゆっくりと後退しながら、その姿を見て憎々しげに言った。
「現れたな……化け物め!」
応えるように、地下から出現したその巨大な物体が耳障りな叫び声をそこら中に響かせた。警官たちの落としていった携帯式の電磁波探知機が、たちまちメーターの針が振り切れる形でひとりでに破壊された。
いま、悪夢の巨体が鎌首をもたげようとしていた。被った土を振り落とし、鋼のボディが冬の日差しを浴びて鈍く煌きらめいた。