第二話 ファイヤーボール・ベテラン
パァン、という破裂音と共に畳二枚分はありそうな洋服店のショーウィンドーが粉々に砕け散った。突然の出来事に悲鳴を上げ、頭を抱えてその場に伏せたり、泡を食って逃げ出す人々。まるで蜂の巣をつついたようなパニックに陥る商店街の中央を、爆音を立てて蛇行する一台のオートバイがあった。
操縦者は遠目にもそれと分かる、十代後半ぐらいの若い男だった。その左手には驚くべきことに、黒光りする一丁のアサルトライフルのようなものが握られている。
「キャハハハハ! 逃げろ、逃げろ!」
耳障りな甲高い笑い声を上げたその男は、運転の傍かたわら持っていたライフル銃をバイクの進路脇に林立する人や建物に向けると、躊躇ためらうことなくその引き金を引いた。エアーが噴き出す音に合わせて長い銃身の先端からプラスチック製の丸い弾丸が一秒間に二十発近く撃ち出され、ある店の店頭に並べられていたスチール缶入りのホットドリンクを多数、粉々にして吹き飛ばした。
なんとその男が撃っているのはガス銃、つまりはエアガンであった。玩具用に作られた模造品とは到底思えないほどの破壊力を発揮しているそれだったが、実際はそれほど驚くことでもない。ある程度の知識さえ持っていれば違法改造により、遊戯銃であっても人間を殺傷できるぐらいの威力を持たせることは可能なのだ。
尤もっとも、モラルを兼ね備えた愛好家であれば、たとえ可能であってもそんなことはしないのが暗黙の了解である。が、いまバイク上から改造品を乱射するその男は、そんなものはカケラも持ち合わせていない様子だった。
自身がもたらす破壊に酔いしれケタケタと笑う若い男は、一旦引き金を引く手を緩めると、両手でハンドルを握って商店街の出口にて急カーブをかけた。周囲の光景が洒落しゃれた外観の青空商店街から、一気に近代的な様相のコンクリートジャングルへ移り変わる。当然赤信号だろうとお構いなしだ。
とそこへバイクの背後から急速に接近してくる一台の車があった。警視庁・多摩ロボットシティ警察署が誇る最新鋭のエレクトリックパトカー・パトロイド8、通称『エイトマン』だ。白黒のボディに赤いパトランプを煌めかせつつ、若者の駆るオートバイに追いすがろうとしている。その運転手もまた、若い男の警官だった。
『本部のデータ照合。四日前、旧ナガヤマ付近で逃走した車両のものと一致します』
「分かってる……今度こそは逃がさない!」
エイトマンに搭載されたAIが発する無機質なガイド音声に返事をしながら、若い警官――――石山和輝は右足で力強くアクセルを踏み込んだ。エイトマンの走行速度が一気に上昇し、若者のバイクとの距離を詰める。100%電気自動車の難点は静かすぎて歩行者が危険を察知できないことであると言われてきたが、これだけサイレンがけたたましく鳴っていれば、実質的にはエンジン音が響いているのと同じことだった。
『緊急車両が通過します。緊急車両が通過します』
エイトマンの音声は律儀りちぎにも、先程からずっと車外に向かって警告を発し続けていた。本来こういう警告放送は助手席にいる警官が行うものなのだが、エイトマンの場合はAIが自動で全部やってくれる仕組みになっている。
「“本部から特捜石山、本部から特捜石山! 逃走車両の進路を報告せよ!”」
「こちら特捜石山! 被疑者はロボ・ストリートを直進。まっすぐ東に向けて逃走中。現在、Bー2地区・第三小学校前を通過。本部より応援乞う! どうぞ」
「“本部了解。Cー8から旧ナガヤマ方面にパトカー隊を送る。終わり”」
無線越しに、ロボットシティ署と石山の間で情報交換が行われる。ロボ・ストリートというのは街の中心部を東西に突っ切る、大型の幹線道路の通称である。その東端は多摩川の付近から西端は神奈川県との県境にまで通じており、文字通り多摩ロボットシティの大動脈としての役割を担っている。
上下ともに二車線分を有するロボ・ストリートは現在、それほど混み合ってはいなかった。しかし若者の運転するバイクは石山の追跡を振り切ろうと、既に制限速度を三十キロ近くオーバーしていた。このままでは、何も知らずに脇道から顔を出した一般車両が驚いて事故に陥りかねない。それに加えて若者が携帯している改造ガス銃の乱射により、四日前と今日、かなりの数のケガ人が発生していた。早急に停車させ、逮捕せねばならない。
『目の前のバイク、停まりなさい。繰り返す。目の前のバイク、停まりなさい』
エイトマンの音声が、今度はバイクを運転する若者に向かって警告する。
が、結局は形だけの警告である。そもそもこんな真似をする輩が大人しく指示に従うはずもなく、それどころか若者は持っていたガス銃を背後に向けると、バババと音を立ててパトカー目掛けて攻撃を行ってきた。
警察車両だけあって、エイトマンの車体は特別に強力な合金で出来ている。勿論窓ガラスに至っても特殊な強化性となっており、いくら威力が高かろうがBB弾の直撃ごときではビクともしない。それでも条件反射というものか、石山はフロントガラスが音を立ててプラスチックの弾を反射するたびに、少しだけ目を閉じて身をすくめてしまった。
その隙に若者はまたもバイクの速度を上げ、石山が駆るパトカーとの距離を離す。
「クソ、無茶苦茶しやがって」
悪態をついてみせるものの、一度空いた距離はそう簡単には縮まらない。おまけに、あまり追跡のための速力を上げ過ぎると、今度は石山の方が事故を誘発してしまう危険性があった。こうなってくると始末が悪い。
本部からの応援も間に合うか分からなかった。このままでは先日逃げられたときのように、細かく入り組んだ脇道に入り込まれる可能性さえある。
どうしたものかと石山が考えあぐねていたその時、無線機が再び男の声を吐き出した。
「“…………おい石山、俺だ。聞こえるか”」
「小川さん⁉ 今どこに……」
規定のフレーズを平然とすっ飛ばして直接話しかけてきたその声の主を、石山は一瞬にして把握はあくした。それぐらいよく知っている相手なのだ。どうでもいいことなのだが、低くて年季の入った中年風のその声を聞くと、まだ子供っぽさが残る石山の声色の甲高さが際立って、妙に恥ずかしかった。本当にどうでもいいことだが。
「“とぼけんのは後回しにしろ。いいか石山、お前のパトカーから今俺のいる位置が分かるはずだ。他の連中と協力して、バイク小僧をそっちに追い込め。あとは俺が何とかする”」
「何とか……って、小川さん今度は何する気ですか⁉」
「“ゴチャゴチャ言ってる暇があんのか? またその馬鹿を逃がしてみろ……今度はケガ人が出るだけじゃ済まないかもしれねえんだぞ”」
石山はしばし逡巡した。小川の言い分は確かに的を得ていた。犯人の若者は明らかに愉快犯の類だ。ここで逃がせば、また数日以内に出没して犯行に及ぶだろう。バイクに乗っていないタイミングで捕まえられればいいが、若者はかなり土地勘がある上に悪知恵が働くので、確実とは言い切れない。
それに引き換え小川の指示通りにすれば、数十分以内にはほぼ間違いなく犯人を確保することが可能だった。これはもう、経験で分かる。この数年間、小川と共に様々な事件に関わってきた身として、そのことは嫌というほどよく理解している。小川という男はある種の野性児だ。その判断は時として本部の判断を上回る。
が、同時にもうひとつ分かっていることがある。それは……。
「“これ以上気の毒な婆さんを増やしたくなかったら、とっとと決断しろ、石山”」
その言葉を聞いたとき石山の思考が一瞬途切れ、代わりに脳裏にある老婆の弱々しい微笑みが浮かんできた。先日、道端を歩いていたら突然犯人のガス銃で撃たれてしまった、可哀想な被害者のひとりだ。名は確かトシエといっただろうか。
小川とともに見舞いに行った病室で見せられた、痛々しい包帯姿と自分たちを逆に気遣おうとする優しげな態度に、胸に走ったあのチクリとした痛みを石山は思い出した。
そしてその記憶は、石山にある決断をさせた。
「……了解。被疑者を十八号沿いの廃工場に追い込みます。どうぞ」
それを聞いて、無線の向こうにいる小川が満足げな声を上げた。
「“上出来だ、石山。お前の分も仇かたきは討っといてやるから、安心して待ってろ”」
「ちょっと小川さん? 一応言っときますけど、手加減し――」
「“じゃあな”」
「あっ、ちょっと⁉ 聞いてますか、小川さん! お願いだから加減してくださいよ! 小川さん⁉」
返事はなかった。向こうは完全に通信をシャットダウンし、今や完全に暴走バイク男に対する迎撃態勢に入ったようである。
本当に大丈夫かな。石山は心配になってきた。
小川という男について経験上分かっている、もうひとつのこと。
それは、小川が本気で逮捕しようとした犯人は決して無事では済まない……ということである。
やり過ぎなきゃいいけど、と一抹どころではない不安に駆られつつも、石山は小川から指示された通りのことを本部を介して、応援に向かってきてくれているハズの交通課のパトカー隊に伝達した。
* * *
ここまで来ればもう安全だ、とオートバイの速度を緩めながらリョータは思った。
低能な警察連中はパトカーを何台も繰り出してリョータのことを捕まえようとしていたが、所詮自分の敵ではなかったようだ。どれだけ高性能か知らないが、幅一メートル前後の脇道の奥までは流石にパトカーで追ってこれまい。降車して直接足で追って来ても同じことだ。この廃工場の一帯は自分の庭である。警察の死角になりそうな場所などいくらでも知っているし、自宅がある街の南部への抜け道だって大量に確保してあった。
警察ごときに自分は捕まえられない。自分はこの街で最強のライダーで、ガンマンなのだ。リョータを取り逃して悔しがる連中の顔が目に浮かぶようだった。
数日待ったら、今度は街の西側で暴れてやるつもりだった。改造したガス銃の威力は予想をはるかに超えていた。もっと撃ちまくりたい。確か街のあちら側では最近、近隣の小学生たちが共同で花を植えて作った『レインボー花壇』なるものがお披露目されていた。そこにある花をひとつ残らずこの銃で吹き飛ばしたら、どんなにか気持ちがいいだろう。ハナタレ小僧どもの泣き喚く姿が今から見ものだった。
一人ほくそ笑むリョータははやる気分を押さえられないまま、鼻歌など歌いつつ左手に見えた古い自動車整備工場の角を曲がった。
すると、驚いたことにそこに一人の男の姿があった。
リョータの乗るバイクから五十メートルかそこら離れた車道の真ん中に、男は立っていた。遠目に見ても四十歳ぐらいの人物に思えたが、映画の中にしか登場しないような真っ黒なサングラスを装着していたため正確なところは分からなかった。
ぷっ、とリョータは噴き出した。
男の格好が陳腐だと感じたからだ。薄汚れたロングコートに、サングラス。まるで物語の中に出てくる特命刑事だ。私服警官か何かだろうか? ここに先回りしたことは褒めてやらないでもないが、所詮はそれだけのことだ。いくら風貌だけカッコつけてみたところで、リョータの敵ではない。こちらには急加速性能を持つオフロードバイクと、超強力な改造ガス銃があるのだ。それに対して相手の男は丸腰だった。警察なら拳銃のひとつでも隠し持っている可能性はあるが、取り出す暇など与えない。速攻で撥ね飛ばしてやる。
リョータは迷わずアクセルを全開にすると、幾度かの空ぶかしの後一気にスピードを上げ、車道の真ん中に立ちはだかるグラサン刑事目掛けて一直線に突撃していった。リョータが運転するバイクと刑事との距離が一瞬で縮まる。刑事は即座に横っ飛びになってバイクの進路から退避した。
ざまぁみろ、とリョータは思った。
だがその瞬間、刑事の手には既にスライド式の自動拳銃が握られていたことに、リョータは気付けなかった。実のところ、その刑事は最初からリョータの行動を予測し、そして発砲する前提でそこに立っていたのである。
かなり暴れたとはいえ、リョータにとってこれはいわばゲームのようなものだった。それも相俟って、まさか外見が十代の犯人相手に銃撃を加える前提で待ち構えている警官がこの日本にいようなどとは、流石のリョータも予想しなかったのである。
しかしサングラスの刑事に、そんな常識は通用しなかった。刑事は手にしていた拳銃で即座に狙いを定めると、一切の躊躇なくその引き金を引いた。正確には、バイクの下部に露出したエンジン部分目掛けて一直線に。
バスン、という何かの炸裂さくれつする音が尻の下で聞こえた気がした、
次の瞬間、気化した燃料が膨張し燃焼する音とともに、リョータの乗っていたバイクが内側から爆発した。
「うわああああああっ!」
爆発の勢いでリョータの体は座席ごと空中に放り出された。体が何度も回転する。そのまま手足をジタバタしているうちにリョータの体は高度を下げていき、やがて錆びついた工場の壁際にあった鉄くずの山の中に落下した。
落下の衝撃で、そこに積まれていた古いベアリングなどが音を立て散らばった。傍から見ると一種のギャグのようにも見える光景だったが、宙を舞ったリョータからすればこれっぽっちも冗談で済む話ではない。
全身に痛みを感じながらゴミの山から転げ出ると、すぐ前の地面に自分の改造ガス銃が落ちていた。慌ててそれに手を伸ばしたリョータだったが、手が届く寸前に再び銃声が鳴り響くと、その眼前でプラスチック製の銃身が木端微塵こっぱみじんになった。
思わず手をひっこめるリョータ。恐る恐る顔を上げると、そこにはあのサングラスをかけた私服刑事が仁王立ちして、最初のものと合わせて二丁の銃口をこちらに向けてきていた。一応目元は隠れているハズなのに、何故か凄まじい眼力で睨にらみ付けられているのが分かった。
「な、なんだよ……」
「……調子に乗んなよクソガキが。テメエの所為で一体何人怪我したと思ってんだ? 新しいオモチャ買ってもらってはしゃぐ幼稚園児かよ。パンパンパンパン、プラスチックの弾なんかばら撒まきやがって。人に向けて撃っちゃいけませんって、説明書に書いてなかったか? それともその程度も読めないぐらいバカなのか? あぁ?」
「……へっ、別にバカじゃねーし。幼稚園児でもねーし」
リョータは少し頭に来ていた。たった今お気に入りのバイクを吹っ飛ばされた上に、こんな見ず知らずの、それも時代遅れのダサい格好をしたオッサンに、バカ呼ばわりを受けている。上から目線でものを言ってくることが特に気に入らなかった。普段から背が低いのを気にしているリョータにとって、幼稚園児呼ばわりなどは屈辱以外の何物でもない。
それでも、サングラスの刑事はお構いなしだった。
「じゃあ何だ、小学生か? どっちも似たようなもんだろうが」
「違うっつってんだろーが! 大体俺は人間なんか撃ってねーし!」
「……あ?」
言ってる意味が分からん、という顔を刑事がした。その様子がたまらなく愉快ゆかいで、リョータは思わず適当なことをまくし立ててしまった。
「俺はロボットしか狙ってねーっつってんだよ! あいつらは人間の役に立つのが仕事だろ? だったら射撃の的になるぐらいどーってことねーじゃねーか。人間のフリしてたって、所詮は機械なんだしよ。どうせ痛いなんて思ってねーよ!」
「…………なるほど。そりゃ確かにそうかもな」
すると突然、何を思ったか刑事が構えていた銃を二丁とも下ろし、静かに自分のコートの奥にしまった。
おっ、とリョータは思った。もしかしてこの刑事、ロボット嫌いか?
だったら上手く言えば見逃してもらえるかもしれない。リョータがそんな甘い考えを抱いていると、刑事は再び彼を見下ろしながら言った。
「だがよ、お前確かナガヤマの方で病院から帰る途中の婆さんも撃っただろ? ありゃなんでなんだ?」
「へー、あれ人間だったの? てっきり壊れかけのロボットかと思っちゃったよ。なんせ動きがずーっとギクシャクしてるもんだからさ、アハハ…………」
ガツン、という物凄い音が聞こえた。
激しい衝撃に頭蓋骨の中身が揺さぶれる感覚がして、気が付くとリョータは顔面を奇妙な形に歪めたまま後ろ向きに吹っ飛ばされていた。何が起きたか分からなかった。ひっくり返ったリョータの視界の端に右足を大きく振り上げた刑事の姿が映っていて、ようやく蹴りつけられたのだと理解する。
間髪入れず、刑事はリョータの胸ぐらを掴んで無理やりその場に立たせると、その鋼のような拳を迷わずリョータの顔のど真ん中に打ち込んだ。バキッという嫌な音がして、鼻に激痛が走った。鼻の穴の奥から血がダラダラと流れ出す。
続いて一発。さらにもう一発。瞼の裏側で火花が散っていた。そのまま大きく持ち上げられ、力任せにクズ鉄の山に頭から叩きつけられる。思わずうめき声と共に口をパクパクさせると、いつの間にか前歯が何本か無くなっていることに気が付いた。
途端に恐怖に襲われ逃げ出そうとするも、がら空きだったリョータの腹に刑事の放った蹴りがクリーンヒットした。その痛みにひどく咳き込むリョータだったが、刑事はなおも容赦なく攻撃を加えようとしてきたので、思わず手を目の前でバタバタさせた。
「や、やめ…………」
「大丈夫だろ、どうせ痛いなんて思ってねぇんだからよ。いいか、俺はなぁ……」
刑事は冷徹に言い放つと、再びリョータの胸ぐらを掴つかんで持ち上げた。それまでふざけ半分だったリョータの心を、今度こそ圧倒的な恐怖が支配する。刑事の右の拳が握りしめられて、ギリギリと“溜め”を作るのが分かった。
「……さっきからずっと、人間のフリした機械野郎に八つ当たりしてるだけなんだよ。
なんか文句あるかコノヤロー!」
怒声と共に幾度目かの拳が浴びせられる。もはや抵抗する力も残っていなかった。リョータの意識が朦朧もうろうとし始めたその時、先程リョータがバイクで曲がってきた工場の角から別の刑事らしい若い男が現れて、こちらを確認するや否いなや慌てた様子ですっ飛んできた。
「ちょ、ストップストップ! 小川さんやり過ぎ、やり過ぎです!」
その声を聞いた途端、小川と呼ばれたサングラスの刑事は舌打ちと共に、リョータから手を離した。リョータの体がどさりと地面に落下し、そのまま不格好に座り込む形になる。小川はリョータの傍にペッと唾つばを吐くと、文字通り吐き捨てるように言った。
「本当だったらこんなもんじゃ済まねえぞ。アイツが来てくれて有難ありがたいと思え」
とてもそうとは思えなかった。リョータはもはや何が何だか分からずにいた。起こしてこそいるが、上半身は先程からずっとグラグラしていた。鼻に感じる鈍痛と、口の中に広がる血の味とがリョータから現実感を奪っていた。もう一歩も動くことはかなわない。
一方、その場に駆けつけてきたスーツ姿の若い刑事は、完璧に戦意喪失したリョータの傍にしゃがみ込むと怪我の様子を調べて呆れたように言った。
「あーあ……、こりゃまた酷ひどくやりましたね。あんまりやり過ぎると、いい加減捕まりますよ小川さん」
「フン」
口調とは裏腹に、その若い刑事――石山はあまり驚いている様子がなかった。
実際のところ、石山はこうなることがある程度は予測できていたのである。というか、小川が本気になったときは毎回こうなのだった。
たとえ過剰と言われようが、犯人を徹底的に叩き潰す。それが刑事・小川良司の信条だった。その凄まじさは「警察は公営のヤクザ」という揶揄を地で行くレベルである。
今回の件にしても、やったことの重大さを鑑みればリョータの末路はある種因果応報と言えなくもなかったが、血まみれで茫然自失となっているその様子は、流石さすがに石山にも憐憫の情を生じさせた。もっともこうなると半ば分かりつつ小川に任せたのだから、石山もある意味では共犯といえるのだ。
「……っていうか、バイク爆発させたんですか? 普通にエンジン撃っただけじゃここまでにならない気がするんですけど、一体何したんです?」
「アンチ・ロボット弾を喰らわせてやったよ……内側で炸裂するヤツな。技術班は凄ぇよな、綺麗に爆発してたぞ」
「また勝手にそういうの持ち出して! そんなんだから『歩く西部警察』なんて呼ばれちゃうんですよ⁉」
それでも当の小川は、さして気にした風もなかった。
「はん、実際のドラマ観たこともねえ連中がよく言うぜ。大体俺は、散弾銃で狙撃したことなんか一回もねえよ」
「あの、そういう問題じゃなくてですね……」
「いっそ工場ごと爆発させりゃよかったかな。そうすりゃ名前負けもしねえだろ」
「アンタって人はもう! そもそも、こんな話してる場合じゃないでしょ⁉」
そう言って石山は取り出したスマホを操作すると、思い出したように警察署本部に犯人確保の報せを入れた。
二人が下らない掛け合いを演じている間も、リョータはずっと同じ場所に座り込み血まみれのままボーっとしていた。『歩く西部警察』なる異名に、リョータは心当たりがある気がしていた。確かこの街にずっと昔からいる刑事の中に、常日頃から余りにも破天荒な振る舞いが多いためにそう呼ばれている男がいたのだ。その刑事は決して敵に回してはならない、と。ずっと都市伝説だと思っていたが、まさか実在するとは夢にも思わなかったリョータだった。先程まで自分を殴りつけていた凶暴な刑事は勿論だが、そんな男と臆する様子もなく対等に会話している若い刑事の方も何だか妙に恐ろしい。一体何者なのだろうか。
いつの間にか遠くからパトカーの音が幾重にも聞こえてきて、更に何人かのスーツ姿の警官が走ってその場に駆けつけてくると、リョータはとうとう考えることをやめた。
その日、彼は生まれて初めて学んだ。
この世には、決しておちょくってはいけない相手がいるのだ、と。