戦士の誇り
非常口の細い通路に辛くも逃げ込んだものの、無傷では済まなかった。
「はぁ、はぁ、つッ……ぐぅ……」
ミカはへし折られた腕を押さえて苦痛にうめく。
急場を脱したためβエンドルフィンの分泌が収まり、痛みが強まっているようだ。装甲そのものが破壊されたせいで、応急手当てもうまく機能していない。かろうじて止血だけはできている、という程度だ。
「動けそう?」
「はい、なんとか……でももう、戦闘は無理ですよ。籠城して、助けを待ちましょう」
「賛成したい気持ちでいっぱいだけど、引きこもったら状況は悪くなる一方だね。分かってるでしょう?」
物資の補給は望めない。周囲は虫に囲まれている。救助を求める手段がない。武器は乏しく、両者とも負傷。
ここに留まっていたら、いずれ鉄扉を突破した虫に食い殺される。希望的観測を持つ余地もない。がりがりと壁を引っかく音がひっきりなしに響いているからだ。
極めつけはこの通路だ。ここは非常口を兼ねた変電設備を点検する通路で、極力線路を通らずに変電設備に手を入れるための脇道にすぎない。そんな通路の終端だ。駅に向かう道しかない。そして駅には虫の卵が存在する。
最悪と言ってもよかった。
「脱出するしかない」
「今のあたしたちで……どうやって……」
苦痛のあまり弱気になっているようだった。無理もない。好転する要素がひとつもないのだから。
それが分かるからこそ、言うしかない。
「なんとかする。いざとなったら私が囮になる」
というか、推進剤が切れて、足が折れて走れないのだ。そうならざるを得ない。
「そんなの嫌です」
「意見が合うね。お互い死力を尽くそう」
彼女に手を貸し、立ち上がらせる。
他に道はないというのは、むしろありがたいものだ。
動きたくない、投げ出してしまいたい。そんな弱り切った心でも、前に進む以外にない。そして進めば状況は変わる。いいか悪いかは別にして。
ここに留まっていたら、きっと絶望に折られて拳銃自殺してしまうだろう。
犬死するくらいなら、虫の卵を叩き割って道連れに死にたい。これは彼女には秘密だが。
「……すごいですね」
どきっとした。
「な、なにが?」
「こんな状況なのに、前を向いて歩けるなんてすごいです。メグさんがいなかったら、あたしは……今も、動けていなかったと思っています。いえ、そもそもきっと、とっくに死んじゃってます」
それを言ったら、そもそも私がミカを連れて進まなければ、こんな目に遭わせずに済んだ。あるいは、私が兵士にならなければ。
思考を断ち切る。
「そんなこと分からない。過去のもしもなんて」
「そうですね、すみません。ただ、尊敬してるって言いたかったんです」
居心地が悪い。私は尊敬されるような人間じゃない。
「どうしてそんなに戦えるのか、聞いてもいいですか?」
「なら、あなたの理由を教えて。虫と戦う理由。この部隊に入った理由」
「あたしですか?」
彼女は少し驚いたようだが、さほど躊躇わずに言葉を継いだ。
「あたしは、流されて入ったんです。弟も友達も志願したから、じゃああたしもって。鈍臭いんです、あたし。事前に疎開することもできなかったし、選抜部隊に入ることもなかったし。だから、人類が都心奪還を諦めた今になって作戦に動員されたって、それだけです」
「立派だね、すごい」
本心から言った。
尊敬する。きっと私にはできない。
「あなたには、逃げ出すチャンスが誰よりも多くあったんだ。でもあなたは逃げなかった。義務に対して誠実に向き合えるのは、すごく勇気のあることよ」
ミカは腕の痛みも忘れたように、ぽかんと私を見ていた。
やがて困ったように顔をうつむける。
「そんなふうに言ってもらったのは、初めてです」
「それはよくない。教官の認識不足を追及しなくちゃいけないね」
ふふ、と笑ってくれた。
笑う元気が出てきたなら、大丈夫だ。
次の鉄扉を通り過ぎる。虫はかじりついていないが、足音の気配はあった。巡回コースになっているらしい。
「それで、なぜなんですか? 次はあたしが教えてもらう番ですよ」
「……誤魔化されなかったか」
ふう、と息を吐く。
あまり愉快な話じゃない。
「私はいつも、味方を殺して生きてきたんだ」
「え?」
「私は少女徴兵が始まったときの、最初に赤札を貼られた一人。でも優秀じゃなかった。初陣から、装甲が粉々になるくらい虫に踏まれた」
「……え。それ、生き延びたんですか?」
うなずく。あの戦闘は悪夢以外の何物でもなかった。
「私の初陣は、大規模爆撃を与えて動けなくした虫の群れを、一気に鉈で殺して回る……そんな作戦で行われた最後の戦闘。飛行する虫が現れた最初の戦闘でもある」
「それって」
彼女の声は嗄れていた。
当然、知っているだろう。今の兵士は誰もが胸に刻む記録の一つだ。
「爆撃機が襲われて、唐突に私たちは自分の力で虫の群れに対峙しなくちゃいけなくなった。人類最大の大敗、大陸の半分を奪われる連敗のキッカケになった会戦の端緒よ。それが、私の最初」
戦術が根底から破綻した戦場が、穏やかであるはずがない。
指揮系統や負傷者収容、士気といった問題で言われる「戦術単位での全滅」では、済まなかった。
本当に文字通りの、生き残りは百人もいないような、字義通りの全滅に私たちは見舞われた。
私は、その例外の側だった。
「私は両手両足を骨折して、全身に合計で八十四針を縫うような重傷を負ったけれど、指揮官が盾になって凌いでくれた。もちろん、指揮官は死んだ。四肢と胴体の八割と、頭蓋の半分を食いちぎられて」
私の味方殺しはそこから始まった。
新たに有効な戦術を発明する暇が与えられなかった人間は、歴史的な連敗を喫することになる。
故郷を追われるならいいほうで、命を落とした民間人はおびただしい数に上る。国が次々と滅び、いくつもの民族が事実上消滅した。
そういう戦闘に私は参加していた。
「私はいつも未熟で、いつだって死ぬようなドジを踏み続けた。そのたびに誰かが私を守ってくれた。だから私は生き延びた。それは、」
彼女を振り返る。
私を助けてくれて、私よりも武装を持っている、なのに私よりも深刻な負傷をした少女を。
「それは今だって、そう」
私の命は高潔な戦士の流血でできている。
私を助けなければ、もっと立派なことができただろう人々の無念が。
「だから私は逃げられない。退けないし、諦められない。虫を一匹でも多く殺す。生き延びて怪我を治して、また殺しに来る。虫を殺し尽くすまで繰り返す。そうやって、仲間を一人でも多く助けるの。そうするしか……私に生きる意味って、ないから」
私を助けてくれた全ての人のために、私は返さなければいけない。
彼女は言葉を失っていた。やがて、口を開く。
「なんか、納得しました」
ミカは微笑んでいた。頼もしげに。
「私だけじゃなかったんですね。きっと、みんな同じなんですよ。メグさんが助けられたのは、運とか運命とかそういうものじゃない。必然です」
彼女は腰のハードポイントから鉈を抜いた。
虫を殺せる唯一の武器。虫から身を守る唯一の装備。
その柄を彼女は私に向けた。
「みんな、あなたに助けられたから。あなたが必死で助けてくれるから、だから助けようと思うんです。そんなあなただから、託すんです」
「なにを?」
空恐ろしさに一歩、後じさりする。
彼女は、その一歩を詰める。
「自分の……いえ。人類の希望を」
私の手を取って、鉈を握らせた。
虫から命を守る術を。
「あなたのほうが、上手く使えると思います」
「そんなこと、私には」
重すぎる。
そんな弱音を封じるように、足音が大きく響いた。
通路の果て、階段のうえ。割れて外れた扉の向こうから、巨大な影が動いている。
同時に。
ばぎんッ、と背後で金属が歪む音が響く。
虫が鉄扉に穴を開けた。通れる大きさに広げられるまで、もう幾ばくもない。
「行きましょう。時間がありません」
彼女は手甲から拳銃を握る。彼女の使える腕は一つだけ。
「……わかった」
私は、託された鉈を強く握る。
目前に伸びる階段を見上げた。
「行こう」