東京地下区画
新宿駅舎までやってきた。
瓦礫が山とできているが、地下街が広すぎるせいで隙間も大きい。もちろん、そこは秩序だった通り道ではない。文字通りの地下迷宮というわけだ。
「虫は子育てという概念がないけど、ねぐらを作って集まる習性がある。この見通しだから、警戒を怠ってはだめ。虫は一種類じゃない、生体も虫によって違ってる」
「わ、分かりました……!」
きゅっと顔を引き締めるミカを背に連れて、地下への階段を踏む。
隙間風が招くように啼いた。
「く、崩れませんか?」
「気を付けてね」
「ひぃい」
実のところ、この新宿駅は虫が産卵に入り込んでいたこともあり、最も多く崩落を繰り返した建造物だ。蟻のように瓦礫を掻き出す虫もいたと思われる。結果、瓦礫同士がパズルのように重なり、砂礫がつなぎとなって、見た目以上の頑丈さで積み上がっているはずだ。
いつでも銃を抜けるように構えて隘路を進む。装甲もあってぎりぎりだ。少女ばかりが作戦に集められたのも、こうしてみれば頷ける。
閉塞環境に慣れないだろうミカを窺う。
「大丈夫?」
「はい、なんとか。うっ」
重い音がした。
振り返ると、ミカが片足を伸ばした変な姿勢で壁に肩を乗せている。瓦礫に足を滑らせたようだ。
「ゆっくりでいいから。足を挫かないようにね」
「はい」
「あと、なるべく静かに」
「は……はい」
こくっとミカが顎を引く。
私は前に向き直り、
振り返った。
「走って」
「え?」
「走って! 崩れた! 急げ! やばい!」
「えっ、えっ、ちょ大丈夫だから来たんじゃないやっひぃやああああああああああああ!」
押し合いへし合い、狭隘な通路を走る。やばい。肩の装甲が何度も壁に当たり、その衝撃で壁が響いてずるりと動いた。やばい。雪崩れるような瓦礫が次々と重なって、走る踵を舐めるように延々と迫る。やばい。
入ってきた階段に道を折れる余裕なんてない。
装甲の筋力補助とブースターがなければ、とっくに追いつかれている。左右の瓦礫を焦がしながら駆ける。
駆けて駆けて駆け抜けて、
「ひぎぃ!」
「うっそ」
落ちた。
穴。
「巨大なくぼみ」とか「崩れた溝」とか、そういう次元ではない。巨大な竪坑だ。東京地下貯水槽だろう。最下部に水が溜まっているのが、砂礫の立てる波紋で分かった。
悠長に分析している場合じゃない。
「やばぁーい!」
頭上で、鉄砲水のように瓦礫が噴出していた。
「ひぃいいいい!」
「つかまって!」
空中でミカを捕まえ、ブースターを全力で吹かす。壁を走るように蹴り、横穴にヘッドスライディングした。
背後。
瓦礫の豪雨が互いと竪坑を打ち鳴らす。凄まじい轟音が駆け巡った。音の驟雨で全身が殴られているかのようだ。
体を丸めているミカを叩いて急かし、竪坑から逃げる。少しでも音の暴虐を矮小化したい。
この狭い横穴は管理通路のようだった。下水でなくてよかった。
ここがどこだか分からないが、スーツの性能を本気で生かしての全力疾走だ。結構な距離を移動してしまったのは間違いない。
つまり地下迷宮は、地上から見たよりも広く続いている。おそらく、ここは地下鉄線路から雨水を排出する設備だろう。
後ろは瓦礫が塞いでしまった。道は前にしかない。
行くしかなかった。
しばらく歩いていると、急に少女が足を止めた。
「どうしたの?」
「今、なにか……」
どん……と地面が揺れた。
顔を見合わせる。
どどん、とばかりに再度揺れる。
「嫌な予感がする」
ぱら、と乾いた音を立てて砂が落ちた。
道の先、広い空間に接する壁が崩れている。
覗き込んだ。
巨大なスズメバチの顔があった。
「うーっわ!?」
飛び退る。少女の腕をつかんでブースターで吹っ飛んだ。その眼前で、壁と地面が巨大な肢に叩き割られる。
「でかっ! でっか! 顔だけで三メートルはあった!」
自分の声がインインと狭い空間に踊る。
逃げよう、と真っ先に考えた。当然だ。あんな大物を相手取るような装備はないし、人員も連携も不足している。仮に死力を尽くして勝ったところで、作戦行動に支障をきたすなら意味がない。
だが。
衝撃と土煙が背中から吹き抜ける。
振り返ると、虫の肢がずるずると上がって消えていった。
退路が潰された。
「ラッキー」
私は誰宛てでもない声を出す。
「迷う必要がなくなった」
手をつなぐ彼女の唖然とした気配が、顔を見なくても伝わった。
「迷う必要がないって、どうするつもりなんですか!?」
ミカは動揺が抜けていないようだ。コンクリートに膝をついて私を見上げている。
後方は瓦礫。前方は広間。そこに待ち受ける人類の敵。
拳銃を手のひらに落として構える。
「決まってるでしょ。戦うの」
管理通路を駆け、虫の巣へ。
入ってみて改めてその広さに舌を巻く。
もとは先ほどと同様の大型貯水槽だったようだ。竪坑を満たす蜂の巨体が、蛹の虫のようにうずくまってなお余裕がある。
巨大生物が土砂を引き込んで施設の姿は見る影もない。ネジ跡のようならせん状の地形になっていた。巣としてこしらえるにあたり、らせん構造だと便利なのだろう。
ねぐらとしての巣ではなく、繁殖地としての巣にするために。
「嫌なものを見た」
巣の底、虫の足元に作られたハニカム構造に卵がある。作戦領域ではないが、ここも穴蜂の巣というわけだ。
みすみす見逃す手はない。逃げられない理由が増えた。
らせん斜面を左に逸れて、とっ、と崖を跳ぶ。
背後に虫の肢が叩き込まれた。
銃弾を打ち込もうかと思ったが、虫の肢を落とすにはいかにも口径が頼りない。弾の無駄だ、やめよう。火力が欲しい。
一段低いネジ縁に着地して、道に沿って走る。幸い、他の虫と共生する生体ではないようだ。幸運なことだが、それでも依然、状況は厳しい。
ネジ跡状の通路は、蜂が前肢を振り回して削ったものだ。つまり、ネジ縁のどこにいても肢の届く攻撃範囲ということになる。
虫が私を追って振り向く。と、その後頭部が火花を散らした。少女がアサルトライフルで掃射を浴びせていた。
即座に前肢が振り上げられ反撃されたが、彼女はすでにホバーしながら崖を飛び降りている。
危なげなく虫の脇をすり抜けて、私の隣に着地した。
「どうしましょう」
「あいつ、見かけによらず肢がよく動くね」
穴蜂は仕留めた獲物を塚の巣に持ち帰る。そのため肢が長く力強い。
この虫は純粋に生態を模しているわけでなく、自分の胴よりやや後ろにまで前肢を反らせるようだった。大きくかき込む動きは、巨体故に脅威になる。
だが。
「体が柔らかいってことは、甲殻が薄いってことだ。甲虫よりよほど付け入る隙がある」
虫が動く。第二肢を持ち上げて、踏みつぶすように突き込まれた。見え見えの動きだ、避けるのは容易い。一段高い通路に跳躍して虫の頭を見上げた。
「下りるほど不利だ。頭上を取って強襲したい」
なにせ虫の肢は六本あるからな。振り下ろす密度は高くなる一方だ。
私たちが来た入り口よりも高くまでらせん構造の巣は広く伸びている。天井は塞がっていて、産卵体勢では隙だらけな飛行虫の弱点を覆い隠したのだろう。
だが、私たち人間サイズにしてみれば十分すぎるスペースがある。上を取るのが正道だろう。
「でも、あの腕をどうやって通り抜けるんですか?」
少女が泣きそうな声で言った。
確かに可動範囲の広い前肢は最大の障害になる。虫に"はたき落される"なんて笑えない。
「私が陽動をするよ。一気に駆け上がって、仕留めてもらえるかな」
「え。えっ? あたしがですか!?」
「鉈はあなたのものしかない」
作戦は決まった。
彼女を残し、拳銃で虫の顔を撃ちながら通路から跳ぶ。推進剤を燃やし、空中をホバーするように穴を横切って通路を渡っていく。
第二肢の届かない位置。通路に肢を引っかけて上体を傾けた虫が、大きな前肢で薙ぎ払ってくる。私は両足を振り上げて急降下、宙返りして肢をかわした。
「あまり何度もできる機動じゃないな……」
高さを犠牲にしすぎる。取り返すのは大変そうだ。
急いで通路に着地し、段々を跳躍して高さを取り返す。拳銃で牽制するのも忘れない。
見れば彼女は、一目散に通路を駆け上がっていた。巨人の階段を大股で登るかのようだ。
彼女の露骨な動きは虫の目を引いた。彼女を振り返り前肢を振り上げている。
「させるか! こっちだデカブツ!」
壁を蹴って、宙に躍り出る。虫の顔と振り上げた肢の関節を撃った。
牽制で攻撃の狙いが逸れたらしい。前肢は彼女を潰さずに壁を突いた。うまくいった。
「よし、これで」
忘れていた。
前肢は二本あることを。