⑥
「ただいま」
日が沈みかける前に、見知らぬ公園から無事に帰宅できたことで、悠莉はひと安心した。
(なんか、濃密な放課後だったな)
帰りの間に起きた出来事を振り返りながら、悠莉は二階へと昇る。
自室に入ると、ちょうどスマートフォンからメッセージが届く。
親友の山路浩輝からだった。
『悠莉ヘルプ! 課題でわかんねーところあっから教えてくれ~』
またか、と悠莉は思いながら慣れた手つきで返事を送信する。
「どこがわかんないわけ?」
『ぜんぶ!』
「くたばれ」
『冷たいこと言うなよ~!』
「少しは自分で考える努力をしろ」
『めっちゃ努力した! で、無理だったから教えを乞う』
「甘えるな」
『悠莉センセー厳しいっす』
「親友を思いやってのことだ」
『泣かすこと言ってくれるぜ親友!』
「ドヤッ」
『でも優しさも欲しいなぁ』
「怠け者にくれてやる慈悲はない」
『OTL』
親友とのいつものやり取りに、悠莉は苦笑を浮かべた。
元は不良だった浩輝も、ずいぶん丸くなった。
正義感の塊である悠莉とは、本来ならば対照的だった存在。
そんな浩輝と親しくなったのは、彼が他校の不良たちに集団リンチに遭っていたところを、悠莉が偶然目撃し、防犯ブザーで助けを呼んだことから。
無論、不良側からすれば余計な真似をしてくれた悠莉も、容赦のない暴力を受けた。
しかし、防犯ブザーを鳴らす手を、悠莉は止めなかった。
誰かが通報してくれたのか、現場に駆けつけてくれた警察のおかげで不良たちは連行されたが、浩輝も悠莉もヒドイ怪我を負った。
『なんで俺みたいなクズを助けた』
病院へ運ばれる途中、浩輝は不審げに尋ねた。
人を信じきれない。そんな冷めた目だった。
まるで人間を警戒する野犬のような浩輝を見て、悠莉はどこか憐れむように答えた。
『人助けに理由はいらないだろ』
退院すると、浩輝は牙が抜かれたように人が変わっていた。
それ以降、なぜか悠莉とつるむことが多くなり、現在に至る。
いまでは遠慮ない会話ができるほどに、打ち解けている。
恐らく、浩輝自身はそこまで悪人ではなかったのだろう。
ただ信頼できる相手ができず、孤立していつのまにか不良の世界に仲間入りしてしまっただけで。
真面目に授業さえ受けてこなかった彼も、いまや苦手なり課題に取り組む姿勢を示している。
その努力自体は、親友として素直に応援してやりたい。
『あ、そうだ。悠莉! 明日久しぶりにゲーセン行こうぜ!』
「露骨に話題を変えたな」
気まぐれな点は、改善してほしいとは思うが。
『ま、まあ、細かいこと言うなって。あ、でも、もしかして明日バイトか?』
「んや。一応休み」
悠莉は叔母が経営する喫茶店でアルバイトをしている。
愛らしい店員が接客していると客足が増えるとのことで、叔母からはたいへん重宝されている。
その分、シフトに入っていない日はグズられるが。
『よっしゃ。じゃあ明日はパァッと遊ぼうぜ!』
いつものように「うい」と返事しそうになった手を、悠莉は一度止める。
放課後に起きたことを思い出す。
そうだ。
明日から、少し、いままでとは違う日常が始まるのだった。
打ち込んだ返事を訂正して送る。
「すまん。先約がある」
『ぬぁにぃ!? 俺以外に友達のいない悠莉に先約だと!?』
「浩輝だって僕以外に友達いないだろ」
『そっすよ。だから一人ぼっちにしないで悠莉~!』
「お互い悲しいね。しかし断る」
『無慈悲!』
「約束しちゃったんだから、しょうがないだろ」
『ショボ~ン。つうか、真面目に誰と約束したん?』
文字を打つ指が止まる。
いかに気心知れた親友とはいえ、言ってしまっていいものだろうか。
『ま、まさか、女と会うわけじゃなかろうな?』
と、悠莉が渋っている間に、浩輝が正答を言った。
「ま、そんなとこ」
悠莉がそう返すと、言語化不可能の反応が数分続いた。
「落ち着けよ浩輝」
『落ち着けるかぁ! 悠莉オメー! 俺というものがありながら女とデートするのか!?』
「そこは『俺を差し置いて』じゃないのかよ」
『悠莉お願い! 捨てないで! 何でもするから!』
「キモイ」
『うおおおおおおおん(泣)』
「というか、別にデートじゃないよ」
『でも相手は女なんだろ!?』
「性別上は」
『じゃあデートじゃん!』
「違うって」
『じゃあどういう関係なのよ!? 納得するように説明して!』
「浮気を疑う主婦か」
『この浮気者~!!』
「めんどくせー……」
浩輝の質問攻めに難儀しつつ、悠莉は今日あったことを思い返す。
別に、『彼女』と付き合うことになったわけではない。
……ただ、真剣に考えようと思ったのだ。
あそこまで必死に、自分に告白をしてきた少女の。
高峰亜衣の、思いに。
◇◆◇
変わりたいの。
悠莉が心を揺さぶられたのは、その一言だった。
変わりたい。
それは悠莉自身も、常々思っていること。
今日の自分よりも、明日の自分はもっと成長できているように、歩みを止めない精神。
そんな前向きな姿勢を、悠莉は尊んでいる。
だからこそ、思ってしまった。
自分の手をぎゅっと握る少女を、他人のように思えなくなってしまった。
真剣に自分を見つめてくる少女のまっすぐな瞳を。
緊張で震える彼女の様子を。
大人びた見た目ながら、どこか庇護欲をそそる顔つきを。
そこにいるのは、かつての自分だった。
憧れの人物に一歩でも近づきたいと、勇気を振り絞って前を向く、決意の色がそこにある。
だからこそ、悠莉は知っている。
自分のひと言で、彼女の未来は、大きく変わることを。
よく知らない相手だから。
自分じゃ相応しくないから。
そんな安易な理由で断るには、もう収まりがつかない。
彼女は、高峰亜衣は、いま全身全霊で、戦っているのだ。
初恋という名の、戦いに。
そんな少女の覚悟を、肌身で感じた悠莉は、自然と返事を口にした。
「……ありがとう。そこまで、思ってくれて」
悠莉に変質的な感情を向ける女性は、これまでに何人もいた。
しかし、ここまで切実に好意を向けてくれる女性は、彼女が初めてだった。
しかし、それでも……
「でもゴメン。やっぱり付き合うことはできないよ」
そればかりは譲ることができない悠莉だった。
亜衣の瞳に、再び涙が溜まる。
「でも」
少女の感情が決壊する寸前に、悠莉は付け足した。
「恋人には、なれないけど……でも、僕が高峰さんにとって変わるきっかけになるんだって言うなら」
幼い自分が、従姉弟の存在で弱虫を卒業したように。
親密な仲になって、多くのことを教わったように。
そんな、きっかけになれるのなら……
「友達になろ?」
告白を断る上では、ありきたりな返事かもしれない。
良くない返事かもしれない。
しかし。
「僕でよければ、いくらでも高峰さんのチカラになるよ」
困っている友人の助けになる。
それ自体は、決して、おかしいことではないはずだ。
悠莉の言葉に、亜衣は目を輝かす。
頬に朱色が差し、恍惚と悠莉を見つめる。
握りしめられた手から、彼女のぬくもりが伝わってくる。
それは、とても熱いぬくもりだった。
悠莉は初めて知った。
希望に近づいた少女とは、ここまで眩しく、そして愛らしく見えるものなのかと。
ふと、悠莉は自分でもよくわからない、不思議な感覚に襲われた。
といっても、それは一瞬のことだった。
いまのは何だろう。
捉えどころのない感情の機微に、悠莉自身が戸惑った。
ただ。
従姉弟がかつて言った言葉。
それが頭の中に浮かんだ。
――守るべき相手がいると、芯っていうのかな。絶対に譲れないものができて、一層励めるようになる。
この感覚は、それに近いものなのかもしれない。
悠莉は、思わずほほ笑みを浮かべた。
自分は、少しだけ、憧れの人に近づけたのだろうか。