薔薇の名の元の刻印
砂塵の舞うこの地には、畝る様な雄大な川が、気まぐれな瀬や中洲を、あちこちに残しながら流れていた。
砂の色の川と両岸の緑の帯を、深い砂漠が海までの道を一緒に連なっている。
両岸に2つの王国が現れ、其々の繁栄を謳歌していた。
左岸の国には六指人が住み、右岸には五指人が住んでいた。
両岸は川の恩恵を受け、潤沢な土地を持ち、住む者達に望む物を与えていた。
上の方にしか葉を茂らさない木には、硬い殻をつけた丸い大きな実がなり、その果肉と甘い汁は、彼らを捉えて離さなかった。
水をたっぷり呑む木は、柔らかな実をつけ、あらゆる生き物を誘うのだ。
左岸の国では、季節風の中、日干し煉瓦の家々を守る為、山から切り出してきた石で塀を作り、グルリと囲んでいた。
砂嵐は、その長い指で、何もかもゴッソリと引っ掻いて行くのだ。
川の水は、渦巻き流れていたが、パウダー状の砂や泥が多く混ざり、呑むには大瓶に汲んで沈殿させ、上澄みを使うのだが、やがてあちこちで井戸を掘る様になった。
井戸は共通の財産になり、砂漠の暮らしを助けてくれた。
自然の恵みから、畑を作り道具を作り、それなりに六指人の王国は栄えた。
川の中洲で漁をし、魚を捕え、それなりの船で川を行き来したが、真ん中に速く荒れた流れがあり、左岸と右岸では、ほとんど交流が、無かった。
その上、対岸はボーッと霞むぐらい遠く遥か彼方に見えたのだった。
国と国を分けるものは、大昔から川や海や山々の連なりや、自然の驚異に他ならないが、行かなければ良かった場所もあるのだ。
大きな月の夜、大潮が重なった。
松明をかかげて、漁をしていた小舟が、それに巻き込まれたのだ。
流れはアッと言う間に、小舟を上流に押し上げ、ゾッとする月明かりの中、あちら側の中洲に、舟を打ち上げたのだった。
バラバラになった舟と共に、六指人は大怪我をしていたが、命だけは助かった。
翌朝、五指人達に助けられたのだった。
姿形はそっくりなのだが、やはり1本指が少なかった。
交流のないはずなのに、言葉は驚くほど似ていた。
傷口が乾き始めたころ、辺りを見回す余裕が生まれた。
カダムは、ザクリと割れていた肩の怪我で、左手がまだ麻痺していた。
面倒をかけていたのは、漁師達を束ねている村長の家だった。
そこの一番下の息子のリハルオが甲斐甲斐しく身の回りの事をしてくれていた。
彼の愛犬、ドーマーもすっかり懐いていた。
カダムを見つけてくれたのは、ドーマーだったのだ。
細く長い身体に、黒い艶のある毛をしていて、短い尻尾と長い脚のバランスが面白い。
カダムの村の犬は、白くて、手足がズングリしていて、長い尾を巻き、フサフサした毛皮を着込んでいたからだ。
リハルオの側を一時も離れず、何処だろうとついて回るのだ。
対岸の五指人達は、背後の首の下に、ひと房の毛の塊が生えていた。
髪の色が黒でも、そのひと房の毛の塊は、薄茶色に染まり、キラキラと金の毛を中に忍ばせていて、美しかった。
その毛の事を聞くと、彼等の顔は曇り、何処かに行ってしまうのだ。
2度リハルオの父親に、聞いたが、2度同じ反応をされたので、それっきりその事は聞かなくなっていた。
カダムの肩はなかなか良くならなかった。
時々熱を出し、傷口が開いたりした。
リハルオの父親は、彼を神殿に向かわせることにした。
神託を受けるとばかり思って、熱のある身体を引きずって、カダムは神殿に向かった。
杖とリハルオとその父親に支えられながら、3日かけて、都に着いたのだった。
砂漠の砂がギッシリと周りを固めた、石の城壁が目の前に現れた。
カダム達の家々より、頑丈そうな石が周りを囲んでいる。
その城壁の周りを、神託を求めた人々が、グルリと囲んでいた。
体全体を長い布で巻き、僅かな日陰を探しながら、ここで順番を待つのだ。
旅の疲れから、カダムの熱は高く、意識が混濁していくのだった。
どれぐらい並んでいたのだろうか。
二人に抱えられ引きづられながら、神殿の中に、入っていった。
ヒンヤリした石の上に寝かせられたのは覚えているが、カダムは何も見ず何も聴こえなかった。
薬草の匂いに包まれた肩は、誰かの手で触られて、ヒンヤリとしていったのを微かに思い出せるのだった。
神殿の中の暗い部屋で、カダムは目覚めた。
側には、村長がいた。
その座っていた後ろ姿は、ガックリと頭を垂れ、まるで首が落ちた様な有様だった。
リハルオの姿が無い。
後ろを向いたままの父親は、気づいたガダムに、訥々(とつとつ)話し始めた。
神殿の神に仕える神官たちは、命には命をと、言った。
ガダムの傷口は縫われ、厚く薬が塗られている。
ズキズキと痛むが、熱は引いていた。
それと引き換えに、リハルオはここで仕えるのだ。
常に生贄になる定めのその中で。
神はある日突然、選ぶという。
神官は、まるで山羊の群れを飼うように、五指人を囲っておくのだ。
「リハルオは、指2本分、長生きすると言われた。」
後ろを向いたまま、震える肩が、すすり泣き出した。
「お前の、指、2本分だそうだ。」
カダムは、グルグル巻きの両手を見たが、指の数はわからなかった。
わからなかったが、足りなくなった指への、恐怖が襲ってきた。
血の滲んだ布の上に、泪を落とした。
3日目、手の布が剥がされると、指は5本。
肩の傷口も塞がり、紅い筋が盛り上がっていた。
そこに、神官のモリヤが現れた。
カダムは、自分を助けた、リハルオの命乞いをしたが、印の無いものは、神の眼に止まらないと、退けられた。
それでも、哀れに思った、神官モリヤは、リハルオに会うことを許してくれた。
2人の少年は、お互いをお互いで、慰めあった。
カダムは、神の眼に止まりたいと、神官モリヤに訴えた。
「房の無い者は、神の眼には見えないのだよ。
六指人の少年よ。
神に貰った命を生きよ。」
カダムは、リハルオが神の眼に止まるまで、ここから離れない事を誓った。
哀れに思った神官モリヤは、その願いを受け入れたのだった。
2人は、太陽と月のように、互いを支え、神託の降りる日まで、離れない事を誓った。
神殿は広く深く、迷路のようで、幾つもの建物と庭を持ち、蓮の池や小川の流れがあり、岩山からは滝が音をたてていた。
穀物や野菜を作り、釣りをし、野兎や山鳩を、狩った。
石を投げて遊び、お互いの名を地面に刻んだ。
神託がおりれば、カダムは帰らなくてはならない。
だが、何処に。
ガダムの心は乱れた。
その時には、兄弟の様な、リハルオは神の元に旅立ってしまっているだろう。
糸を紡ぎ、織り上げながら、その日を思い、リハルオの心も乱れた。
薄焼きのパンに、蜂蜜を塗った物を持ち、神殿の奥の山の中程まで、きのこ採りに来ていた。
昨夜の雨で、ヌッと伸びたきのこは群れになり、面白い様に籠を埋めた。
白いきのこは、柔らかく芳醇な香りをただ寄わせていた。
2人は、バッタリと1人の老人に出くわした。
老人は、カダムをジロジロ見てから、お茶をご馳走するからと2人を自分の小さな庵に、誘って来た。
しばらく歩くと、老人の住まいが見えてきた。
それは、神の壊れた乗り物だと言う。
老人は刈取り人だったという。
神の眼が指したその先の生贄を捕らえ、差し出すのだ。
カダムは、サメザメと泣いた。
それを見て、リハルオも泪をこぼした。
老人は、何度逃れても神の眼は、遥か彼方まで届くという。
「ですが、六指人の土地には、神はやって来ません。
何故なのでしょう。
千里を見透す眼力の備わった神の目なのでしょう。」
老人は、薬草のお茶をすすりながら、その苦さに片頬を歪めた。
在るという事と、無いという事は、表裏一体なのだと、老人はつぶやいた。
リハルオとカダムは、鏡の様にお互いを見つめ、それを理解した。
円柱の殻からプラプラ垂れ下がった赤や青の蔓に絡まる天井の先には、斜めになった座席が、白い鳩の棲家になっていた。
神の言葉が、彼方此方に彫られ、何処にも通じていない三角や四角が雨の筋に汚れている。
リハルオとカダムは、今やそっくりだった。
肩の傷は癒え、薄い赤の線が流れているだけだったし、取られた指は、あった事も忘れそうだった。
互いを見つめていては、見えないものがある。
ガダムの背後の首筋には、華の刺青があったのだ。
2人は、老人に蜂蜜パンをお礼に差し出し、手と手を取り、神殿の外に逃れた。
その日から、神は印の付いた生贄を見失った。
六指人と五指人は、混ざりあいながら、豊かな河を往き来し、土地を耕し神を懐かしんだ。
消えた神の為に立派な神殿を幾つも建て、その姿をあらゆる生き物になぞらえて、神殿の壁を飾り、神話を作り、姿を像に投影した。
神官が捧げるのは、人ではなく、今年の穀物や醸し出されたワインの壺や、金銀宝石で飾られた剣などの宝飾品などに変わっていった。
カダムの首筋の、幼い頃彫られた花の刺青になぞらえて、今、リハルオの首も、ひと房の輝く毛を刈られ後に、同じ刺青が入っている。
2度と、そこには光る塊は現れないだろう。
神は失ったのだ。
唯々諾々(いいだくだく)とその身を捧げる者達を。
印が見えなければ、探すことが出来ないのだ。
神にとって、この星は暗闇の中に沈んでしまったのだ。
光あれ。
その輝きが、人と神を別つ。
カダムはリハルオと共に愛犬ドーマーと、こちら側の岸で生涯暮らした。
薔薇の刺青は、人のもので、神を祀る神殿には、決して描かれる事はなかったのだった。
今は、ここまで。