Act.1
綺姫神社というのが見晴山の頂上にあり、そこの裏口から降りたところに線路一本と道路二本を挟んで私立図書館がある。
図書館とは言っても、元々は電気工事の会社の事務所だったという建物で、五十坪ほどのさほど大きくはない。最初の二年くらいはともかく、本も増え続けると手狭になった。今は裏手の駐車場に新たに二十坪ほどの三階建ての新館が建設中である。私立の図書館がどうやってそんな資金をることができたのかというと、スポンサーがついたという話らしい。らしい、というのは定かではないということであり、ここの図書館について下調べをしていた時にも解らなかった。別に気にすることではないのだが、こんな辺鄙なところの図書館にお金をかけられるというのはどういう人なんだろうかと思わなくもない。よほどお金を持っているのだろうか。
そんなことを風間司郎が一つ年下の従姉妹の辻真弓に言うと、「さあ?」といかにもどうでもよさげに返答された。
「あんまり気にしても仕方ないことだと思うな」
「そうだね」
自分でも大して気にしていなかったということもあり、その話題はそれだけとなった。
二人は並んで入り口の前に立つ。
『寺子屋大学 図書館ろごす』
と墨痕も鮮やかに書き込まれた木の看板がかかっている。
ここで先ほどは特に興味を示さなかった真弓が、寺子屋というのは学校という意味で、そこに大学とつけるのは二重に意味が被るのではないかと呟きだした。それこそ気にしても仕方のないことではないかと司郎は思ったのだが。
「語呂はいいよね」
と何も考えずに口にした言葉に「そうね」と大きく同意された。
「語呂はいいのよ。うん。やっぱり語呂を合わせるのが大切なのかな」
「よく解らないけど。その辺りは」
「そう?」
真弓は玄関から中を覗き込みながら前髪を指で弄りだした。身だしなみを整えているのだろうか。鏡を見ながらでもなくそういう仕草をするのは、多分彼女の癖なのだと司郎は思っている。と言っても、他の同世代の少女もそういう風にしているのかも知れないのだが、はっきりと比べたことはない。ただ、ここ二週間ほどでつきあわされるようになった司郎には、それが何だか気になっていた。
(なんだか毛づくろいする猫みたいだ)
当人が聞いたら怒るかも知れないので、それは口にしていない。真弓の髪はショートカットで脱色した訳でもなく色素が薄い。そのせいでそんなことを思ったのだろうか。
彼女は髪から指を離して、振り向く。
「ちゃんと連絡してるよね」
「してる。さっきも電話しといたから」
神社で彼女が宮司さんに話を伺っている最中に、トイレを借りると席を外してやっておいたのである。話し込むのに熱中している真弓のせいで、予定よりも半時間ほど遅くなりそうだったからだ。「はいはい。お気をつけて」と電話に出てくれた若い男の人は、そう答えてくれた。
「マメだね。ありがとう、ごめんね」
「いいよ。というか早く入ろう」
「……ちょっと入りにくいかな」
その気持ちは解らなくもなかった。今日は休館日だというのにわざわざ開けて貰ったのである。その上で遅刻してしまった。気にしない方がどうかしている。かと言って、ここで立ち尽くすのはもっとよくなかった。
「これ以上遅れると悪いよ」
「うん」
観念した、という具合に真弓は頷き、「ご免ください」と玄関を開けた。
「いらっしゃい」
電話に出た、若い男の人がの声が迎えてくれた。
◆ ◆ ◆
綺姫伝奇、という本が司郎の地元で話題になったことがある。
もう二十年くらい前に出版された本で、当時に中堅の小説家の人が書いたというそれは、M県に伝わるマイナーな伝承を題材にした戦国伝奇歴史ロマンだ。年に十冊近くと割合いに量産する作家が、当時の時代小説ブームの渦中に出した本である。その作家の作品の中でもそれほど知られているわけでもないし、全国的にはベストセラーというほどは売れなかったのだが、地元では新聞の文化欄で大きく取り扱われて二万部はこのM県だけで売れた、らしい。たいした名産もない地方ではたまにあることである。とは言え、そのことは直接司郎たちの知るところではない。二十年も前というと高校一年生の彼も一つ下の中学生の従姉妹も生まれてきていないのだ。彼らの世代ではたまにローカルのTV局で綺姫神社での祭りなどが紹介されることがあって、それでなんとなく聞いている程度だった。
もっとも、県外に住んでいた真弓はそこらの事情はよく解ってなかったらしい。観光地ではあるけれどほとんど人のいない神社の境内で写真を撮り、パンフレットを熱心に読んでいた。彼女は概要しか知らなかった綺姫の話が思った以上にさまざまな伝承に彩られているということに興奮しているようだ。
「――よく調べていますね」
この一週間で真弓が地元で調べたこと、『綺姫伝奇』で書かれたことのまとめなどがノートに書き込まれている。それをさらりと流し読みした館長代理という若い男の人は、そう言って彼女の努力を労った。館長代理という肩書きではあるが、見た目に大学生のようだった。もっとも、今日は休館日であるのを無理にあけてもらっているので、ジャージ姿はきっとそのためだろう。彼は読み終えてから最初のページを開き、改めて「よく書いている」と言った。
「ここまで調べといて、よくウチにこようなんて思いましたね」
ノートを机の上に置く。
「ここが一番、綺姫についての史料が揃っていると聞いていますけど」
と真弓。
「まあ、そうですね」
さらりとそれを認め、館長代理は机の上に置いた資料の束を二人の前へと押し出した。
高さは二十センチほどだ。司郎も真弓もその量に圧倒されたように眉を寄せたのだが。
「とは言っても、この程度かな」
「少ないんですか?」
中学生だの高校生の身では、史料がどの程度で多いというべきなのか基準が解らない。
「綺姫の伝説というのは、本来はかなりマイナーなんですよ」
「らしいですね」
小説になる前は、本当に知る人ぞ知るという程度のものであったらしい。司郎の近所にいた郷土史家の老人はそう言って『史伝綺姫』と『綺姫伝説集』という本を見せてくれた。ここに積み重ねられた中にもある。この二冊も『綺姫伝奇』の出版が契機となって発行されたのだという。郷土史の本としては当時かなり売れたらしい。便乗商法というやつだ。
「この二冊は作者違うけど、だいたい内容のレベルは似たようなものかな。史伝の方が史料を参考にしていると言えばそうなんだけど。綺姫伝奇の検証と言うと聞こえはいいが、読み比べながらここは歴史に沿っているとかそうでないとか……よく調べてある。だけど小説からの引用が多いから結構、内容は薄いですね。どうしてもそっちにページを食うし。それにこの頃は綺姫についての研究はほとんど進んでなかったから、今からすれば間違っていたりしてね。みはらし城が山城であったとかは基本的なミスですよ。あの山が今みたいになったのはかなり後で、城も一般的な山城とか砦のようなものではなかったらしい。あくまでも二十年前当時での検証だから。割合とそういう間違いが随所にあります。こっちの伝説集は史料批判とかではなくて片っ端から伝説とか聞き書きを詰め込んだもの。あっちこっちの古老とかに話を聞いたりしてて内容は濃いように思えるけど、実は重大な問題を抱えていて」
ここで館長代理はぺらぺらと本をめくり、「ここら」と付箋のついている箇所を広いて示してみせる。
「拝府谷の鬼というのが綺姫の子であるという伝承」
「神社でも聞きました」
真弓は自分のノートを広いてみせた。
「伝奇の方にはこの話はありませんでした」
「そりゃないでしょう」
二人はまじまじと館長代理の顔を見る。
「元々は違う伝説だったんだから。『綺姫伝奇』で有名になってから、なんとなく結びついたんですよ」
「そんなことあるんですか!」
真弓の声は悲鳴に似ていた。
「四十年前に出版されたにK村史には拝府谷の鬼啼きの怪とあって、綺姫なんて名前もでてきません。そもそも最初にこの話がでてくるのが、鎌倉時代にこの谷の近くにある籠野寺の住職していた坊さんの日記だから、話の起源としてはずっとこっちが古いんです。綺姫の話は史実であるとするのなら1510年とか1520年とかただから。鬼啼きの怪異は村史では明治の初めあたりまで続いてたらしいとあるけど、その頃までこの谷のあたりに大木があって、そこのウロに風が吹き込んでおかしな音をたてていたのがこの怪異の元になったのではないかと推測されています」
「……伝説集を書いた人は、そのことを知らなかったんでしょうか?」
司郎が聞くと、「解りません」と渋い顔で首をふる。
「著者の人はもう亡くなっているので。中学校で国語の教師をしていたという人で……猪瀬建彦先生という人。生前に一度お会いしたことがありますが、結局伺う機会はありませんでしたね。先生は綺姫の物語に調味を持ってこれを書いたそうだけど、聞いた限りではどうにもフィールドワークの方法をご存知ではなかったらしいです。当たり前かな。専門ではないんだから。多分、下手な聞き方をしたせいで、語り部が適当に話しをあわせて作ってしまったんじゃないですかな」
不思議そうな顔をしている二人に、館長代理は「伝説の採取にはよくあることなんですよ」とだけ言った。それこそ専門的なことになるから詳細は避けたようだった。
「そんなこんなで、『綺姫伝奇』のあとで色々と話が混じったりして、正確なところはよく解ってないというのが実情なんですな。たった二十年前の本のせいで。いっそ『綺姫伝奇』が一番詳しいんでないかってくらいに混乱しています」
「は――あ」
どういっていいのかも解らないという顔で、真弓はそれだけをようやく口に出せた。
無理もないな、と司郎は思った。色んな話を聞くごとに前のめりになってノートに書き込んでいたのだ。特に拝府谷の鬼の子については重大な関心を寄せていたように見えた。まさかそれがなんの関係もない話であったなどと、容易には信じたくはないことなのだろう。
館長代理はそこで苦笑した。
「とは言っても、『綺姫伝奇』も、基本の筋は種本の『神州剣談録』に入っている話に肉付けしたものだったりしますが」
「種本?」
真弓はそこで前髪を右手だけで左右に掻き分けた。それから前のめりになって積み重ねられた資料を上から見る。
「まあ、普通は知りませんか」
一冊一冊を横に置きながら、館長代理は一番下から三つ目の、原稿用紙十枚ほどを折りたたんでホッチキスで留めた束を手に取った。手書きで書かれたものをコピーしたものであるのが見た目に解る。
「これはその中から、綺姫に関係するところだけ抜書きしておいたもの」
「ありがとうございます」
真弓は深々と頭を下げた。
「『神州剣談録』というのは、聞いたこともありませんでした」
本当に感服している様子だった。
「無理もないですな。一般の人は普通は聞いたことがなくて当然です。元々は幕末の剣客で吉岡派鬼一法眼流の佐伯衛という人が著した、戦国時代から当世……つまり幕末の頃までの剣客の伝承とか物語の聞き書きを集めた本でしてね。流派に伝わる伝承なんかを中心に、広範にあちらこちらと話を集めたっていう。『綺姫伝奇』の作者のN先生は、その著者の佐伯衛の曾孫のやってた道場で習っていたという経緯があるので、それで知っていたのではないかと言われています。当人に聞けば話は早いですが、ちょっとそれはできないし。この本自体は現代訳も出ているけど……昭和の初め頃の訳で、武道関係の人以外はあんまりしらないですね。郷土史関係の人で綺姫のことを調べていた人は私のほかにもいないでもないですが、これについて知っている人はいませんでした。N先生は剣豪モノとか短編のいくつかをこれを種本にしているということは、その筋では有名なんですが」
全然知らなかった。
真弓も司郎も、主に郷土史関係から調べていたのだ。N先生がどういう経緯で綺姫の話を本にしたのかは解らなかったが、恐らく隣県の出であることから考えて、何か伝え聞いて話のネタにした――という程度なのだと思っていたのだ。それがまさか、武道の関係からなどというのは、まったくの想像の外であった。
「そういえば、『伝奇』に出てきた剣豪の佐伯少将というのは」
「『神州剣談録』の著書の先祖ですね」
そういう繋がりか、と二人が納得しかけたところで、館長代理はさらに言い添えた。
「正しくは近衛少将佐伯守道。綺姫の、母方の伯父にあたる人物」
今度こそ、二人は言葉を失った。
館長代理は悪戯っぽく笑ってみせた。
「お茶をどうぞ」
そこにトレイに湯気のたつ湯のみを三つ載せて、司書らしい女性がやってきた。
「お構いなく」
言ってから、黄色い茶の入った湯のみを司郎は覗き込む。香ばしい匂いがした。緑茶ではない。「韃靼蕎麦茶」と館長代理が説明していた。健康茶を色々と試しているのがマイブームだとかどうとか。司郎はそんなに興味がわかなかったが、真弓の場合はさらにどうでもいいらしい。一口つけてからすぐに湯のみを置き、質問する。
「『神州剣談録』には、綺姫のことはどう書かれているんですか?」
「基本的にそんなに『伝奇』と変わりません。というか、さっきも言いましたが、肉付けしたものですから。まあ、細部は異なるんですが」
手に取った紙束を開けて、館長代理は読み出した。
「綺姫の話は、佐伯守道の紹介の続きに書かれています……この兵法者の親族に、東国で知られた女武者あり。名をあや姫。生来より剛力無双。陣太刀を使うことを能くし、独自に練磨して名人也。世の人、鬼と通じてその力を得たと噂する」
その辺りは『伝奇』でも触れていたことだ。
二人が黙って言葉を待っているのを察したのか、館長代理は「こほん」と咳払いする。
「ある時、隣国の大名である内村家の軍に城を囲まれ――」
◆ ◆ ◆
いづれの御時か――と伝奇では最初に書かれている。
つまり、いつの時代の帝の御世であるのは定かではない、ということだ。京で天下を二分する大乱が生じておよそ五十年ほどたった頃であるというが、作中ではそれ以上には明確にされていない。大乱を応仁の乱とするのなら、その五十年後で十六世紀の初頭かその前後ということになる。考証もその時代を基準にして書かれているが、明らかにその時代にないものを出していることから考えても、やはりそんなに堅苦しくない、娯楽活劇として書かれたものであるに違いない。そういう内容であった。
物語はみはらし城が落ちる四日前、綺姫に兵法を伝えたという佐伯少将が城を訪れるシーンから始まっている。
みはらし城というのは、今でいう見晴山にあったという城である。戦国時代の城というのは砦かそのような山城であることが多いし、今の山を見ればそのように思われても仕方がないが、見晴山は当時は現在と違って広い高台のようになっていた。端から削り取られ、近くの堤の埋め立てに用いられたとりとか、石を削りだしてお城の石垣に使ったとか地方史には記されていた。さらに土砂崩れなどが度重なり、現在の広さは往時の三分の一ほどではないかと考えられている。。
綺姫がそこに立てこもっていた時代では、みはらし城は櫓で囲われていたとはいえ、陣屋とも言えぬ平屋の屋敷であったらしい。最初にここに移り住んだのは綺姫のさらに曽祖父にあたるという人物で、見晴のよい日にここから平野を見下ろしたくて屋敷を築いたのだという。見晴山の名前の由来である。
(酔狂なことだ)
と城へと続く階段を上りながら、佐伯守道は思う。京では風狂、野狂の人として通っている彼であるが、わざわざこんな辺鄙なところに屋敷を建てようなどと考えた氷川家の先祖のことについては、それだけで切って捨てた。二十丈(六十メートル)の高さで、台地になっていたとは言っても、そこに屋敷を建てるためにはほどほどに均さなくてはいけなかったはずだ。材料を持ちこむにしてもかなりの手間がかかったに違いない。どれほどの費用がかかったものかを考えると、さすがの風狂人も呆れるらしい。
もっとも、と思いながら立ち止まり、振り返る。
ここからの景色というのはなかなかによい眺めだということは認めてもいい。夕日を受けた水田が暮色に染まっていた。
山を囲むように集まりつつある兵士たちが無粋といえば無粋ではあるが、まあそこらを差し引いてもよい眺めだ。もう少し眺めていたかったが、名残を惜しむといつまで経っても目的地には行けもしない。
彼は「ふん」と鼻を鳴らして前へと向き直ると、足早に階段を上った。
ここに来るのは、彼の妹が亡くなって以来ではある。
佐伯家は家柄こそ古いものの、家格も地位もさして高いものではない。しかし、というか、だからというべきなのか、彼の親族には地方の武家などから嫁を欲しいと願う話がよくでてきていた。端くれとはいえど公家に連なる一族である。そこから嫁を得るというだけでも何がしかの満足が得られるらしい。あるいはすでに荒廃して久しいとは言え、都に対しての憧れというものがあるのかもしれない。彼の家に限らず、京から遠く下った地に嫁する姫というのは少なからずいるのが現状だった。彼個人は近衛少将などという高官を得てはいるが、公家というのはこの時代は何処の家も大方が貧乏である。東国とはいえ、それなりに古い家柄で金のあるところから嫁に請われて断れるはずもなかった。それに「構いません」と当人が承知してしまっては、もはや反対する理由もない。
武者修行、だのと言って彼がここ二十数年東国を回っていたのは、嫁いだ妹の安否をしるためであった。
公家とは言っても、鬼一法眼に発する京流兵法の悉くを修めた彼である。自ら天狗の化身と称したほどの腕前で、どれほど世情が乱れようとも恐れることはない。幾人かの剣客との交遊を得て、その技倆は老いてなおますます盛んであった。
妹を嫁に出した時にすでに三十歳であった守道であるが、今はもう五十を超えている。
この時代の平均年齢からしたら、もう老人と呼んでも差し支えはあるまい。だが、それでもなお足取りは若々しく、容貌もまた青年というのにはさすがに無理があるが、髪の毛に白いものが混じりつつもその顔には皺もほとんど目立たない。文字通りに年齢を感じさせぬ男であった。
階段を上りきって立ち止まり、ふん、息を吐く。さすがに疲れたのかしばしその場にいたが、やがて正門へと向かう。
(二年ぶりか)
思う。
以前にきたのは、妹が病いに倒れたと聞いたからだった。
たまたま隣国に来ていたから知ることができたのは、不幸中の幸いであった。病いを得てからの彼の妹が死ぬまでには五日もかからなかったのだから。
『あやを頼みます』
遺言だった。
大切な妹の愛娘と、しかし彼はそれから一度も会っていない。
◆ ◆ ◆
司郎が真弓と再会したのは、ほんの二週間ほど前だ。
夏休みもそろそろ半ばも過ぎた頃である。
「明日、そちらにいくから」
という電話が前日の夜にあった。
司郎がそれで従姉妹に再会することが決定して、まず最初に去来したのは嬉しさとか懐かしさとかではなくて困惑である。正直、声も覚えていない相手であったのだ。前に会ったのは確か三年前である。顔は写真をみれば「こんな顔だった」と思い出せたが、つまりそれはほとんど忘れていたということであった。
隣とはいえ、別の県に住んでいる従姉妹とその親である叔父夫婦とはほとんど交流はない。たまに正月に夫婦で挨拶にくることがあっても、そこに真弓はいないのが常だった。幼少時の記憶や印象などというものはほとんど当てにならないのだが、何処か変わったところがある子だったと司郎はなんとなく覚えている。単に自分の周りにはいないタイプであったのかも知れない。女の子の知り合いというのがほとんどいないというのもある。どうにも自分はあの子を苦手にしていたのではないか――と思っていた。
それで実際に再会してから印象はというと。
(こんなきれいな子だったかな)
というものだった。
記憶の底に沈んでいるぼんやりとした真弓の過去の表情は、もっと曖昧なものであったように思う。写真を見てもそんな感じだった。何処か無関心というか興味がないというか、世界そのものに大した意味を持っていないような、そんな女の子だった。もっとも、自分だってそんなに意味があるのか興味があるのかといわれたら戸惑うかもしれないが。少なくとも同じ年頃にあんな風な目をしていなかっただろうとは思っている。
それが今では違っていた。
髪型がショートになっているのは、多分、関係ない。
動作、目の動き、唇の形、声、それらが――上手く言葉に出来ないが、生き生きとしている。
司郎にはそれがどうしてなのかも解った。
真弓は、きっと今自分がしていることが楽しくて仕方がないのだ。自分が何かの目的のために行動できるということが嬉しいのだ。
そのことをはっきりと「羨ましい」と言う言葉にはできなかったが、貴重な夏休みの後半を彼女につきあって県内をうろついているのは、やはり何処か真弓を突き動かす力に魅せられた部分があったに違いない。まあ、歴史に触れるというのが思ったよりも刺激的であったというのも確かではあったが。
そうなのだ。
彼女はこの地方に伝わるマイナーな伝説である、「綺姫」について調べたいと志郎に申し出てきたのだった。
無論のこと、司郎は綺姫のことは名前だけではあるが一応知っていた。『綺姫伝奇』の発売からこっち、なんの名物もないこの県での観光の目玉……とまではいかないが、それなりの知名度を持って盛んにPRされていたのだから。伝説の本場である町では、毎年〝ミス綺姫〟なんてコンテストまでされている。地方発のニュースでそういうのが報道されているのくらいは眼にしていた。
しかし、そんなとはいえ、あるいはだからこそなのか、伝説の詳細については意外と知っていないということを調べていて自覚することになった。
最初に「綺姫」関係の書籍を地元資本の大規模書店チェーンの郷土史コーナーで見てみたが、内容はどれも似たり寄ったりのものであるように思われた。じっくりと検証する余裕はなかったが、軽く立ち読みした限りではそう感じた。買わなかったのは郷土史の本は基本的に自費出版で大部数は刷らないので、定価が割合と高いからである。高校生と中学生の小遣いではちょっと厳しい。
続いて図書館に行ってみた。県立図書館は十年前に「東洋一」という能書きをつけることのできた大規模なもので、さすがにここにはかなりの本があった。ちなみにその二年後には別のところが「東洋一」になっているのだけど、それはかなりどうでもいいことである。ここの本は質も量も相当のものであったが、それだけに二人で手分けして調べるといのうが面倒になった。
それで何冊か貸し出しのできる本を持って帰って、難しい内容をそれでも辞書を引きながら家で読んでいると、祖父が「それなら近所の郷土史家を紹介してあげよう」と言ってくれた。近隣にはそういう人が何人かいて、祖父は結構顔が利くのだという。灯台下暗し、というのとは少し違うかもしれないが、最初から相談すればよかったと思った。
で、紹介してくれた郷土史家は、一昨年に近所の高校を定年退職したという日本史の教師であったという人で、『郷土の歴史・伝説を小説にする会』のメンバーでもあった。図書館でこれこれこういう本を借りたというと、綺姫の本を何冊か紹介してくれた。綺姫に関係することはだいたいこの二冊にまとめられているとのことであると。二人が借りてきた十冊もの本の中にはそれらも入ってはいたのだが、この二冊はそれらをもとめたもので、逆に言えば、他の八冊には綺姫に関係することは断片的にしか書かれていないとかなんとか。
「郷土史やってる人で、綺姫に関心のある人は案外と少ないから」
と禿頭に眼鏡の元日本史教師は言った。
なまじ小説でメジャーになったせいで、どうにも今更に手をつけるというのがミーハーじみているように感じるからだろう、とのことである。それなりに郷土では有名なのでたまに新書サイズで本が出るが、大方はこの二冊『史伝綺姫』と『綺姫伝説集』を孫引きにしたものであったりするのだという。最初に書店の郷土史コーナーで読んだ本を「内容が似たり寄ったり」と思ったのは、まさにそのとおりであったのだ。
「綺姫の話に一番詳しいのは、ろごすの館長代理だと思うな」
そう言いながら、『郷土の歴史・伝説を小説にする会』の会報というのを出して見せてくれた。
「『数年来、綺姫の話を採取してはいるが、ようやく話にできる程度の資料がまとまった』と書いてある」
「ろごすというのは?」
「私立の図書館で、綺姫神社のすぐ下にある。郷土史に限らず歴史・哲学・宗教・文学の本などを趣味的に集めた図書館。そこの館長代理は若いけど、かなり詳しい人。綺姫神社に行くんなら、ここで話を聞くといい」
話し好きだから、きっと色々と教えてくれるよ――と何処か苦笑するように言う。
明後日に綺姫神社に行く予定であるというと、「ああ、だけどその日は休館日だ」とのことであった。
残念がる二人を見ていた元日本史教師は、携帯電話を取り出して連絡をしてくれた。
「休館日だけど。暇なので図書館にいるから聞きにおいでだって」
そう繋ぎをつけてくれたが、やはり苦笑しているようであった。
◆ ◆ ◆
「どうした。それでおしまいか」
守道が門番に案内されて中庭に行くと、聞き覚えのある声が耳に届く。続いて、雄たけびと鋭く棒状のものが空を切る音。
ほう、と思わず声がもれた。
辿り着いたそこでは、タンポ槍を持った鎧直垂姿の武士が何人も並んでいた。彼らは笑い、あるいはしかめっ面で中央にて木製の薙刀を構えている使い手を囲んでいる。薙刀の使い手は一人であり、それぞれ一人づつが対手として出ているようだ。
問題は――薙刀使いだ。
眼にも眩しい白い水干姿の女だ。黒髪をさらさらと背中に流している、遠目にも美しいと解る娘だった。村娘にはありえぬ白い肌、小さな桜色の唇。そして、大きな黒曜石を磨いたかのような瞳。
水干姿の娘は薙刀をゆっくりと振り回しながら自分の相手を務める武士へと歩き、また下がっては攻撃を促している。
槍を中段に構えて攻めあぐねていた若い男がいるが、やがて意を決したか娘が下がり始めたのにあわせるように槍を突き出した。
薙刀はその槍をどう迎え撃ったのか。
その軌跡を確たるものとして見極めた者は恐らくほとんどいまい。
ぶんと空を裂く音がすると、派手な音をたてて槍は叩き飛ばされたのだ。
「参りました――」
男は膝をつき、言う。
「ふん」
娘は息を吐いてその様子を見下ろすように眺めていたが、やがてこちらの視線に気づいたのか顔を上げて。
「伯父上、おひさしゅうございます」
頭を下げた。
周りにいる者たちもまた彼を見てざわめいていたが、すぐに彼らの主人に倣ったようにある者はそのまま頭を下げ、ある者は膝をついて彼を迎えた。
「久しいな。あや」
守道もまた、笑顔を浮かべて姪との三年ぶりの再会を果たした。
「無作法をしました。稽古の途中でしたので」
「先触れはきていたはずだがな。――にしても、なんだいその格好は。水干に薙刀か。これに立て烏帽子でもかぶってたら古えの白拍子だな。静御前のようだ。扇子を貸してやるから舞でも一指しまってみるか?」
姪御に対してとはいえ、配下のいる前で領主の姫にいう言葉とも思えない口調だ。
あや姫は一瞬、虚をつかれたような顔をしたが、右袖で口元を隠しながら「ほほほ」と笑う。
「私が白拍子で静御前したら、伯父上はなんですの? 義経公ですか? その風体では、とても都の殿上人とは思えませぬ」
「九郎判官は天狗の弟子にしかすぎんだろう。俺と一緒にするな……東国まできて、狩衣など着ていられるか」
周囲の者たちは、そういう二人のやりとりを見ていて一様に困ったような顔をしていた。
一見して、公家とその姪で小なりとはいえ領主の娘の出会いというには異様な光景であった。水干姿のあやもそうだが、旅の仕様に拵えた鎧直垂で蓬髪頭の守道も公家とは到底思えない。眉も伸ばしっぱなしっだし、あごにも髭が薄くだが生えている。旅の武士といえばそれで通りそうであるし、実際にそういう風に通してきた。
にしても、自分の姪御相手とはいえ、白拍子というのは無礼にも過ぎるように思えた。
白拍子というのは、平安の昔から続いていた舞を専門とする男装の芸者のことである。白い水干に太刀を佩きながらも舞いを披露していたという。それもやがては太刀をなくし、烏帽子をやめ、やがては水干だけになった。ゆえに白拍子。公家の館に出入りしていたことからもそれなりの教養があったとされたが、女芸者とは、古代においては遊女と同義である。後世には舞いをする男装の遊女として認識されることになった。つまりは、この男は自分の姪を遊女のようだと言ったのである。
当世では白拍子はほとんどいなくなったが、言葉としてはまだ知られている。侮蔑にも聞こえる言葉であったが、いわれた方もさして気にしている風でもない。
ほとほと、周囲の者達を困惑させる二人であった。
余談ではあるが、この時にあや姫の水干姿をしていたというのはよほどに印象が強かったらしい。このことが元で一部の伝承では「あや姫は実は亡くなった領主が入れた白拍子であった」という話がまことしやかに伝わって、後世の学者を混乱させることとなったのだが、この時分の当事者がそんなことなどわかるはずもない。
「にしても、腕を上げたな」
ひとしきり笑いあった後で、守道は言う。
それは槍を捌いた薙刀の腕前についてである。
「あれから四年たちますゆえ」
「最後に稽古をつけてからか。三年前はすぐに帰ったからな……どうやら精進は重ねていたようだが」
そのまま槍を持っていた一人に近づき、何気ない動きでとりあげた。穂先はついてない。稽古用のタンポ槍だ。
「鬼一流兵法の槍働きに対しても、同じく相手できるか?」
中段に構えた。
それは何の変哲もない槍の構えだ。
しかしにも関わらず、他の誰とも違う構えであった。
――磐石
その言葉を体現したかのようである。
対するあや姫は、するりと後ろに下がって薙刀の切っ先を下段に落とした。
そこには堅牢さなど見受けられない。柔弱であり、頼りなげである。儚くさえあった。
囲んでいた武士達が何かを口にする前に、守道は「ふむ」と呟いて構えを解く。
あや姫もまた薙刀を立てた。
「伯父上は相変わらず、何をするか解らぬ人ですね」
「すまんな。許せ――にしても、本当に腕を上げた。ここに木曾の巴御前がいたとしても、お前には敵うまい」
「静御前の次は巴御前ですか」
それでもほめておられるつもりですかなどと軽く言い合っていた二人であるが、中庭がすっかり暗くなると、さすがに会談もそこまでになった。
「そろそろ夕餉の支度がすんでいると思います」
「では、その後でゆうるりと話の続きをするか」
「それでは、お待ちになってください」
そう言ってあや姫が動き出すと、それを守るように四人ばかりの武士が周囲についた。
それらを見送っていた守道ではあるが、やがて何かに気づいたように昏い空へと目をやった。
「昨今はいろんな者がいるとは聞いているが……はて、厄介な合戦になりそうだ」
◆ ◆ ◆
『綺姫伝奇』という物語は、前述したが佐伯少将が自分の弟子である綺姫の元に訪れるというシーンから始まる。
この佐伯少将の本名は作中では紹介されてないが、正しくは右近衛少将佐伯守道という。この時代は朝廷の権威などほとんどなかったが、それでも官職としてはそれなりの位である。生半になれるものではない。彼がどういう功があってそこに至ったのかということについては、しかしよく解っていない。ただ、それほど長い期間任じられていた訳ではない。記録ではほんのニ年ほどであり、彼は中将などになることなくそのまま引退している。その理由も解らない。当時のとある公卿の日記には、
「野狂の人であるがゆえに」
とだけ書かれている。どういう事情があったのかを詮索したような人間はあまりいなかったらしい。この人ならばさしたる理由もなくそういうことをしてしまいそうだ、と各々で勝手に納得していたようだった。つまりそれだけ変人、奇人の類として知れ渡っていたということだろう。
もう少し詳細をいうと、公家でありながらも鬼一法眼流兵法を能くしたこの男は、自ら天狗の化身を称していた。
『神州剣談録』に拠ると、守道は二十二歳の時に鞍馬山に参詣すること百日を重ね、遂に魔王大僧正を霊夢に見て、それによって剣の真髄を得たと云う。武術の流派などにはありがちな話であるが、以来、守道は兵法の修練を重ねて次代へと伝えた。遅くに出来た子(孫という説もある)に流派を継がせた翌日、鞍馬山に参詣に行ったまま行方知れずになった。天狗になったのだと世間の人は噂した、と締めくくられている。跡を継いだ佐伯白人は、父に倣ってなのかどうかは不明であるが、「鬼の子」と自称していた。天狗の子が鬼の子というのはつじつまが合わぬ話ではあるが、世間でそのことを指摘するような人はいなかった。ほとんどの人は彼のことを知らなかったというのだ。白人は自らの容貌が醜いため、それを隠すためにほとんど出歩かなかったというのである。この白人については『神州剣談録』にはほとんど記されていないが、従兄弟に流脈を譲ってから出家して、三十五歳で入寂した。
なお、守道が引退してから鞍馬山で姿を隠すまで、佐伯少将という呼び名は変わらなかった。
どうやら彼の通称として「少将」と定着していたらしい。晩年までそう呼ばれていた。だから、彼が少将と呼ばれていたからと言っても、この綺姫の話がいつの時代のものであるのかを特定する目安にはならない。
さて。
物語では、少将が綺姫と再会し、そこから綺姫の回想に入る。
それは綺姫がどう育って、どういう経緯で内村家との合戦をすることになったかの話である。
一般にこの地方に伝わる伝承では、婚約したばかりの綺姫が、それなのに鬼と通じてその子を産み、そのことで自分をなじった父を殺してこの地方に祟りをなしたため、婚約していた相手の内村家の息子に攻め滅ぼされた……ということになっている。
幾つかの文献によって細部は異なるが、大筋ではそう変わりはない。
『綺姫伝奇』では、その鬼について「山人の男」の仮託としている。
山に住んでいた異能の者たちであるということだ。歴史上にそのような者たちがいたのかということは定かではないが、伝奇小説である。その辺りをどうこう言っても仕方あるまい。作中では朱天童子やら伊吹童子やらの昔話の鬼の話を挙げて「恐らく彼らは平地民に馴染めずに山中の異界に篭った『まつろわぬ民』であったに違いなく、彼はその末裔であった」と結んでいる。彼とは「山人の男」のことである。
『綺姫伝奇』は、その山人の男と綺姫の、許されざる恋物語なのであった。
◆ ◆ ◆
「どうにもね、ちょっと筋が通ってないのよね」
と真弓は最初に『綺姫伝奇』を司郎に読ませた後でそう言った。
自分の部屋に従姉妹とはいえ、女の子を連れ込んだのはほとんど初めてである。司郎は最初の十分こそはドギマギとしていたが、差し出された本を読んでいる内にそういうのはなくなった。読書に集中していたと言えばそうなのだが、真弓は用意された椅子に座って自分で用意した別の本を読んでいてたりするのである。自分だけが気にしているのかと思うと、なにやら馬鹿馬鹿しくなったのであった。
とりあえず、司郎は真弓の言葉を受け取ってから「んー」と思案顔になる。
「筋、ねえ」
小説そのものはよく書けていると思うけど――と答えると「当たり前でしょう。小説なんだから」と軽蔑されたように言い返された。
「伝承をそのまんま小説にする人っていないでしょ。ふつー」
「俺はそんなに小説読んだことないから、知らないよ」
そう言うとますます視線は厳しくなった。
「伝承とかそういうのを現代訳にしているだけだったら、小説って言わないよ」
「そういうもんか」
そういうものだと思うしかない。
真弓が最初にこの小説を読んだのは、年末の大掃除で母の蔵書を片付けていたことがきっかけであったという。
漫画の類などほとんど読まない母の本棚から、二十年前の人気漫画家に表紙イラストが飾られた単行本を真弓が見つけたのである。
「嫁入り前に買って、それっきり」
とのことであって、母は一度ざっと読んだきりだそうだ。
その頃に地元でちょっと売れていたということで、当時の恋人に勧められて購入したのだという話である。
真弓がそれを読むことにしたのは、それこそたいした理由はない。暇つぶし以上のものではなかった。
それで読んでみた感想はというと「ふつーに面白い」である。この場合の「ふつー」は「結構いい」とかそういう意味であるが、思っていたよりも、というニュアンスもあった。二十年前の小説ではあるが、やはりれそれなりに売れていた作家の作品であるから、それなりにできはいいのである。話の筋立てもシンプルであったし、丁度暇をもてあましていた真弓は何度か読み返した。そうしているうちに、どうにも辻褄の合わない部分を見つけたのであった。それは『綺姫伝奇』そのものに対してではなく、巻末に付記されていた伝承の綺姫についての部分であったが……。
「ほら、婚約してすぐに赤ちゃん生んでるでしょ」
「そうだな」
「そうだな、じゃないでしょ」
赤ちゃんをすぐに産んでしまうような状態で婚約なんかできるのだろうか、と真弓は言う。
「そこら伝説なんだから、まじめに考える必要ないんじゃないか?」
「婚約の前後に鬼に何かされたとして、それでも十ヶ月も婚約から結婚まであいてたのかな?」
「おなかが目立たないタイプだったのかもしれないし、何度もいうけど、伝説なんだからそんなに細かく考える必要もないとは思うぞ」
「まー、そうなんだけどさ……」
鬼と通じて鬼の子を産んだがゆえに婚約者の怒りを買い、攻め滅ぼされた……というのは、伝説にしても乱暴な話ではある。しかし問題は、綺姫の伝説は伝説にしても、歴史的事実として、見晴山の城に住んでいた女城主がいたのもまた確かなのだ。
「伝説は、事実そのままでないにしても何かを反映しているはずだわ」
「そういうのよく漫画にあるよな」
「混ぜっ返さないでよ。――まあ、漫画とかの受け売りなんだけど」
受け売りであることは素直に認め、真弓は「うーん」と首を傾げてみる。
「伝説の何処までか事実なのか、よくわかんないのよねー」
「ネットで調べた?」
「そういうのは最初にしたよ」
当たり前か、と司郎は思いながら机の上に設置してあるデスクトップ型パソコンに向かう。すでに起動させていた画面で「綺姫」と打ってからスペースと県名を入れてエンター。
検索結果は6000――多いのか少ないのか、よく解らない。
「ちょっとこれだと精度悪いか」
「綺姫伝説と打った方がいいよ」
「と」
司郎を押しのけるように、真弓が画面を覗き込んでくる。
「こっちの人でサイト作っている人がいるから。あと綺姫神社とか」
前髪を左手で押さえつけながら、右手でマウスを奪って操作してそれらのサイトを呼び出す。
「最初に検索したのは、本当にちょっと気になっただけなんだけど――これ見て」
『綺姫の伝説の元になった事件は近隣の寺社などの記録で確認できますが、いずれも伝聞調で詳細は不明です』
『内村家も1522年に攻め滅ぼされており、記録は残されていません』
「――年代は推定で1513年から1520年の間ではないかと思われる……って、かなり広い期間とってんね」
仮にも一つの領主が滅んだのであるから、ほとんど詳細が解らないというのは異常である。
綺姫神社のサイトでは、そのあたりの事情についてはほとんど触れていない。
ただ、近隣に「あやひめ」と記載されていた姫がいたというのは事実であると、繰り返しそう述べているだけであった。
「何があったのか、気になるじゃない」
真弓は言う。
なんで、「あやひめ」は鬼の子を産んだことにされたのか――
なんで、「あやひめ」は滅ぼされねばならなかったのか――
「もしかしたら、何か小説とかになると思わない?」
つづく