5話_迷いの騎士2
夕食後の穏やかな時間。食事を終えるなりどこかへと姿を消していたメルルが「じゃじゃああん」とリビングに登場した。
「あたしも胸が大きくなりましたあ」
メルルがそう言いながら膨らんだ胸をバルンバルンと揺らす。少女の変貌ぶりにアルベルトがぽかんと目を丸くしていた。
「どうですかあ? セクシーですかあ? これであたしも朝の体操とかで胸が揺れて痛いとか言えちゃいますねえ」
「ば……ば……」
アルベルトがテーブルに拳を叩きつける。
「この――馬鹿者があああああ!」
「ひゃあああ!?」
アルベルトの怒声にメルルがぴょんと飛び上がる。直後、メルルのエプロンの裾から二つのメロンが転げ落ちた。どうやら胸元にメロンを入れて胸を大きくしていたらしい。
「め、メルル! お、お主はなんて……なんてハレンチな真似をするのだ!」
「は、ハレンチですう?」
「胸を大きくして男を誘うなど――わしはお主をそんなふしだらな娘に育てた覚えはないぞおおおおお!」
力説するアルベルトにメルルが困惑したように首を傾げる。
「えっと……あたしはただドロシーさんみたいに大きい胸になってみたくて――」
「お主はそのようなこと考えなくて良いのじゃああああ!」
老人とは思えぬ機敏な動きでメルルの前に近づいて少女の肩をがしりと掴む。
「よいかメルル。胸に引き寄せられるような男は人間の屑じゃ。おじいちゃんはそんな屑をメルルに近づけたくはないのじゃ。メルルはそのような真似をする必要はない。メルルはメルルのままが一番可愛いのじゃよ」
「そういうものですう? でもでも、おじいちゃんも女の人の胸とか好きですよねえ?」
「そ……そのようなことはないぞ」
メルルの純真無垢な問いにアルベルトが大量の冷や汗を流しながら頭を振る。
「わわわ、わしは胸の大きさなどで女性の価値を決めるようなああああああ、浅はかな男では断じてない。めめめめめ、メルルは何を馬鹿なことを言っておるのかのう」
「それじゃあドロシーさんの大きい胸も本当は全然興味ないんですう?」
「ももももも、もちろんじゃ」
「ドロシーさんの大きい胸に触りたいとも思わないですう?」
「さささ、さわりたくなど……」
「これからドロシーさんの大きい胸をいやらしく見たりしません?」
「ぐ……ぐぐ……胸を見るなど……」
アルベルトの目から大量の涙がこぼれる。
「む、無理じゃああああ。このようなプルンプルンを前にして一瞥もくれぬなどわしにはできぬ。す、すまぬメルルよ。おじいちゃんは大きな胸が好きなのじゃあああ」
しくしくと泣き崩れる老人をメルルが「よしよし」と背中をさすり宥める。なんだかよく分からない。分からないがとにかくアルベルトは私の胸が好きらしい。普段なら不快感も露わに一言言ってやるところだが――
「アルベルトさんはこんなものが好きなのか……それなら都合がいいな」
アルベルトとメルルが「え?」と目を丸くする。私はさっとソファから立ち上がり部屋の出口へと歩いて行った。
「今日はもう休ませてもらうよ。二人とも、お先に失礼する」
ポカンとしている二人から視線を逸らして私はリビングを後にした。
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いつもより早い時間にベッドに入り目を閉じる。だがまるで眠れる気がしない。ベッドに転がりながら数時間が経過。私は目を開けて時計を確認した。深夜十二時。
私はベッドから降りて部屋を出る。そのまま足音を殺して廊下を進み、ある扉の前で足を止めた。目の前にある扉。その部屋は――アルベルトの寝室だ。
「私にはこんなことしか……できない」
人類を救うためにアルベルトの子供を産む。私はすでにその覚悟を固めていた。
当然ながら問題も山積みだ。まず思いつく問題としては、大魔導士アルベルト・バーゲンの子供が本当に異界の怪物と戦えるのかということだ。天才の子供が常に天才とは限らない。もしかするとアルベルトの子が才能に恵まれない可能性だってある。
だが天才から天才が生まれる可能性は凡人から天才が生まれる可能性よりも幾らか高いはずだ。人類の危機が間近に迫っている今、より高い可能性に掛けるのは合理的だろう。
その他に倫理的な問題もある。異界の怪物と戦うためだけに子供を作る。それは子供を道具のように利用することと同義であり、許されるべき行為ではない。
だが事実として異界の怪物に勝利しなければ人類は滅びる。そして勝利する可能性が僅かでもあるのはアルベルトの子供だけなのだ。倫理観は確かに大切だ。正しい倫理観こそが大勢の人を救うことになるのだから。しかしその倫理観を守るために人類が犠牲になるのであれば本末転倒だ。
人類を救うためには倫理観に背いてでもやらなければならないこともある。世界中の人から非難されようと、或いは当事者である実子から恨まれようとも、成し遂げなければならないこともある。私はその覚悟を固めるために今日一日の時間を費やしたのだ。
「結局……上層部の思惑通りになってしまうということか……」
騎士団から下された任務。守人の引継ぎ。だがその任務の裏にはアルベルトの子供を産ませるという上層部の思惑があった。わたしはそれに反発して守人の引継ぎを必ずやり遂げると誓った。だが最終的に私は上層部と同じ決断を下すこととなった。
目の前にある扉。この先の部屋でアルベルトが眠っているはずだ。正直なところ男性との営みはまだ経験がない。ゆえに男性をどう誘えばよいのかも分からない。だが恐らく私が何かを考える必要はないだろう。好色家であるアルベルトの指示に従えば問題なくことが済むはずだ。ほんの数十分。或いは数時間。ただ流れに身を任せればいい。
私は扉をノックしようと右手を上げた。この夜の出来事をメルルに知られるのは良くない。あまり大きな音を立てずにノックしようと私は右手を動かして――
「……く……」
右手が動かない。
「……今更なにを迷っている?」
私はこんな形でしか役立てない。人類を救うことができない。それを理解したはずではないのか。覚悟したはずではないのか。それなのにどうして右手が動かない。
「人類の未来がかかっているんだぞ……自分の身を心配している場合か……」
震える右手を左手で押さえて、私は思い切って扉をノックしようと――
「そんなところで何をしておる?」
背後から声が聞こえて私は慌ててその場から飛びのいた。暗い廊下にぽつんとした人影。それは目の前にある部屋で休んでいるはずのアルベルト・バーゲンだった。
「そこはわしの寝室じゃぞ。お主の寝室はその角を曲がった先にある」
アルベルトが可笑しそうにくつくつと笑いながら扉の前まで歩いて近づく。
「寝ぼけてしまったようじゃな。さっさと自分の部屋に戻り寝てしまえ。明日のラジオ体操に遅れればメルルがむくれてしまうぞ」
扉を開けて寝室に入ろうとするアルベルトに私は慌てて口を開いた。
「違うんだ! アルベルトさん! 私は――」
「寝ぼけておるのじゃよ」
アルベルトが淡々と言う。
「だからお主は部屋を間違えた。進むべき先を見誤った。それだけのことよ」
「……私は」
「わしはもう寝る。詰まらぬ理由で決して起こすではないぞ」
アルベルトがそう話してぱたんと扉を閉じた。私はしばし廊下で立ち尽くす。恐らく扉をノックしてもアルベルトはもう私を部屋に入れてはくれないだろう。
「こんなこともできないのか……私は……」
自分の不甲斐なさに怒りを覚えながら私は自分の寝室へと引き返した。




