5話_迷いの騎士1
アルベルト邸の朝は日課となるラジオ体操から始まる。
「ほらほら、おじいちゃん。今日はいつもよりも元気ないですよお。ちゃんと手をピシィと伸ばしましょう。ほらピシィ」
「ひい……ひい……め、メルルや。勘弁しておくれ。わしは朝から節々が痛くて痛くて……よう動けんのじゃ」
「そんなこと言っていると、また腰痛めちゃいますう。そんなやる気のない体操だとせっかくデリバリーで来てくれた体操のお兄さんにも失礼になっちゃいますよお」
「ほら皆さん! ハッスルハッスル! 運動の後は美味しいプロテインを用意していますから頑張りましょう!」
「ひいひい……な……なにやらデリバリーする輩を間違えたような気がするわい」
高速腹筋を始めるラジオ体操のお兄さんにアルベルトが憎々し気に言う。ラジオ体操お兄さんの過剰な運動を的確にこなしてメルルがふうと汗を拭う。
「いい汗かきましたあ。程よい運動はやっぱり気持ちいいものですよねえ」
「ほ……程よいかのう……メルルや。どうも今日は普段にもまして元気じゃのう」
「そうですかあ? うーん、でもそうかもですう。なんだか不思議とたっぷり運動してたっぷり眠ったみたいに力もりもりなんですう」
「ものすごく心当たりあるが……と、とにかく少しは手加減してくれんか。ほれ、ドロシーの奴もさすがについてこれんみたいだぞ」
メルルが「え?」とこちらに振り返る。ぼんやりしていた私は目をきょとんと丸くして「ああ、いや」と頭を振った。
「す、すまない。ちょっと考え事をしていたんだ。えっと……何の話だったかな?」
「あの……ラジオ体操大変ですう?」
「体操? そ、そうだな。こう、ピョンピョン跳ねる奴は胸が揺れて少し痛いかもな」
「うぐ……」
なぜかメルルが傷心したように胸を抑えて声を詰まらせる。「み、見逃した……」と沈痛な面持ちで呟くアルベルト。なんて事のない平凡な朝の景色。昨日の騒動が嘘のようだ。
だがあれは決して嘘ではない。紛れもない事実であり――
結果次第では人類が破滅していたかもしれない重大な分岐点だった。
(私は何もできなかった……)
その事実が胸を締め付ける。
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デリバリーされた有名シェフによる豪勢な朝食。それを一通り済ませて私はそばに置いていた剣を掴んだ。
「では私は日課の稽古をしてくる」
「ええ? ドロシーさんもたまにはゆっくりするですよお。今日はおじいちゃんが芸人さんをデリバリーしているみたいですし。一緒に楽しむですう」
「……すまない。私は守人を引き継ぐという使命がある。遊んでいる暇はないんだ」
「一日ぐらいいいじゃないですかあ。あたしドロシーさんともっとお話がしたいですう」
メルルがにこやかに笑いながらこちらに近づいて来る。瞬間、脳裏に昨日の記憶がよみがえる。頭部から生えた角。臀部から伸びた尾。血に濡れた赤い瞳。人間ではない姿でこちらを睥睨する彼女の姿――
「――!」
近づいてきたメルルから思わず一歩遠ざかる。メルルがきょとんと首を傾げた。
「あ……いや……け、稽古を休むとすぐに訛ってしまうんだ……だから本当にすまない」
私はメルルに謝罪して逃げるようにリビングから出ていった。
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アルベルト邸の庭で剣を振る。アルベルトにより修復された剣に不備は感じられない。剣の重量も、手にかかる負荷も、昨日までと何も変わらない。だが幾ら剣を振ろうと私の心には不安だけが募っていった。
「はあ……はあ……はあ……」
一心不乱に剣を振り続けて息が切れる。私は大量の汗を流しながらふと視線を横に向けた。昨日まで存在していた街並み。それがごっそりと消失している。昨日の騒動で全て破壊されたのだ。アルベルト曰く少しずつ修復していくとのことだが――
「はあ……はあ……っ」
鉛のように重くなった腕を振り上げて私はまた剣を振り始める。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。そして――
手から剣がすっぽ抜けて飛んでいく。
「ぜえ……はあ……ぐ……はあ……」
地面に突き刺さった剣を一瞥してから私は自身の手のひらを見やる。手の皮が破れて血が滲んでいた。この血で剣が滑ったのだ。
「稽古を……続けないと……」
歩き出そうとする。だがすぐに膝が崩れてその場に倒れ込んだ。息が苦しい。汗が滝のように流れて全身びしょ濡れだ。明らかなオーバーワーク。しばらくは立ち上がることさえできそうになかった。
「なにを……やっているんだ……私は……」
こんなことで……この程度のことで音を上げてどうするのか。また昨日のような失態を繰り返すつもりなのか。私は強くならなければならない。守人を引き継ぐのなら昨日の怪物と戦えるだけの力をつけなければならない。だから日々稽古を続けて――
「……続けて……どうするというんだ?」
地面に突き立てられて剣を眺めつつ私はそう呟いた。稽古を続けてどうなるというのか。こんな棒切れの扱いに長けたところであの怪物たちと戦えるようになるのか。見渡す限りの街を一瞬にして破壊したあの怪物たちに立ち向かえるようになるのか。本当にそんなことができると考えているのか。
「……無理だ……私には……」
戦えるわけがない。どれだけ稽古を積もうとも。あれはそういった次元の話ではない。あのような怪物とまともに戦うなど人類には不可能だ。ただ一人の例外――
大魔導士アルベルト・バーゲンを除いて。
「……私には……無理なんだ……」
仮に同じような敵をまた目の前にすれば私は無様に震えることしかできないだろう。まるで置物のように硬直するだけだ。否。実際はもっとひどい。置物であれば少なくとも戦いの邪魔にはならない。だが私はアルベルトの足かせにしかなっていなかった。
「……私は……何もできない……」
大魔導士アルベルト・バーゲン。その彼の役割である守人を引き継ぐ。それが容易でないことは初めから理解していた。理解してそれでも成し遂げようと考えた。騎士として人類を守るために尽力しようと考えた。
だが全てが甘かった。異界生物から世界を救済した大魔導士。アルベルトのその伝説は聞いていた。それなのに気づけなかった。その言葉が意味する異常さに。本の中ではありがちで、だが現実では決してあり得ない、個人が世界を救済するというファンタジーに。
大魔導士アルベルト・バーゲンはあくまで人類のイレギュラーなのだ。五十年前はその彼が偶然存在したからこそ異界の危機を乗り越えることができた。
だがその彼も寿命が近づいている。彼が死した後に人類に打つ手などない。イレギュラーな彼に近づける者など誰もいない。私のような凡人がいくら努力を重ねようとも彼の足元にも及ばない。それがよく分かった。
「だとして……どうしろと言うんだ……」
このまま無駄な努力を続けるのか。それとも全てを諦めて立ち去れば良いのか。どちらを選んでもそう大差ない。私には何もできないのだから。人類が危機に瀕していることを知りながら何の力にもなれないのだから。
だがここで――私は気づいてしまった。
「……ある……一つだけ……私にもできることが……」
脳裏に閃いたとある考え。
その考えに私は背筋を凍らせた。
異界の怪物と戦えるのは大魔導士アルベルト・バーゲンただ一人。それ以外にはあり得ない。だがその彼も死が迫っている。ならばどうするのか。答えは簡単だ。
大魔導士アルベルト・バーゲンを――彼の遺伝子を持つ存在を増やせばいい。
「私が……アルベルトさんの子供を産めば……」
人類はこの先に起こるだろう危機を乗り越えることができるかもしれない。人類のイレギュラーたる大魔導士アルベルト・バーゲンの遺伝子ならそれが可能かもしれない。そしてそれこそが無力な自分にできる唯一のことなのだろう。私はそれを理解して――
一人涙をこぼした。




