下
これは単なる憶測によるものになる。伝承に残された答えは科学的根拠を持たず、どれだけ考えても答えは尾上音色の中にあるため、私にできるのは事実の選択しかない。それでできることは人助けではなく、緩和。人が侵される病に対しての一時的な処方薬にしかならない。それでも尾上音色は救わなくてはならない。
尾上と出会ったのは先週。氾濫する川に飲まれんとしていた彼女を助けたことがきっかけだった。
これに対し尾上は狸囃子が聞こえたからその方向に向かったと言った。だが、どうだろうか。
彼女が川に向かうその直前まで、狸囃子は川下の方角、つまり川の進行方向と同じ向きから聞こえていたわけである。それがどうして川の方角から聞こえたのか。
「まるで私を殺そうとするために降ったみたいっすね」
これはその日の大雨に関して尾上が言った言葉。もし、これが本当に彼女の言う通りで、彼女を殺すために狸囃子が川の方角から聞こえ出したというのなら、一つだけおかしな点がある。
『突風が吹き荒れ、雨が強まり狸囃子を掻き消した』
元来、狸囃子というものは遠くから聞こえる小さな祭囃子の音である。それが強い雨によって掻き消されるのは当然と言えば当然。しかし、川の方角からは鮮明に聞こえてきたという。何故か。
私は、おそらくそれこそが幻聴なのだと思っている。つまり、尾上は幻聴で狸囃子を作り出し、自ら川の方角へ向かっていたのだと考えている。
ただ、狸囃子は怪異なのだから、雨の音より鮮明に聞こえてもおかしくはない。その可能性は捨て切れないが、限りなく低いと考える。
江戸末期に書かれた『陰陽外伝磐戸開』によれば、狸囃子は風の無い夜にしか起こらないと記されている。そう、突風が吹いたなら、狸囃子はその時点で宴も酣、お開きなのだ。
だから、そう。あの日、尾上が何故三ツ目橋の上に行きたかったのかも、本当に狸囃子が聞こえていたのかも知らないが、考えるに、尾上は死にたがっていたのではないかと思ったわけである。
「そうしないと――なんです?」
「……いや、身の危険を感じただけだよ」
「私のこと危険人物だと思ってます?」
コマを送り届けた後の車内。私が言い淀んだ先を尾上が聞いてくる。私は彼女が自殺を図るのでは口に出かかったが、それを言ってもいいものかと慎重になり、誤魔化した。身の危険を感じたのも本当のことだ。何せ彼女は私の家を何故か知っているわけであるから。
しかし、だがしかしと脳内で不安や躊躇いが転がる。このまま適当な軽口を言い合って、何事もないまま帰っていいものか。そもそもここには狸囃子の真相を確かめる程で来たのに、それを無視していいものか。海に追い詰める話はどうなったのか。
私は意を決して口を開く。
「なあ、狸囃子は聞こえるか」
おそらく尾上も忘れていたのだろう。海に来た楽しさか、それともコマという迷子に遭遇したからか。彼女はバツが悪そうに目を伏せた。
いい傾向なのだ。一時的でも幻聴を忘れて楽しめたというのは、精神疾患において有効なのだ。でも、そもそもその幻聴が嘘だったなら?
「憶測だが、先週、俺が助けた後に狸囃子が四六時中聞こえるっていうのは嘘なんだろ」
狸囃子は風の無い夜にしか聞こえない。それが朝から聞こえるというのはどう考えてもおかしい。幻聴か嘘か。判断はつかない。でも、あの時の尾上は幻聴に悩まされているというよりも、そうであってほしいと願い演じているように思えた。
「なんでだと思います?」
尾上は肯定も否定もすることなく、そう聞いた。それは、何故嘘をついたのかという意味。私は少しだけ思案するフリをして答えた。
「俺に惚れた?」
「……」
「ごめん嘘。助けて欲しかったんだろ」
尾上の冷ややかな笑みにすぐ訂正する。
人通りの少ない小雨の降る夜の河川敷で、自殺しようとした自分を助けてくれた人。そんな奇跡のような人物に縋りたくなったのだ。今にも切れそうな蜘蛛の糸でも、掴んでいる間は安心できる。私は尾上にとってそういう人物だったのだ。地獄から救い出してくれる一縷の望みだった。それが本物であろうがどうであろうが、側にいれば安心できたのだ。
そんな彼女にとっての地獄。それは高校三年生という彼女の環境。とするならば、鬼は母親か。「父は厳しくなかった、厳しかったのは」尾上の言葉の続きを予想する。でも、これは憶測だ。真実は彼女の口からしか聞けない。
「良かったら話してくれないか」
「……地獄を、ですか」
「そうだな、色々聞きたいこともあるが。あ、いや、無理に聞きたいわけじゃない」
尾上は諦めたように笑って、一つ一つ話してくれた。受験期のストレス。母親の厳しさ。何も知らない父の無責任な言動。ありきたりな、彼女だけが知る地獄。私は静かに聞いた。私もそうだと同意して、どうなるのか。カンダタは同じ地獄の亡霊を蹴落としただろうに。
そんな地獄の中でさえ、手を差し伸べてくれる者はいて、ついつい期待してしまったのだと尾上は笑う。
「迷惑、でしたよね」
「ああ、大迷惑だ」
「……」
「迷惑だから、今度はタヌキ抜きで話そうぜ」
「実は俺、タヌキが苦手なんだ」と恥ずかしそうに笑った。尾上も「なんですか、それ」と気恥ずかしそうに、それでもどこか肩の荷が降りたように笑った。
とりあえず、処方薬は打てたようだ。でも、まだ少し、彼女を救うにはこれでは足りない。
その後はゆっくりと東都へ帰った。途中、時勢なのか節電している蕎麦屋でたぬき蕎麦を食べて、尾上が行きたいと言った場所に寄り道したため、すっかり日は暮れていた。
「本当に家まで乗せるつもりですか」
「当たり前だろ。夏が近いとはいえすぐに暗くなる」
それに、尾上だけ私の家の場所を知っているのは不公平だ。尾上はしばらく沈黙していたが、長い信号に捕まった時に深々とお辞儀をした。
「先輩、今日はありがとうございます」
「なんだよ藪から棒に」
「それで、先輩が聞きたがっていたこと、教えようかなと思いまして」
「藪から棒だな」
尾上はまるで長年秘密にしていることを告白するように一呼吸置くと、意を決して言った。
「コマちゃんの親を見つけた時、私、聞こえたんです」
「何が」
「祭囃子」
「まだ梅雨時だぞ」
「それに、先輩が言う通り、四六時中聞こえるというのは嘘で」
「……はい」
「先月から聞こえているというのは本当です」
聞けば、狸囃子が聞こえるようになったのは、母が合格祈願にタヌキの置物を買ってきてからだと言う。
「普通合格祈願はダルマじゃないのか。転んでも起き上がるからとか」
「母が言うには、ダルマは転ぶことが前提になっているのだそうで、タヌキは他抜き、つまり他を抜くから縁起がいいからと」
「なるほどな」
「ただ」と尾上は何か気になる点でもあるのか訝しげに呟く。
「どうして、私がペンを握った時に祭囃子が聞こえてきたのでしょう」
私はその答えを一つ思いつき、くすりと笑った。なんだと聞いてくる尾上に憶測だがと断りを入れる。
「タヌキの方がよっぽど受験勉強に詳しかったんだろ」
「どういうことですか」
「根を詰めて勉強しても失敗する。適度に遊べってことじゃないか?」
付け加えて言った。「今日みたいに」
そう言うと尾上は顔を綻ばせた。蜘蛛の糸を掴んだところで結局は地獄の住人。勉強もせず遊んでいることに何処か親に罪悪感があったのだろう。
それを解きほぐしたのは処方薬たる私ではなく、タヌキだった。どうやらタヌキを狩るために始まった尾上の物語はタヌキに救われる形で幕を下ろすようだ。