中
土曜日。時刻は午前九時。休日は昼過ぎまで寝ている私だが、その日はインターホンの音に目が覚めた。部屋中を震動させるその残響が鳴り止む前に、またピンポーンと音がする。
八畳一間のアパートは家賃の割に壁が薄い。二部屋隣のベーシストが真夜中に囁くブルースも、彼が金を取らないのが不思議なくらいよく聞こえる。
そんな、ベニヤ板を釘打っただけと嘯かれるほどの薄壁だから部屋に設置されたインターホンはアパート中に良く響く。
時よりどの部屋で鳴らされたのかわからなくなるが、壁掛けの受話器に付いたランプが赤く灯っているのを見るに、この部屋のインターホンが鳴らされているのは間違いなかった。
扉の前の主はそんなことは露知らず、馬鹿の一つ覚えでインターホンを鳴らす。
「せんぱーい。いるんでしょ」
続いてノック。一つ覚えたらしい。建てつけが悪く隙間風の入る扉をガンガンと叩く。これ以上音を鳴らされては敵わないと欠伸を噛み殺し、扉を開けた。
「あ、先輩。おはようございます」
「ああ、おはよう。準備するから……中で待ってて」
扉の先には尾上音色がいた。数日前に呼んだことを思い出す。狸囃子の後を追うのだ。尾上はタヌキ狩りだと息巻いていた。
しかし、その割に尾上の格好は、とてもタヌキ狩りには似つかわしくない。インナー上のクロップド丈のトップス。デニムのミニスカート。踝を覆うブーツ。猟師のような格好をしろというわけではないが、これは、些か、可愛らしい。狩りに行くというよりも、私は喉まで出掛かった言葉を飲み込む。
「なんですか?」
「……いや、可愛い格好だなと思って」
「あ、ありがとうございます」
私がそう褒めるとは思わなかったのか、尾上は気恥ずかしそうだった。「タヌキ狩りに行くんだよな?」そうは聞かなかった。
尾上はお邪魔しますと律儀に言った。その声はどこか嬉しそうだ。部屋に入るなり物珍しそうに見回して「……ちょっと、散らかりすぎっすよ」と苦言を呈した。
「普通、女の子を招待するなら少しは片付けるものっすよ」
「大学生ってのは、寝る場所と食べる場所が綺麗なら充分なんだよ。服着替えるから待ってな」
そう言い残して脱衣所に向かう。尾上から「そういう気遣いはできるんすね」と言われたが何のことかはわからない。ついでに、洗顔、髭剃り、髪のセット、歯磨きを済ませる。
口を拭て部屋に戻ると、三月に越してきたばかりの時と同じほど広々と感じた。
「片付けたのか? 悪いな」
「いいですよ。待ってる間暇だったので」
脱ぎ散らかした服は綺麗に畳まれ収納され、アナログ教授から配られた資料は棚に立てられている。ゴミも分別して袋に入れられている。後輩女子に気を遣わせた罪悪感が芽生えて、せめてという思いで朝食を振る舞った。ただパンとベーコンを焼いて蜂蜜を塗っただけのものではあるが、尾上は料理をすることに意外だと驚いた。
「それで、どうする?」
「何がです?」
「タヌキ狩り。俺は狸囃子が聞こえないから、尾上に道案内してもらうことになるだろ」
尾上はああと頷き車を用意したかと聞いた。もちろん抜かりなく昨日三日分の料金でレンタカーを借りている。大家にお願いしてアパートの数少ない駐車スペースも貸してもらった。
それを聞いて尾上は「まず、海に行きます」と言った。
「海?」
「はい。海です」
「なんで海?」
「先輩、八百八狸って知ってます?」
「もちろん」
八百八狸というのは隠神刑部という化け狸の眷属のことだ。隠神刑部は四国の有名な化け狸。その眷属である八百八匹の化け狸たち。おかげで四国にはタヌキの伝承が多いようだ。
「では問題。ジャジャン。四国にはタヌキの伝承が多い理由は」
「え? だからその八百八狸がいるからだろ」
「その通り。ですが」
「ですが問題だったのか」
「なんで彼らは四国から本州に来なかったのでしょうか」
「そりゃ眷属だからだろ」
尾上はまるで謎々を出すように質問し、私はそれに答える。考えるまでもない。彼らは隠神刑部の眷属なのだから離れることはしないのだ。しかし尾上はまるで正解を知っているように指を左右に傾けてちっちっと鳴いた。
「違いますよ先輩。彼らが本州に来なかったのは泳げないからです」
「眷属だからだろ」
「化け狸は海を泳げない。狸囃子のタヌキもきっとそのはず。だから海に行くんですよ」
暴論だ。とも思ったが、そもそも四国から本州までの距離をタヌキが泳げ切れるかはわからない。間の島々を経由するなら不可能ではなさそうだが、海水に何かしら拒否反応を示すかもしれない。
タヌキを海にまで追い込めば、その姿を拝めることができる可能性もなくもない。
「一狸ある……のか」
「ありますよ」
しかし、車で海に追い込もうにも、途中でタヌキどもを抜き去りそうだ。そう考えたが口には出さなかった。尾上も途中で気づくだろう。狸囃子が幻聴ではないのなら。
「そうと決まれば善は急げっすよ」
そんなこんなで駐車スペース。レンタルしたのは、スズキの軽AT車。尾上は格好良いのに乗りたかったと文句を言ったが、これを借りるのにどれほど時間がかかったか。初心運転者にベンツやポルシェを貸すような店が存在するわけもなく、このスズキだって目立ちはしないが、所々にキズやヘコミがある。
「右がアクセル、左がブレーキ。あれ、どうやってエンジンかけるんだっけ」
「なんか怖くなってきました。先輩、安全運転でお願いしますよ」
「まかせろ」
助手席に座る尾上に親指を立てて、スズキはエンジンを吹かす。免許を取ってから日が経っているので緊張する。
「よし。じゃあ、どっちだ」
「何がです」
「狸囃子だよ。どっちの方角だ」
「ああ、えぇと。あっち、です」
ナビを弄りながら狸囃子の方角を確認する。東都湾方面なら近かったが、この方角の海に行くには県一つを越す。それでもざっと二時間といったところ。長距離運転は初めてだが、まあ、何とかなるだろうとスズキは走り出した。
紆余曲折はない。車線変更をミスったり、合流をミスって煽られたり、古いナビなので遠回りさせられたが、無事に浜辺に到着した。事故もなく安全に来れたためついつい安堵の息が漏れた。
「なんとか無事に辿り着いたな」
「死ぬかと思いました」
「大丈夫だ。助手席にもエアバッグは付いているらしい」
「らしいって何ですか。断言してくださいよ」
「運転席には付いている」
「そっちじゃなくて」
海開きはまだ先だったが、意外にもいくつか海で泳ぐ人影が見られた。アレがタヌキかと尾上を見れば、ブーツを脱いで裸足になっていた。
「何してるんだ」
「海に来たので入るんですよ。先輩もどうです」
「……遠慮しておく」
尾上はすっかりタヌキなど忘れた様子で海に駆けていった。私は彼女の爛漫さに呆れ果てたが、幻聴を忘れられている今の状態はいい傾向でもあるので我が子を見守る父親のような温かさで見送った。
尾上が海と戯れているのをただぼーっと眺めていると、隣でザクザクとスコップで砂を掘っている音がする。どうやら三、四歳程度の子どもが近くで砂の城を作っているようだ。微笑ましく見ていると、子どもはまるで自慢するように笑った。何だと思ったが、子どもの目線の先は私の足元に向いており、どうやらそこには誰かが棒倒しでもした跡のような小さな山ができていた。
「お前はその程度しか作れないのか」ガキのなめ切った顔からそんな声が聞こえてくる。仕方がない。私は格の違いを見せつけることにした。
サイズの違うバケツをひっくり返して二段ケーキのような城を作った程度で自慢してくるガキにお灸を据えてやるのだ。砂浜遊びなど幼稚園以来だが、何と言っても私は東都襟糸大学の生徒。エリートたる所以をまざまざと見せつけてくれる。
まず、水と砂の量が重要だ。砂の城だからといって砂だけで作ればすぐに崩れてしまう。水の表面張力を利用して城の強度を高めるのだ。ガキが小さいバケツを一つしかよこさなかったので、それを何度もひっくり返して、4×4の正方形になるように土台を作る。その上にはそれぞれの接点に重ねるようにまたバケツをひっくり返して二段目、同じようにして三段目を作った。
続いて造形だ。城といっても日本式のものや西洋式のものがある。城ではなくとも高度な建造物は無数にある。今回はガキに耐え難い挫折感を味わせるために複雑なものを作りたい。となるとここは――。
「尾上ちゃんキィィック」
「ああっ、俺のサクラダファミリアが」
「完成するのが夜になりそうっすね」
「君のおかげでな」
私のサクラダファミリア(土台のみ)は尾上によるライダーキックにより跡形もなく消滅した。尾上は悪びれる様子もなく楽しそうに笑う。
「何してるんですか先輩」
「ガキに世の中甘くないことを教えるんだ」
「一言でいうと最低っすよ。ところでこの子何処から来たんですかね」
「ああ? その辺に親がいるだろ」
ぶっきらぼうに砂を集めながら辺りを見回す。人の少ない浜辺なので見通しがいい。だが、近くには親らしき人も、子どもを探す人もいなかった。
「おい、ガキ。親はどうした」
「コマ」
「は?」
「先輩、この子の名前じゃないですかね」
尾上は「ガキとかいうから」と肩をすくめた後、「因みに私は音色っすよ」と聞いてもいないことを言う。
「読みは『おじぎ』じゃなくて『ねいろ』っすからね」
「誰も間違えないだろ。音色」
尾上は恥ずかしそうに額を掻いた。尾上音色。拝みお辞儀。まさか親族の誰かが『礼』だったり『会釈』なんて名前じゃないだろな。
「それで、コマの親はどうした」
「わかんない」
コマは辺りを見てから首を振った。この歳の子どもは親と離れると泣きそうなものなのに涙一つ浮かべていない。逞しいものだ。
「んじゃあコマ、何処から来た」
「肥後」
「肥後? 肥後って何処ですか」
「熊本だろ」
「それじゃあ熊本の何処かな」
「千羽」
「タヌキを撃って煮て焼いて食ってそうだな」
「煮て焼くって。普通逆っすよね」
確かにそうだ。普通は焼いて煮る。肉汁や旨みを閉じ込めるためにそうするのが基本だ。煮ることで煮汁に旨みが流れてしまい、淡白になった肉を焼いて食うなんてありえない。
「いや、今はそんなことどうでもいいんだよ」
コマの親を探さなくてはならない。聞く限りこの辺りの子どもというわけでもなさそうだ。観光できたなら、何処かの旅館を取っているだろうか。
スマホを取り出し地図を開く。近隣だけで十数件の宿泊施設が判明した。
「何処に泊まるとかわかるか」
「わかんない」
「コマったな」
「ダジャレですか」
「言っとる場合か」
とりあえず交番に届けて、親が来るのを待つか。やれやれとため息をついて、交番の位置を検索したその時、尾上はまるで遠く離れた声を聞くように耳に手を当てた。
「こっちです」そう言って走り出す。
さては子どもを探す親の声でも聞こえたのかと耳を覚ますが、聞こえてくるのは波の打つ音と駆け抜ける車の音ばかりだった。
「何処向かってるんだ」
「多分こっちです」
私はコマを抱えながら尾上の後を追った。何処に向かって走っているのか、聞いても正確な答えは返ってこない。おそらく尾上自身も何処に着くのかわかっていないような気がした。
そうして数分走り続けたところで尾上が止まったのは、一軒の旅館の前だった。その門前には何処かに電話をかける男。
「パパ」そう言ってコマは手を伸ばす。どうやら男はコマの父親らしかった。再会に喜ぶ彼らを見送って、私たちは車まで戻った。
「先輩って何だかんだ優しいですよね」
車に着くなり尾上はそう言った。私は聞きたいことがあったが、それを切り出す前に、切り出されないように口を開いたように思た。
「何が」
「さっきみたいに迷子の子をほっとかなかったり」
「普通だろ」
「私みたいな会ったばかりの後輩のお願いを聞いてくれたり」
「そうしないと――」
「君はまた自殺を図っただろ」つい、そんな言葉が口から出そうになった。