上
狸囃子というものがあるらしい。
夜中、祭囃子の音が何処からともなく聞こえてくるが、音の出所へ向かっても、音は逃げるように遠ざかるという怪談である。本所七不思議では馬鹿囃子ともいうそうだ。
尾上音色が狸囃子に遭遇したのは先週のことだった。
小雨の降る河川敷。街灯も風もない暗闇を一人歩いていた時だ。前方から笛や太鼓の音が微かに聞こえたらしい。東都に生まれ住んで十八年余りになるが、この近くで祭りがあっただろうか。と、尾上は顔を上げた。
夜といえど河川敷。遮蔽物はなく見通しは良かった。遠くの街明かりさえ鮮明に見えた。しかし、祭りらしき灯りは一つとして見えはしない。
尾上は不思議に思ったが、祭囃子は自分の進行方向から聞こえたため、そのうち見えるだろうと歩きだす。
パラパラと降る雨がビニール傘に当たり、川に当たり、小気味良い音を出している。耳元で音を立てた大粒の水滴さえも演奏する楽器の一部にするように祭囃子が聞こえてきた。歩くほどに音は大きくなれど、その姿は一向に見えない。それどころか、目的地の三ツ目橋にも未だ辿り着けてはいなかった。近づいている気配すらない。
疲れたように立ち止まり息をつけば、突風が吹き荒れ傘を裏返す。次第に雨は強まり、掻き消すように祭囃子は逃げ出した。
しばらくして、前方から聞こえていた笛の音が今度は右の方から聞こえてきた。顔を向けても対岸の街明かりが照らすだけだったが、微かに人々の楽しげな笑い声も聞こえてくる。雨はその勢いを増して、その間を祭囃子が縫ってくる。
雷鳴が聞こえて足を踏み出した。見えないお祭への好奇心が背中を押す。泥濘を一歩進むごとに祭囃子は大きくなった。ザーザー降りのノイズは消えて、太鼓に合わせて心が弾む。
その時だった。
誰かに腕を掴まれて、後ろへ後ろへ引っ張られる。
驚きと恐怖の中、誰だと振り返ればそこには――
「先輩が居たんですよ」
私がいた。
東都襟糸大学の学生食堂にて、怪談を一つ語り終えた尾上はズズズと音を立ててうどんを啜った。跳ねた汁がセーラー服に付きそうで見てる方は気が気ではない。
「怪談のオチにされたのは生まれて初めてだ」
「いやいや、恐怖ってより、安心の方が強かったっす。マジ感謝っす。あそこで先輩が引き留めてくれなかったら、今頃海の中っすからね」
あの夜は局地的な豪雨だった。一瞬のうちに土砂降りになった雨は川を氾濫させ、道路を沈める勢いだった。それでも事故は一つも起きることはなく、臨時ニュースの美人リポーターが勇ましく外に出た時には小雨に戻っていた。
「まるで私を殺すためだけに降ったようなもんっすね」と尾上は笑った。
「そうか。なら、君のせいでペットのメダカが何匹か流されたことになる」
「それとこれとは話が違うでしょ」
尾上は口を尖らせて「メダカくらい」と言うが、その一匹一匹が今啜ってるうどんの倍の値段だと知ればどんな顔をするだろうか。
「一匹千円はくだらない」
「……先輩、上手い儲け話を思いついたんですが」
呆れるほど逞しい顔だ。世の中そんなにうまくいかないことを教えつつ、「それで」と聞いた。
「本題はなんだ? ただお礼が言いたかったわけじゃないんだろ」
憶測や勘のような不確かなものではなかった。そもそも感謝の言葉は一週間前に貰っている。そうではなく今日、平日にも関わらず、学校をサボり私を探し出して会いに来たということは、それだけの理由があるからに違いない。尾上は先ほどまでとは打って変わって、神妙な面持ちで頷いた。
「実は、聞こえるんです」
「何が」
「祭囃子」
「まだ梅雨時だ。夏祭りには早過ぎる」
「今も聞こえるんです」
「駅前の耳鼻科はヤブ医者だぞ」
「真面目に聞いてくださいよ。あと幻聴は精神科っす」
「ああ、精神科はみんなヤブだ」
「なんで知ってるんです?」
聞けば、それが聞こえ出したのは一ヶ月も前からだという。夜中勉強しようと筆を待てば微かに太鼓の音がした。しかし、羽虫ほど気になるものでもなく、筆を置けば不思議なことにピタリと止んだため、医者に相談することもなかった。それが無視できなくなったのは、先週。つまり、あの大雨の夜の後。
それまで遠くで鳴るだけだった囃子の音が鮮明に耳元で鳴るようになった。
初めてはっきりと聞いた祭囃子が所謂イヤーワームとなり思い出されているのかと思ったが、確かに鼓膜を揺らして耳に届いているらしい。筆を持つ持たないに関わらず、家の中に居ようとも、学校に居ようとも。朝であろうと、寝ている最中であろうと構わず何処かで鳴り響いているのだと。心なしか、尾上の眼の下にうっすらクマが見えるのもそれが原因なのだろうか。
「気のせいじゃないのか」
「気のせいじゃないんです。ほら、聞こえるでしょ。笛が、太鼓が、鉦の声が。ずっと遠くで呼ぶように鳴っているんです」
ほらと言われてもそんな物は聞こえない。せいぜい学生達の食器の擦れる音や、厨房の音がそれらしくはあるだろうか。強く吹き荒れる風が笛の音と言われればそうかもしれない。どれも不協和音だ。
「呼んでいるって言うなら、追いかけたらどうだ」
「先週死にそうな目に遭ったのにですか? 四六時中、所構わず聞こえるようになったのも、追いかけたせいですよ。とても一人では追いかけられませんって」
何故か一人でという言葉が強調された気がしたが、きっと気のせいだろう。私は人生の中で最も自由な時期だと言われる華の大学生ではあるが、大学生だからこそ、将来の為に教授に媚び売りGPAを稼がなくてはならない。最悪受験期だけ努力していればいい高校生とは違うのだと、正しく受験生である彼女が此処にいる理由が脳裏に過ぎり、苦い顔をする。
尾上音色。東都高校の三年生らしい彼女と私は、つい先週まで何の面識もない赤の他人だった。いや、今日の朝、彼女がアパート前に突っ立ているのを目撃するまではそういえばと思い出し心配する程度の希薄な関わりだった。助けた夜から彼女とは会うこともなく、連絡先も知らないためその後の安否もわからなかったからである。
かと言って、大学に行こうと玄関を開けた時に、何処で会ったかも定かではない女子高生が立っているのを見て、「ああ、あの時の。元気そうで良かった」と元気な彼女の姿に喜び気さくになれるはずもなく、「はっ? え、誰? あっ……ああ、あの時の。えっなんで俺の家知ってんの」と元気な彼女の姿に戸惑い恐怖するばかりであった。
やや警戒気味の私とは対照に尾上は快活だった。去年まで東都高校の生徒だった私にも「なら先輩っすね」とわざとらしい後輩ムーブをかましてくる。おかげで変質者に出会したような恐怖は柔らぎ、彼女の話を聞く気にもなった。ただ、その明るさも何処かヤケクソに思えるのは、件の囃子のせいなのだろう。
そんな可愛い後輩は、うどんの無くなったスープを箸でくるくると回すと、顔を上げて言った。
「そこでですね先輩」
満面の笑みだ。多少やつれてはいるが、そのあどけなさには魅力がある。
「タヌキ狩りに行きませんか?」
しかし、続けて出たのは暴力的言葉。おおよそ女子高生とは無縁の華のない言葉。私は予想に近しい言葉に呆れ果ててため息を吐いた。
「行かない」
「なんで」
「タヌキが可哀想だ」
それを聞いた尾上はワナワナと怒りを込み上げているのか、それとも私に同意して葛藤しているのか、どっちとも言えない顔を考え込むように伏せていた。
「そもそも何でタヌキなんだ」
「狸囃子っすよ。はじめに説明したでしょう」
先週の話の出囃子に聞いた怪談話。それを私は微塵も信じてはいなかったが、どうも尾上は本当に自分がタヌキに化かされたと思っているらしい。
「今も奴らが腹太鼓を叩いているせいで、受験勉強にも身が入らないんです」
「なら、破裂するまで叩かせろ」
「タヌキが可哀想なんじゃないんですか」
狸囃子なんてストレスによる幻聴だろうと一蹴するのは簡単だが、それで尾上が納得するとは到底思えなかった。音楽でも聞いて掻き消せばと、ポケットにしまったワイヤレスイヤホンを貸そうかとも思ったが、家を調べ上げ押し掛けてくるような異性に渡すのはどうかとも思い止まる。
「タヌキ狩りの理由はわかったが、大体、なんで俺なんだ? 家族や友人、精神科の先生にでも話したらどうだ」
「話せるわけないっすよ。話した所で信じてもらえないですし」
「それは、まあ、そうだろうな」
実際、私も話半分で信じてはいない。たとえ親しい間柄だったり、法螺話を年中聞いている医者だとしても信じることはないだろう。「タヌキが祭り騒ぎを起こしているのでついてきてください」なんて馬鹿みたいだ。ああ、なるほど。だから馬鹿囃子。
そんな馬鹿話を信じてくれと藁にも縋る思いで私の元に来たのだとすれば、それを薄情に断るのも夢見が悪い。ここで見捨ててしまうなら、あの夜助けたのは気まぐれだったのか。
「わかったよ。タヌキ狩りには興が乗らないが、その狸囃子の真相くらい確かめるのも悪くはない」
そう言うと、尾上の顔はパァと華やぎありがとうございますと感謝を述べた。どうも女っ気のない学生時代を過ごしてきたものだから、探偵よろしく家を調べ上げる激ヤバ女だとしても面と向かって感謝されるとむず痒い。
一時半。横目で時計を確認する。今からタヌキ狩り……狸囃子を追いかけても、夜には終われるだろうか。制服でいるということは、親には内緒でここに来ているのだろう。学校から連絡も行っているはずだ。今日は早めに帰すべきだろう。それに、たったの数時間で見つからないものを探して見つかりませんで尾上が納得するとも思えない。
「ただし次の土曜日だ。学生なんだから学校にはサボらず行っとけ」
「なんか先輩、お父さんみたいですね」
「君にお父さんと呼ばれる筋合いはない」
男に生まれたからには一度は言ってみたい台詞。だけど聞きたくはない台詞。尾上はますます父みたいだと笑った。
「なんだ? お父さんは厳しいのか?」
「いや、厳しかったのは……」
そこまで言いかけて尾上は黙ってしまう。沈黙の中、食堂に集まる学生の好奇の声が聞こえてきた。つまり、セーラー服の少女と並んで飯を食っているというのは中々に目立つらしい。
私は早々と皿に残ったカレーを掬い上げ、席を立つ。慌てて尾上もつゆに残った天かすを口に運んだ。思えば、彼女が食べているそれはタヌキうどんだった。
「まあいい。とにかく土曜日だ。午前中、都合の良い時間帯に家に来てくれ」
「あ、先輩それなんですけど」
まだ何かあるのかと足を止める。その時ふと冷静になって、家に来てくれというのも中々に危ない発言だったなと自責した。それにしても、住所を教えていない相手に家に来いとは脳が混乱する。尾上は私の発言を気にも止めず、にんまりと笑った。
「ドライブしましょうよ」
「ドライブ?」
「そうです。なんたって、タヌキは車より速くは走れないでしょうから」
確かにそうかもしれない。大昔に自動車があれば、タヌキは人を脅かさなかっただろう。狸囃子が聞こえた方向に突進するだけで夕飯が決まる。妖怪が文明の利器に敵うはずない。
うん。それはいい。それはいいのだが――。
「俺、車の免許持ってること言ったっけ?」
まだ夏休みでもないのに、一回生である私が免許を取っていると何故わかったのだろうか。アパートには駐車スペースはなく、車なんて大家のものしかない。大学生はみんな車を持っているとでも思っているのか。探偵幻聴少女の思考は読めない。まったく、謎は深まるばかりだ。