プロローグ ~『修羅場は突然に』~
「俺は君を愛するつもりはない」
シンシアが目を覚ますと、そこは修羅場だった。眉尻を吊り上げた端正な顔立ちの男が、苛立たしげな声をあげている。
(この顔、どこかで……)
記憶を探り、浮かんできたのは、クルメンツ公爵家の長男、レオパルドの顔だった。
ただし彼女の記憶の中にある彼は、もっと幼い少年だった。目の前の彼は背が高くなり、美しい黒髪黒目の顔付きは妖艶さを纏っている。青年に成長した彼の顔と記憶に乖離があったのだ。
「俺の話を聞いているのか、クラリス」
「クラリス?」
「まさか自分の名前を忘れたのか?」
鼻を鳴らして笑うレオパルドだが、シンシアにとってはそれどころではなかった。
(まさか……)
いつもより低い目線に違和感を覚えていた。周囲に視線を巡らせ、ここがクラリスの私室だと気づく。令嬢の部屋ならば、鏡の一つくらいはどこかにあるはずだ。
(見つけました!)
机の上に置かれていた手鏡を手に取る。そこに映し出されたのは、孫娘のクラリスの成長した姿だった。
透き通るような銀髪と澄んだ青い瞳が特徴的な彼女だが、度数の強い眼鏡と地味な服装のせいで華やかさはない。磨かれていない原石のような容姿に、笑みが零れてしまう。
(着飾らないのは私譲りですね)
シンシアの若い頃は、地味な部分まで含めてクラリスと瓜二つだった。異性にアピールする暇があるなら商会を大きくしたい。彼女は根っからの商人だった。
「うぐっ――ッ」
不意に頭痛が奔る。続いて、走馬燈のようにクラリスの記憶が頭に流れ込んできた。
記憶の中には、シンシアが亡くなったことや、引きこもりを脱して学園に通い始めたこと、そして修羅場の理由までもが含まれていた。
数秒、痛みに耐えると、すべての記憶が蘇り、現状を把握するに至る。ここはシンシアが亡くなってから五年後の世界で、彼女は孫娘のクラリスとして転生したのである。
(海千山千を乗り越えてきた私でなければパニックになっているところですね)
商会を率いてきたシンシアは、非合理な現実を受け入れるのも早い。すぅと息を吐き、目の前の男と向き合う。
「体調でも悪いのか?」
「いえ、もう頭痛は収まりました。話を戻しましょう。私を愛することはないとのことですが、私は一向に構いませんよ」
「本当か⁉」
「ええ、私もあなたを愛することはありませんから。お互い様です」
クラリスの記憶が頭の中に流れ込んできたことで、レオパルドとの関係性も知ることができた。二人は婚約者だったのだ。
愛し合っていない二人が婚約を結んだのには訳がある。シンシアが亡くなった後、彼女の経営していた商会は勢いをなくした。
今もまだ王国一の大商会であることに変わりはないが、上流貴族とのパイプが弱くなり、売上が低下してしまったのだ。
(ルドルフは経営センスこそ一流ですが、貴族との付き合いだけは不器用でしたからね)
そこでルドルフは貧乏貴族として有名なクルメンツ公爵家に目を付けたのだ。両家が縁談を結べば、公爵家の親戚となる。貴族の社交場でも一目置かれる存在となるのだ。
一方、クルメンツ公爵家にとっても利益がある。クラリスを妻として迎え入れれば、商会から資金援助を受けることができる。貧乏な生活から抜け出せるのだ。
(孫娘のためにも、上手く立ち回る必要がありそうですね)
シンシアは転生したものの、いつ成仏して現世を去るか分からない。彼女が留まっていられる内に、クラリスにとって暮らしやすい世界を作っておきたかった。
「クラリスが聞き分けのある人物で助かったよ。これで俺は本当に愛する人と幸せになれるな」
「ん? どういうことですか?」
「だからお互いを愛することはないと了承したばかりだろ」
「はい。ですが、それとこれとは話は別。浮気は駄目ですよ」
「はぁ⁉」
予想外の答えだったのか、レオパルドは声を張り上げる。
「浮気をされては、私が夫を外で遊ばせていると悪評が流れますから。互いに愛することはありませんが、他に愛人を作ることも許しませんよ」
「俺を束縛するつもりか⁉」
「はい。夫婦になるのですから、当然でしょう」
さも当たり前だと言わんばかりのシンシアの言葉に、レオパルドは納得できないのか、下唇を噛み締めて不満顔だ。
「納得できないのなら婚約を破棄すればよろしいのでは?」
「いいのか?」
「貧しい貴族は他にもいますから。私は別の殿方と結ばれることにします。もちろん、その際は我が商会の支援金を回収させていただきますね」
「我が家は困窮している。こんなもの、家族を人質に取られているに等しいではないか⁉」
「なら家督を弟に譲ればよろしいのでは? あなたが領主でなくなれば、私と結婚しなくてもよくなりますよ」
ただし、そうなっては公爵家の跡取りとしての暮らしはできなくなる。家督のない次男たちと同じく、街で働いたり、軍に所属したりすることで、身を立てなければならない。
「私の見立てでは、あなたは典型的な馬鹿息子ですから。家督を捨てれば、落ちるところまで落ちぶれるでしょうがね」
「失敬な! 俺には次期領主として相応しい才覚がある!」
「もしそんなものがあるのなら、我が家の資金援助を求めて婚約しないのでは?」
「う、うるさい! 黙れ、黙れ!」
「…………」
「本当に黙るな!」
「注文の多い人ですね……とにかく、あなたが選べる選択は二つに一つ。路頭に迷う覚悟で婚約を破棄するか、私との良好な夫婦関係維持のために努力するかです。お好きな方を選んで構いませんよ。私は優しいですから、どちらでも受け入れます」
「……どこが優しいんだ」
「何か言いましたか?」
「別に何も……」
子供を諭すような会話をシンシアは楽しんでいた。夫になればコントロールするのも容易いだろう。婚約者として悪くない相手だ。
「ふふ、まぁ、色々と脅しましたが、あなたは浮気なんてしないと信じていますから。これからも末永くよろしくお願いしますね」
「あ、ああ」
レオパルドは引き攣った笑みを浮かべる。その表情の裏には複雑な感情が隠されていたのだった。