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1987年の中国 チラ見 旅行記

作者: マボロショ

昔の旅行記ですが、古い文を転記しながら、特に、後半に書いてある考え方は、今、総選挙前にこそ、読んでもらいたいものがあると思いました。

昔の記録が見つかったので、転記する。


当時、中国は、まだ、経済的にも、軍事的にも、大国ではなかった。そのころの話。



今年の夏、中国の一部をチラリと見て来た。その感想の中から、いくつかを記してみたい。


「ずいぶん人間が多いなあ」というのが、最初に着いた上海で、バスから街を見たときの第一印象であった。その後、西安、北京、どこへ行っても、この印象が変わることはなかった。日本流に考えれば、平日の、誰もが会社で働いてるいるような時間帯に、けっこう、ぶらりぶらりと、散歩をしたり、観光をしたり、ショッピングを楽しんだりしている。そんな人が、街中にあふれている感じなのである。「何しろ、人口10億という国なんだからなあ」という言葉を、旅行中、口癖のように、私は、何度もつぶやいたことであった。


「若い女性はスタイルがいいなあ」とも思った、背筋がピンと伸びて、その上、脚が長い。いわゆる、8頭身スタイルが、まさに、わんさかいるという感じである。特に、28インチぐらいの、大きな車輪の自転車を、いかにも軽快に乗りこなしている姿は、まったく、ほれぼれする見ものである。しかも、夏物の洋服はスケスケの生地が流行しているようだ。かなり、目の保養が出来た。しかし、つつしみがないというか、行儀が悪いというか、イスにすわったり、地面にすわったりしている時、ヒザを開いて、マタをおっ広げているような女性が、ずいぶんいた。ツアーの仲間でも当然話題になったが、あんまりオープン過ぎるのは、やはり、色気を感じられないなあ、という共通の認識を、お互いに確認したことである。中国の公衆トイレは、ドアのない所や、境板のない所などが多いから、恥ずかしいなどという意識が、なかなか育ちにくいのだろう、というユニークな解説をしてくれた仲間もいた。


「中国人というのは、よい意味でもマイペース、悪い意味でもマイペースやなあ」という感想も、旅先のあちこちで感じた。実例をいくつか紹介してみよう。

「中国人は、どんなところでも寝きるなあ」と、何度も感心した。スイカを運ぶトラックのゴロゴロしたスイカの上で熟睡している男が、幾人もいた。露店を出している男が、商売も忘れて、イスや台の上に、ぐっすり眠り込んでいる光景は、数え切れないほど、何回も見た。日陰はもちろん、日なたで寝ている者さえいる。

西安に碑林という観光名所がある。石碑を何百も集めた博物館だが、大勢の観光客で、、雑踏のようになっている通路のそばの、一つの石碑の台に、口をポカンとあけて、首を変なふうに曲げて、実によく眠っている若者がいた。第2室にいた その男は、私たちが第3室を見て、第2室に戻った時、まだ、前と全く同じ姿勢で眠りこけていた。私たちは、かれを指さしてクスクスと笑った。しかし、考えてみれば、ひとがどう笑おうと、どう言おうと、オレは眠いから眠っているんだ、というゴーイング・マイウェイ的な人生観が、彼らの眠りかたの中に、見事に体現されているのではないか。むしろ、あっぱれ、あっぱれ、というべきであろう。

マイペースとか、ゴーイングマイウェイとかいうと、当然、自己中心的な悪いイメージもついて回る。中国人の、そういう傾向が、一番端的に出ているのは、自転車、自動車を運転する時、そして、道を横断する時などであろう。オレが行くから、お前ら、遠慮せい、とでもいう感じで、、メチャクチャな運転をする。メチャクチャな横断をする。そのたびに、警笛が、けたたましく鳴らされ、怒鳴り声が交錯する、バスの前の方に乗っていると、横からの飛び出し、自転車の急な進路変更に、いつもドキリとさせられる。バスが急ブレーキを踏む、こちらは、ヤッタア!と思わず叫ぶ、しかし、事故にはならずにすむ。こんなことが、上海あたりでは、一時間に、二、三回は、ある。

西安では、一方通行の出口から入ろうとした大型トラックが、間違いに気づいて、バックしようとして、すぐ後ろまで突っ込んでいた自転車を、グシャグシャとつぶす場面を目撃した。孔子が、「仁」という言葉で、「思いやり」を説いた国だとは、とても思えないほど、自己中心的なところが、、交通マナーの悪さに、よく表れている。


「中国は広いなあ」ということも、行ってみて、初めて、その実感が分かった。上海から西安まで、ジェット機で2時間。日を替えて、蘭州まで、ターボブロップ機で1時間10分。また次の日は、嘉峪関まで1時間ちょっと。さらにウルムチまで、ジェット機で2時間と、これだけ飛行機を乗り継いでも、まだ、中国の西の端までは、届かないのだ。……水田地帯の所では、ずーっと水田地帯が続き、山岳地帯になると、山岳ばかり。砂漠地帯になると、砂漠ばかりが延々と続く。しばらく眠っていて、目が覚めた時、窓から下を見て、「あれ? まだ砂漠が続いている! 」と、言いたくなるほど単調な光景の連続なのである。砂漠地帯をバスで行く時は、4、5時間、トイレ休憩をする所がない。それぐらいの覚悟をしておいた方がいい。


これだけ横幅が広い国だと、海岸部と西域とでは、日没の時間などが、かなり違って来る、その上、中国では、夏時間という制度もあった。ウルムチで、お日さまが西の山に沈んだときは、なんと、10時16分であった。敦煌では、ラクダの上から、砂漠に映った自分の長い影をカメラにおさめたのが、9時半ごろであった。その夜、11時過ぎに、星空をみていたら、人工衛星が2つ見えた。人工衛星は、日没以後、あまり時間が経ったら見えないはずである。日本では、こんな時刻に見えることは、絶対にない。中国の、それも、西の果てに近い所ならではの話である。そういえば、あの夜は、雲が全くなくて、天の川もよく見えた、ミルキーウェイという英語の言い回しが、本当に納得出来る光景であった。


「中国には日本人観光客が随分たくさん来ているなあ」 どこへ行っても、そう思った。

名所、ホテル、店、どこへ行っても、私たちの団体とは違う団体とカチ合う。ウルムチから、さらに、バスでで3時間という南山牧場にも、日本人の団体は、いくつも来ていた。

その南山牧場で、シシカバブーという羊の肉の串焼きをつくっている男に、「その、今振りかけているものはなあに?」と聞く。「ズラー」と答える。「ズラーって、なあに?」「ズラー」などとやりとりしていたら、「やっぱりI 先生やった。声が、どうも、そんな声だと思ったよ」と、声をかけられた。なんと、別の団体で、ここまで来ていた、小倉南高校のK先生であった。私が以前、同校に勤めていたころの同僚である。そして、私が小倉西に転勤してからは、彼の奥さんと、同教科、同学年を担当していた。ついでに言えば、彼と彼女は、昔、私が今勤めている学校に同時に在籍していて、それが縁で、やがて結婚したというエピソードの持ち主でもある。そんなK氏と、まさか、こんな所で会おうとは! しかも、氏は、私が気に入ったウルムチの街を、「こんなの、問題にならん。カシュガルがよかった。ここまで来たら、カシュガルまで行かにゃあ」と言う。この一例をもってしても、いかに日本人観光客が、中国の西の果て、山の奥まで出かけているか、よく分かるのではあるまいか。


その、われら外国人観光客に対して、中国側は、いろんな意味で特別扱いをする。まず、日本円を中国元に変える時、外国人専用の特別なお金をくれる。その金を、外国人専用の店で使って買い物をするのが、われわれの一般的な買い物のパターンである。その場合、中国人が中国元で買う価格より、かなり高めに定価がつけられているようだ。宿泊費や交通費なども、中国側は、外国人からガッポリ取ろうという姿勢を露骨に見せる。そういう点、コチンと来るところもあるが、その分、VIPのように扱ってくれて、ありがたいこともあった。どこへ行っても、名所の近くまでバスで行ける。かわいそうに、中国人は、相当離れたところで、もう、バスでから降ろされて、弁当を下げて、テクテクと歩いて行かなくてはならない。体力に自信のない私としては、特別扱いされるのは、ありがたかった。

しかし、こちらが、ちょっと余計にお金を払っただけで、そんなに厚遇を受けているのに、中国の人々が、暑い日差しの中を、長いこと歩いているのを見ると、申し訳ない、すまない、恨まんでくれよ、という気持ちにもなった。われわれのバスに石を投げつけた女性がいたという話を聞いて、その人たちのイライラが、私には分かるような気がした。もっとも、日本人に冷ややかな目を向ける中国人は、私が予想していたよりも、結果的には少なかった。「日本人から、戦争中、相当いじめられた経験があるのに、よくもまあ、こんなにおおらかな態度で接してくれるもんだ。さすが大陸の人々は気持ちが大きい」と感心してしまった。日本人が置き去りにした孤児たちを、長い間、大事に育ててくれた人が たくさんいる国だ。なんだか、精神的なゆとりの奥深さというものが、日本人とはケタちがいに たっぷりあるような気がする。


「昔の中国の権力者たちは、メッチャラ、クチャラに横暴だったのだなあ」

月から見える唯一の建造物と、ガイドが自慢気にいうは万里の長城も、それをつくるために酷使された底辺の人々にとっては、苦役のシンボル以外には見えなかったのではないか。明の十三陵、故宮、天壇、そして、北京、西安のバカでかい城壁。私は、それらの観光名所を見ても、ただ、カッコいい、などとは思えなかった。つくるのに何年かかったとか、国の予算の何年分をつぎ込んだとか、そういう説明を聞くたびに、どれだけ多くの人々が汗を流し、血を流し、寒さと飢えに泣いたであろうかと、暗然たる思いであった。上に立つ者が暴君であればあるほど、大バカであればあるほど、その下にある国民は、一層つらい思いをしなくてはならない。現在のように、つぎの選挙では、もう選ばんぞ、というような抵抗の手段のない昔の人々は、だまって従うか、死を恐れずに権力者と戦うか、二つに一つ、他に道はなかったであろう。そういう意味からしても、権力者がムチャをしたら、つぎの選挙で、痛い目にあわせてやれる、民主的ないまの日本の政治制度は、ぜひ、大事に守っていかなければならないと思う。


「中国と二度と戦争をしてはならない」

これが、今度の旅の、私の最終的な結論である。ガイドの王さん、馬さんなどは、素朴善良をそのまま結晶にしたような人々であった。酒泉公園の泉に水を汲みに来ていた母娘、パオの横でホウキをおもちゃにしていた3歳くらいの子、つばのない白い帽子とヒゲがよく似合うウイグルの老人たち、その他、私の心をとらえた大勢の人々の国、中国。 そして、若いころから憧れていたシルクロード、西域の国、中国。人も自然も、豊かで奥深い。42年前まで、日本がこの国と戦争をしていたなんて。

それも、相手の弱みにつけ込んでの侵略戦争を、日本の方が仕掛けて行ったのだという。いくら善良な人々でも、自分の美しい国土を、他国の人間が踏みにじろうとすれば、必死になって抵抗するのは当然のことだ。なんとも、申し訳ない、すまない、恥ずかしい、二度とこんな愚かしいことを繰り返してはならない。

今、日本は、軍事予算の歯止めもなくして、軍事力強化に力を尽くしている。それに反対する人々の口を封じようと、国家機密法という、怪しげなものを作ろうという動きもある。日本が昭和の初めから たどった道と、実によく似ている。同じマチガイを、またもや繰り返すことになるのではないか。 戦争を始めれば、どちらの国の経済にもおおきなマイナスになる。国民は衣食住に困るだけではない。命までも奪われる。 政治が、そんな変な方向に進むのだけは、何としてもストップをかけなくてはならない。


「人間は、強い権力を握ると悪魔になる。そして、国民を犠牲にする。とんでもないことでも、平気でやれるようになる」……今度の旅で、私は、しみじみ、そう思うようになった。

戦争を始めるのも、そういう悪魔的な権力者たちである。かれらが、思想、言論の自由を弾圧しょうとするのは、自分に逆らう邪魔者を消してしまいたいからである。しかし、みなが持っている一票の力を結集して、反戦の声をあげれば、悪魔の暴走にブレーキをかけることも、不可能ではない。

旅の記念に買った掛け軸の詩も、砂漠で酔いつぶれた兵士が、「俺がヤケを起こす気持ちも分かってくれよ。こんな所まで戦争のため送られて来て、生きて帰れた者が、昔から何人いたと思うんだ?」という、反戦気分一杯の詩である。

平和であるからこそ、外国旅行も出来るのだ。

この平和を守るために、私たちは、どうすればいいのか。

権力者に悪魔の匂いがしだしたら、次の選挙の時、彼に勝利を与えなければいいのだ。

今の日本の政治制度では、それが可能である。憲法で民主主義が保証されているからだ。

つまりは、民主主義を守ることイコール平和を守ること、なのである。

権力者の横暴に堂々と反対出来る言論の自由も、民主主義の前提として、ぜひ、ぜひ、大事にしなくてはならない。


私の好きな漢詩に、「馬を駆って、天に届くほど はるばるやって来た。満月も、もうこれで2回目。

今夜はどんな所に泊まれるやら。 見渡す限りの大砂漠で、人家らしいものも、見えやしない」という趣旨のものがある。

自然の雄大さに比べて、人間が いかに ちっぽけな存在であるかを詠嘆した いい詩だと思う。

私は、ツアーのバスの中で、この詩を、中国語の読み方で、歌うように紹介した。

砂漠は、草木がないから、少しの雨で、すぐ洪水になる。その洪水で、線路が流されて、私たちの旅行計画が狂い、「飛行機も、宿も、取れるかどうか分かりませんが、とにかく、もう一度、飛行場まで戻ります」と言われて、時速100キロで6時間、砂漠を逆戻りする時のエピソードである。


確かに、大自然と比べても、国家権力と比べても、一人一人の人間は、吹けば飛ぶような、弱い存在に過ぎない。しかし、弱い者も、固まれば、団結すれば、まあまあ、強くなれる。

自然とも、権力とも、ある程度は、対抗出来るのだ。大型間接税というものを、一度は、みなで、押し戻したことだってあるのだ。庶民の力をバカにするな、と言ってやりたい。

考えてみれば、万里の長城だって、実際の作業をしたのは、権力者ではない。庶民の汗が作ったようなものだ。弱いはずの庶民でも、力をあわせれば、あんなデッカイことだって出来るんだ。


 限られた期間、地域だけの、ほんのチラリ旅ではあったが、考えさせられることの多い、意義深い旅であったと思う。

最後に紹介した詩、原文では、

「走馬西来欲到天 辞家見月両回円 

 今夜不知何処宿 平沙万里絶人煙 」です。岑参の「せき中作」という詩です。

「せき」は、石編に、つくりが責という字ですが、iPadでは、そんな字、出て来ません。

意味は、「砂漠の中で作った詩」という意味です。


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