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いままでで3大つらかったこと 4/5

 家のバリカンで頭を丸め直してから三週間ほどが過ぎました。僕は若きオーナーに働きぶりを気に入られ、近くにアパートを借りるよう頼まれていました。引っ越しは自家用車で済むような規模でした。24歳にして人生初めての一人暮らしでした。ただし、その一人暮らしは二週間で終わりました。

 一人暮らしを始めて一週間が過ぎた頃、お店に一本の電話が入りました。僕がこの前まで働いていた料理屋の店主からでした。お昼に2名での予約。店主はまさか電話の相手がちょっと前に店を逃げ出した小僧(こぞう)だとは夢にも思わなかったのか、全く気づいていませんでした。ただ、さすがに顔を合わせれば確実に気づかれる。この業界は狭い。僕はお店に迷惑をかける可能性があると考えて、若きオーナーにすべて正直に話して、そのお昼だけお休みを頂く許可を取りました。その辺りからでした。何か若きオーナーの僕に接する温度が下がっていくというのか。そんな感じがありました。

 だいたいのお店は一ヶ月間同じ献立です。その時に働いていたお店は9500円のコースだけでしたので、月の後半ともなってくると段取りがだいぶ頭に入っていました。アスパラと赤貝の下処理、三杯酢のジュレを作るボウルの準備、ゴマクリームを作るためのすり鉢の準備。今月一(いち)出来(でき)。若きオーナーからの指示をほぼ受けずに先を読んで先を読んで、若きオーナーの目の前に今から手をつける食材と料理器具を先回りして用意しきったその日のお昼でした。

「お前、才能ないわ」

 街の洋食屋さん。若きオーナーは熱々のハンバーグに手をつける前に僕にそう言いました。僕は言葉を失いました。

「それに、前の店にあれだけの迷惑をかけといて、よう平気で料理やっとんな」

 立て続けの強い言葉に僕は混乱しました。今日のあの動きを見ておいて才能がない? というか、なぜこのタイミングで前の店のゴタゴタの話? 休みの許可を出した時は何も言わなかったのに?

 しんと静まり返った中で、若きオーナーはさっさとハンバーグを胃袋に入れて席を立ちました。

「もう、店に来んでええぞ」

 前の店とのゴタゴタ。この業界は狭い。僕は前の店に足を向けることにしました。しっかり謝って、きっちり(かた)を付ける。そうすれば、若きオーナーのお店でまた働ける。

 僕はこのとき何も見えていませんでした。本当に何にも。

 若きオーナーがすでに去った席で僕は急いでハンバーグを食べ、電車に乗って前に働いていた料理屋に向かいました。

 もう、一生訪れることはないと思っていた場所。厨房(ちゅうぼう)には僕が知っている顔が店主を含めて4人と知らない顔が1人いました。知らない顔のひとは一生懸命、洗い場で山積みの調理器具を洗っていました。その人は間違いなく僕が開けた穴を埋めた人でした。

「すみませんでした!!!」

 仕込み中の時間。お店にお客さんはいない。僕は震えながら大きな声で厨房の皆さんに謝りました。僕が逃げ出してから三ヶ月が経とうとしていましたので、皆さんの中ではすでに終わった話という感じで、「もうええよ」と一番上の先輩が優しく言ってくださいました。店主からも「おれが育てられなかったのは悔しいけど、あの店は本物や。今んとこでがんばれ。次は逃げ出すなよ」と激励(げきれい)の言葉をもらいました。泣きました。めちゃくちゃ泣きました。笑われました。めちゃくちゃ笑われました。温かい空気に包まれた厨房で、僕は覚悟を見せることができて、元の料理道(りょうりみち)に戻れる資格を得られたのではないかと思いました。

「それでは夜の仕込みがありますので」

 僕はそう言って、深々と頭を下げて料理屋を後にしました。

“もう、(かた)付けてきたんか?!”

 帰りの電車に乗りながら、僕は若きオーナーに褒められることを思い浮かべていました。

 でも、現実は違いました。店に戻ると

「何しにきた?」

 と真顔で先ず言われました。

「いや、前の店で謝ってきて、許してもらえました」

「は?」

「店主からも、今の店で頑張ってこいと言っていただきました」

「そんなもん、知らんわ」

「え?」

「もう、お前は店に来んでええって言うたやろ」

「え、あ、いや、」

「うせろ」

 若きオーナーは店から僕を追い出すと、すぐに鍵を閉めてしまいました。

「なんでや・・・」

 僕は訳も分からず、頭を抱えながらアパートに戻りました。

 次の日の早朝、僕は市場で若きオーナーを待ち伏せしました。若きオーナーがいつもの八百屋に現れるとすぐに声をかけに行きました。

「おはようございます」

「消えろ」

「なんでですか?」

「うせろ」

「理由を聞かせてください」

「・・・・・・」

 若きオーナーが市場でそれ以上僕に口を開くことはありませんでした。

 何も分からないまま、僕はその足で実家に帰りました。

「なんでこんな時間にお前がおんねん」

 休日の父親は僕の顔を見るなり言いました。

「それが・・・」

 僕はいままでの経緯をすべて父親に話しました。

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