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いままでで3大つらかったこと 3/5

三つめ:社会人一年目からすぐに無職へ

 いまでも仕事で(つら)いことは起きます。でも、長くて暗いトンネル程度というか、いつかはトンネルから出られると分かっている部分があるというか。もしいまの仕事を辞めても、もう手に職があるので、そんなに選ばなければたぶんすぐに仕事を得られると思います。でも、無職になってしまったあの頃の僕は、全く将来が見えませんでした。闇しか続いているように見えませんでした。

 父親の背中を追いかけたくて、僕は大学卒業と同時に頭を丸めて飲食業界に飛び込みました。いまなら、そのときの気持ちと状況を分析できますし、今の僕がその時の僕に会えるなら、もしかしたらそのドス暗い闇への歩みを止めてやれるかもしれません。ただ、今の僕はその暗闇の中でもがきあがきして強くなってから明るい場所に出てくるところまでを知っていますので、やっぱり昔の自分に何か言うことができても止めておこうと思います。

 父親不在の話のときに話したと思いますが、僕は父親に認められたいという気持ちを当時強く持っていました。僕が料理の道を選ぶと父親に伝えたとき、父親は本当に嬉しそうにしていました。そして、それを見て僕の気持ちも一時的にとても満たされました。そのとき、もし自分が飲食業界に向いている力を持っていないという視点を持っていたら、いや、飲食業界を経験したことのない本人がその視点を持つことは不可能なので、父親や他の大人がその視点を持っていたら、いま僕は別の未来を歩んでいると思います。でも、そんな視点を持って僕のことを見てくれている人なんて本当にいない気がします。そもそもそういう力を持っている人は世界でもかなり少ないと思います。ここは宿命とも言うべき部分、つまり自分が必ず通る道だったんだと思います。

 父親の店ではなく別の料理屋で働き始めて三ヶ月。僕は無断欠勤をして、そのままその料理屋からフェードアウトしました。人間関係にもめたとかそういうのではなく、労働時間の異常な長さとひとつも好きになれない作業の連続が嫌になってしまいました。

 あまりにつらなくなって、料理屋とはまったく逆方向へ向かい、電車に乗って行ったところのない場所へ。途中の乗り換え駅で、二つ折りの携帯を逆に折って壊し、ゴミ箱へ捨てました。GPSで自分の居場所がバレるのを恐れて。おそらく当時の携帯にそんな機能は無かったと思います。完全に錯乱していました。

 行き着いた場所は永平寺でした。永平寺は山の斜面に建てられているお寺で、僕は一番上までのぼってから、ベンチに座りました。

 あー、人生終わった。そう思いながら、そのベンチに2時間ぐらいはいたと思います。このベンチから立ち上がって何をすればいいのか分からない。家に帰って何をすればいいのか分からない、というか考えたくない。

 永平寺から駅の方に戻ると、映画館で大好きなハリー・ポッターがやっていました。めっちゃ見たかったけど、まだ見ていませんでした。休みは週に一日だけ。とてもとても貴重な一日。映画は2時間ぐらいが一瞬で過ぎ去ってしまうから、僕は見るのをそのとき止めていました。一瞬で2時間過ぎ去ってしまうなんてもったいなくできませんでした。大学生の頃はあんなに時間があったのに。社会人はみんなこんなもんなのかと思いました。そうじゃないことはサラリーマンになってから知りました。

 ハリー・ポッターを見終わると、僕は自分の心が少し元気になってきていることを感じました。そして、家に電話を入れました。母親はとても心配していました。朝にお店から僕が出勤していないと連絡があり、僕の携帯に何度も電話したそうでした。日はもう傾きかけていました。母親にこれ以上迷惑をかけてはいけない。その日はネットカフェに泊まり、僕は次の日に帰ることを母親に約束しました。

 無職になりました。父親から新しいお店を紹介され、面接に行きました。「ほとんど休まず料理をしています」とオーナーシェフ。僕は自分からそのお店を断りました。一ヶ月が経ちました。今度は自分で次にいくお店を見つけに行きました。新星、新鋭、新進気鋭。出店早々いくつもの有名雑誌に取り上げられたそのお店に僕はひとりで夜のコースを食べに行きました。

 とても清潔感のあるカウンター席が8席と趣きのあるお座敷がひとつ。そんな立派なお城を30前半ぐらいの若きオーナーがおひとりで切り盛りされておられました。

「いい時計をされていますね」

 若きオーナーが、カウンター越しから僕に声をかけてくれました。

「大学の頃にアンティーク屋で買ったものです」

 今はもうアンティーク屋にしか売っていないキングセイコー。手巻きのその腕時計は僕の大好きなものの一つでした。

「品があって、とてもお似合いですよ」

「ありがとうございます」

 僕は笑顔で応えました。そして、今日このお店に来た理由を表に出すべく若きオーナーに訊きました。

「料理はおひとりで全部されておられるのですか?」

「ええ。実はそろそろひとりぐらい雇おうかと」

「え、本当ですか?」

「ええ。だから、あなたに声をかけました」

「!!!」

「若いお客さまがそうそうおひとりでこのお店には来ません」

 他のお客さんの「すみません」という声。若きオーナーは僕に「では話はのちほど」と言い残して、颯爽(さっそう)と他のお客さんのほうへ向かって行きました。

 トントン拍子。運が悪かった分がやっと良くなって返ってきたと思いました。その若きオーナーは本当にカッコいい人でした。そして、さっきの会話のやり取りのようにパフォーマンスがとても上手な方でした。でも、その中にいくつも嘘が混ざっていたことを僕を含め、たくさんの人が見抜けていませんでした。

 新しく買った二つ折りの携帯電話で父親に電話を入れました。元気の無かった父親の声は(またた)く間に輝きを取り戻してくれました。また満たされました。本当に嬉しかった。このまま、ずっと褒められていたい、認められていたいと心の底から無意識にそう思っていました。周りはもちろん、自分さえも意識的に把握できていない欲望。それはとても危険な欲望でした。

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