人としての年齢と魂の年齢 1/4
斎藤一人さんが魂レベルに関して話しているCDか何かを何度も聞いた覚えがあります。買った本についていたCDだったか、身近に斎藤一人さんのファンの方がいらしゃったことがあったので、講演会で録音されたものだったか忘れてしまいましたけど、マザー・テレサはどんな服を着ようが魂レベルが桁外れだから、目の前にすると凄みを感じてしまうというようなお話だったと思います。もう魂レベルが高い人は何を着ようがどんな家に住もうが尊敬というか、畏怖に近いものを感じるんでしょうね。
例のごとく、話が逸れるんですけど、たぶん私だって斎藤一人さんを目の前にしたら畏怖を感じると思います。それは分かっています。でも、私が興味あるのは斎藤一人さんその人ではなく、斎藤一人さんの話のほうです。話す内容に興味がある。当然というのか、そういうことを言うと身近にいた斎藤一人さんファンから嫌われてしまうわけです。
じゃあ、誰かに執心したことはあるのかと言われればあります。悟りを開いてからの二十代後半はこの人の本ばかりを読んでいました。人間学という学問をひたすら拡げ、突き進んだ学者、安岡正篤先生です。もうだいぶ心は離れたと言えど、やっぱり司馬遼太郎先生と並んで好きですね。先生って呼びたくなってしまう。安岡先生はめっちゃお酒好きなんですけど、僕もその影響で好きになってしまいました。僕はご想像通りのちゃらんぽらんなわけで、もし安岡先生が目の前にいたら、喝! しか入れてもらえない俗物でしかないんですけど、なぜかその真っすぐ過ぎる生き様に惹かれました。本を読んでいるとふにゃふにゃの心が律されるような気持ちになる。本を離すと数分でまたふにゃふにゃに戻る自分がいるんですが、それは置いといて。
安岡先生は間違いなく悟りを開いていたと思います。陰隲録や老荘思想も熱く淡々と語っている部分からそう私は感じました。ただし、頭でっかちになることを常に戒め、実践という言葉を何度も使われており、学んだことをちゃんと実践するということを少ない口数でも多くを語る背中でもよく話すひとだったようです。この人は人生とは何かをこの世に伝える使命を間違いなく持っていたと思います。その理由は、生前に書き残した本が少ないことです。本人は本を書きたくて書きたくて仕方なかったのですが、ずっと東洋の思想や歴史、名著についての講義をしてほしいという依頼が全国各地からあって、それをほとんど断らず日本やときには世界を忙しく飛び回っていたひとでもありました。数は少ないですが安岡先生が書いた本を私も読んだことがあります。老荘思想の本です。感想は、「む、難すぃ・・・」でした。むっちゃムズい。漢字も稀代の学者並みにご存知の方とは知っていましたけど、いままで読んだことの無いような難しい漢字がドドドと押し寄せてきて、頭が痛くなって、100ページもめくらずに閉じました。




